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幸福なカナリヤ
遠く空を見上げると、薄曇りの雲の底が墨色に濁っている。ぶ厚い雲のベールに覆われて、太陽は地上に気の抜けたような光しか投げ掛けてくれない。しかし、雨が降っていないだけましだ。天気が悪いのはいつもの事だった。手元に目を向ける。玄関に程近い場所で花を咲かせている薔薇は、昨晩の嵐によってひどく傷んでしまった。真白い花弁に茶色く疵が走っているのを視認し、私は眉を顰める。
「花殻を早く摘んで頂戴」
「はい、すぐに」
庭はいつも美しくなければ気が済まない。敷地の外へ出ることの無い私にとって、「外」と言えばまず庭を指す。それが美しく保たれていないと、屋敷から出ることさえ苦痛になる気がした。雨の降り出さないうちに、庭を一回りしよう。見事に咲き誇る花を尻目に立ち止まる事もなく歩き続けた。庭は広大な森に囲まれている。兄が居れば時には猟もするのだが、今は森番が一人居るきりで殆ど放っておかれていた。動物は気侭に走り回り、鳥の声も伸びやかだ。耳を澄ませば、いつもの美しい鳴き声が聞こえてくる筈だった。しかし、今日に限って東の方角から聞こえてきたのは、踏み鳴らされる足音と不揃いな手拍子の、騒がしく耳障りな音だった。
「マクアダムス」
「はい」
一定の距離を保って散歩に付き添っていた召使は、すぐにこちらへ近寄る。
「あの音はなに?」
「音、と申しますと……」
「あちらから聞こえてくるものよ」
私は答えを待たず、森の方へ向かった。整備された芝生を抜けると、少しずつ足場が悪くなる。野の草の露が服の裾を汚した。慌てた様子で召使も追いかけてくる。すぐに追いついた彼は出し抜けに声を上げた。
「あっ、あれは……」
歓声のようなものも聞こえてきた。微かな声と音のみを頼りに木立に囲まれた道無き道
を進んだ。甲高い指笛が耳を掠める。確かに人の気配がしていた。
「お嬢様、そちらは危のうございます」
「静かになさい」
少し早足に歩いただけで、ひどく息が切れる。煩わしいことだ。どうにか喉が鳴るのを押し殺して先を急いだ。森は薄暗いが獣達の通った跡がある。人影らしきものが遠くに確認出来た。そっと近付き、木陰から様子を窺う。少しだけ開けた場所で、屋敷のあちらこちらで働く人々がわらわらと集まっていた。その先にあるものを見物しているようだ。私はじっと目を凝らす。一人の女の姿が見えた。彼女はきりりと背筋を伸ばしている。森の鳥がざわめいて羽搏いた。それを追うかの如く、彼女は跳んだ。高く、風に乗って。そのまま鳥になってしまうのではないかと思った。泥や何かで汚れた服さえも、あらゆる天候の中を飛んできた風切羽のようだ。私は息を呑み、彼女が地に足をつけるのを見ていた。まるで重さなど感じさせない。そのまま不思議なステップを踏み始める。その踊りは異国のもののようだ。見た事がない。
「お嬢様」
召使の大きな声が、彼女を取り囲んでいた者の一人に聞こえてしまった。彼はこちらを見るなりぎょっとした顔をして、慌てて帽子を取る。
「お嬢様だ、お嬢様が居らした」
中心に居た彼女は怪訝そうにこちらを見る。屋敷の者達は老若男女、皆立ち上がった。
「一体、何事なの」
私が問うと、背後に立っていた召使が耳打ちをしてくる。
「旅の芸人です。一座から離れたとかで、昨日から此処に」
広大な敷地を観光の為に訪れる者は少なくないが、住み込まれるとなると話は別だ。普通であれば追い出される筈だけれど、この場には屋敷の警備を担当している者も居る。彼も彼女の踊りに魅了されたのだろうか。鳥のようだった踊り子は、今はただ人々に囲まれ立ち尽くしていた。緑の瞳が木漏れ日の弱い光を反射している。彼女は睨むような視線をこちらに寄越してきた。眦は鋭く、いかにも勝ち気そうに見える。先程の柔らかな身体のしなやかさとは正反対の硬質な印象だ。
「もう少し、踊って下さらない?」
もっと見ていたい。もっと高く跳んでみせて欲しい。そんな風に思った。しかし彼女は何も答えてはくれない。
「お金なら払うわ」
「要らない。そんなもん」
ざらりと鼓膜を擦るような低い声が冷たく言った。踊り子は俯いて、強く波打つブルネットの髪で顔を隠してしまう。誰も、一言も発する事は無かった。鳥だけが暢気に歌っている。
「彼女を、屋敷に。私の客人としてしかるべきもてなしをして」
「お嬢様?」
小間使いの若い女が声を上げた。私が一瞥すると彼女は黙り、その場に居た男達が踊り子の腕を掴む。やめろ、と叫ぶ声を聞きながら、来た道を戻った。僅かに雲が切れ、木立が光を受け止めている。
私は自室に戻り、カーテンの閉じた窓辺に腰掛けた。自室と言っても、寝室ではない。ピアノと書棚、そして鳥籠が置かれている、遊び部屋とでも呼ぶべき場所だった。名も知らぬ鳥が鳴く。私は聞くでもなく目を閉じていた。鳥達は、兄が贈って寄越すものだ。一人きりで館に籠る妹への慰めのつもりなのだろうが、少々部屋が煩くなるだけで、何も変わりはしない。鳥は好きでも、嫌いでもなかった。
しかしあの踊り子はどうだ。襤褸を纏い、奔放に脚を晒して高く跳躍する様は、激しく私の胸を揺さぶった。彼女は初めて私自ら惹かれた鳥だ。それも、とびきりおてんばのようである。女中達の騒がしい声が聞こえた。どうやら浴室の方から響いているらしい。私は立ち上がり、手元に開いていた本を椅子の上に置いた。
大広間から遠い所にあるのが浴室だ。どれだけ大騒ぎをしているのか、好奇心も手伝って、ノックなど聞こえないであろうその部屋のドアを開ける。
「そっちを押さえて」
「痛い、痛いって言ってるのが聞こえないのか、あんたらは」
「お湯が沸きましたあ」
この屋敷に仕える女が一堂に会したかのように、女中を取り仕切る家政婦から洗濯担当の者まで入り乱れ、一人の女の身を清めようと躍起になっている。私がやって来た事にすら気付かない。部屋の墨に投げ捨てられていた泥で汚れ継ぎ接ぎだらけの服を、一人の女中が抱え上げた。
「ちょっと、私の服を返せよ。何処へ持っていく気だ?」
泡まみれの浴槽に浸かっていた女、踊り子は張りのある声で叫んだ。私はドアの手前で、その女中を押し止める。
「それをどうするの」
「お嬢様……勿論、捨てるのです。あんまりに汚いので……」
「やめろ、それは私のなんだ」
ようやく私の存在に気付いたのか、喧噪は大人しくなってきた。側に立っていた女中が辞儀をする。ゆっくりとその場を見回し、まず汚れた服と靴を持つ女中に声を掛けた。
「人のものを勝手に捨てるのは感心しない。洗って。担当の者はまずそちらに取り掛かりなさい」
「いけませんわお嬢様、このような場所においでになって」
女中頭である壮年である割に血色の良い女性、アナ・モースタンがやって来る。私は首を振った。
「この館で私が何処に居ようと、指図を受ける覚えはないわ。貴方、早く行って」
服を抱えた女中は困ったように私とアナの顔を交互に見ていたが、やがて一度頭を下げて部屋を出ていく。何人かの女中も彼女の後を追った。
「お兄様が悲しまれますよ」
「貴方が兄に手紙を書かない限り、悲しむ者は生まれないでしょう。アナ、貴方ももう行って。後は私がやるわ」
「私がやる、って……」
「彼女を洗うくらい、私にも出来る」
服の袖をまくり上げる。生白い腕に、節くれたアナの手が触れた。
「駄目です。お嬢様がなさるべき事ではありません」
「行って、と言った筈よ。全員外へ出て。元の仕事へ戻って」
ぞろぞろと人が去ってゆく。アナはその双眸に怒りを滲ませてこちらを見ていたが、やがて一人の女中に耳打ちをして浴室から出ていった。ぱちゃん、と水音が響く。アナから指示を受けた暗い顔つきの女中は出ていく様子がない。諦めて、浴槽に近付いた。
「……なんのつもりだい、お嬢ちゃん」
私は答えずに石鹸を泡立て、濡れて色を濃くしたブルネットの髪に触れる。
「虱がうつっても知らないよ」
「虱? ……どうしたら良いのかしら」
踊り子は呆れたように鼻を鳴らした。立っていた女中が棚から何かを取り出し、無言でこちらに差し出してくる。細かな歯を持つ櫛だった。ありがとう、と言ってそれを受け取ると、女中はまたもと居た位置に戻る。私は踊り子の汚れた髪を洗う作業に取り掛かった。髪の根本を泡で覆い、櫛で丁寧に梳いていく。慣れない作業ではあったが、やってみると面白い。先程はあれだけ騒々しかった踊り子も、何も言わず身を委ねてくれた。暫くすると女中がぬるま湯を持ってくる。物静かな彼女に手伝ってもらいながら、髪の泡を流した。心地良いのか、猫のように目を細めて踊り子は言う。
「何で、私に構う?」
私は答えに窮した。どうして今、彼女の髪など洗っているのだろう。日に灼けた肩口をじっと見ながら考えた。
「……女中達は喧しいでしょう。がやがやと囲まれて可哀想だったから」
無駄なものの一切ついていない引き締まった腕や、まるく湯の中で浮かんでいる豊かな胸。どれ一つ取っても、私とはまるで違う。これらのものから、あの踊りは生み出されるのか。自分の青白く骨と皮ばかりの腕を恥ずかしく思った。たっぷりと石鹸を馴染ませた布で彼女の背中に触れる。私の答えが気に入らなかったのか、そっぽを向かれてしまった。首筋に髪が貼りついている。恐る恐るそれを除けると、痺れを切らしたかのように踊り子は言った。
「私はあんたのお人形じゃないんだ。それを貸しな。自分でやる」
突き出された手に、泡だらけの布を差し出す。じろりと舐め回すような視線が私の頭から爪先までを撫で、また目を逸らされた。全身で拒絶されている。獣を相手にしているかのようだ。どうすれば良いのか分からず、呆然と身体を洗う彼女を眺めていた。横から、水の満たされた水盆が差し出される。櫛を出してくれた女中だ。手を洗うと、すぐに手巾が手渡された。私は伏し目がちに佇むその女中に尋ねた。
「貴方の名前は?」
「グレイナーです、お嬢様。ヘンリエッタ・グレイナーと申します」
冷たく物憂げな印象とは裏腹に、良く響く声で彼女は答えた。呼吸を外さない手際の良さといい、何故今まで名前を知らなかったのか不思議なくらいだった。
「そう。ミス・グレイナーかしら」
「いいえ、違います。ヘンリエッタとお呼び下さい」
「では、ヘンリエッタ。貴方に客人のことを任せます」
「かしこまりました」
そうして話している間にも、我関せずといった様子で踊り子は身体を洗っている。空気を包み込んでふうわりと浮かんだ泡が目の前を通り過ぎ、足元で弾けた。
虚弱体質を理由にロンドンへは殆ど行かないので、舞踊を見る機会も無かった。生まれて初めて見たと言ってもいい。舞踏会でのダンスとはまるで違う。身体すべてを使って、何かを表現していた。観る者に訴えかけてくるのだ。しかし、それが何であるのか、束の間垣間見ただけでは知る事が出来なかった。知りたい、と思う。単なる退屈凌ぎ以上の価値を、旅の踊り子に見出していた。
私は咳をひとつして、一向にページのめくられない本の角をなぞる。小鳥がか細く鳴いた。夜の訪れを告げているのだ。一見地味なその鳥は、連れあいを求めて夜通し鳴く。
兄は、このナイチンゲールに似ていた。正確には、ナイチンゲールになったのだ。私と同じく体の弱かった母は産褥熱で死んだ。父も一昨年、旅先で事故に遭いこの世を去った。以来、この家と財産、土地は全て兄のものとなった。賢明な兄は分かっているのだろう。私が、この家の役には立たないことを。血を繋ぐという使命をも、兄一人が背負う他ないのだと。兄の流した浮き名は私が聞き及んでいるだけでも両手では足りない。舞踏会では、一晩中壁際でじっとしている私とは違い、踊り疲れるまで女達の相手をしていた。つがいとなるべき相手を求め、魅力を振りまく。今宵もまた兄は、友人の屋敷があるという遠い地で、朝まで踊っているのだろうか。
「お嬢様」
薄暗い部屋に、小さく灯りが点った。召使が燭台を持ってやって来たのだ。
「夕餉にいたしましょう」
「ええ。すぐに行くわ」
ナイチンゲールが鳴き続けている部屋を出た。つがいを見つけてやれば良いのかもしれないが、鳥を買う予定はない。
食堂へ行くと、いつものように広いテーブルの上に質素な食事が用意されていた。一番奥の席に着く。すぐにまた扉が開き、燭台を持ったヘンリエッタが入ってきた。その背後から、背の高い彼女に劣らず上背のある踊り子が顔を覗かせる。胸にはしっかりと袋のようなものを抱いていた。恐らく、鞄だろう。
「荷物を置いて、座って」
そう声を掛けたけれど、彼女はより一層強く袋を抱いた。ぼろぼろになったそれは、時代遅れだが美しいドレスを汚してしまっている。どうやら、母の着ていたドレスを貸し与えたようだ。
「誰も貴方のものを盗りはしない。心配なら、このテーブルに載せておいて」
彼女は少し躊躇ったが、皿の置かれている私の斜向いの席に座り、その隣の椅子へ荷物を置いた。幾重にもフリルの重ねられた袖が揺れる。
「服の着心地はどう」
「……酷いね。動きにくいったらありゃしない」
仕立屋を呼ぶ必要がありそうだ。側に控えていた召使にその旨を耳打ちする。そうしている間にも、踊り子はパンを掴み、豪快にかじりつき始めた。食前の祈りもしないのか。彼女の一挙一動が新鮮な驚きを齎す。とは言え私も元より信心深い方ではない。等閑に祈りを済ませ、スプーンを手にした。澄んだスープに野菜の欠片が沈んでいる。
「近頃は景気が悪いの、お嬢ちゃん?」
唐突に、踊り子は言った。私は首を傾げる。
「どういう意味かしら」
「いやあ、こんな屋敷に招かれたんだから期待していたんだけど、随分しけた晩餐じゃあないか。此処は張りぼてのお城かい?」
ああ、と頷いた。少しのパンとスープ、茹でたじゃがいもだけ。こんがりと焼けた肉も魚料理も無い。こんな食卓は、確かに客人に出すものではなかった。
「客が来ると分かっていれば、もっと用意したのだけれど。私はあまり食べられないから、料理人も作らないの。きっと使用人達の方が立派な食事をしているわ」
皮肉なことである。雇い主がまるで貧乏な農民のような食事をしていることを、使用人達はどう考えているのだろうか。じゃがいもを口に放り込み、もごもごと踊り子は言った。
「私を踊らせたいなら、もとましな飯を出してくれないと。腹が減ってちゃ何も出来ない」
「ええ。明日からはそうしましょう」
小さくパンを千切って口に運ぶ。咀嚼するのも疲れてしまうのだ。医者にもよく食べるようにと言われているのだが、なかなか従う気になれない。食べることは生きることに近接している。煩わしくて嫌になりかけるが、避けるのは困難だ。
「……あんた、辛そうに飯を食うんだね」
踊り子の言葉に、息が詰まった。鋭い視線に射抜かれる。
「神様に感謝してる割には、ひどい態度だ。食べないんなら、私におくれよ」
「貴様、先程から失礼だぞ」
召使がとうとう熱り立って怒鳴った。踊り子はどこ吹く風でスープを飲んでいる。私は溜め息を吐いた。
「失礼なのは貴方よ。私の客人に対して……弁えなさい」
「しかし、お嬢様。あんまりです」
「それより、パンはまだある? 持ってきて頂戴」
彼女は腹が空いていたのか、あっという間に用意していた分をたいらげようとしている。もっと食べものが必要だ。そう言えば、誰かと食事を共にするのも随分久しぶりのことだった。二人の手元を照らす為に、蝋燭の数が増やされている。部屋は明るくなり、スプーンが煌めいた。私はそっとスープを掬う。これだけ質素な食事だというのに、料理人は相変わらず腕が良い。芳しい香りのする黄金色の液体を嚥下した。
ゆっくりと食事を終えた頃には、踊り子の為に角の客間が用意されていた。リネンはいつも余分に清潔なものが置いてある。快適に過ごせる筈だ。角の部屋を望んだのは召使だった。最も質素で、貴重品のある場所から遠い部屋。
「私は信用されてないんだろ」と、踊り子は言った。
「そうかもしれないわね」
廊下を歩きながら、私は頷く。適当にあしらう為の言葉だったが、この屋敷の人間全てに出会ったばかりの旅人を信用させるなんて不可能だ。否定は出来ない。
「信じてもらえなくても構わないけど、一度だって人から何かを盗んだことは無いよ」
振り返った彼女の緑色の瞳は橄欖石のように輝いていた。薄いラベンダー色の服は日灼けした肌に見劣りする。踊り子は、この屋敷の中でとてもちぐはぐな存在だった。
「どうだっていい。貴方が盗人だろうと、何だろうと」
彼女は険しく顔を顰める。
「じゃあ、私の何に興味があるんだい」
「踊りよ」
その問いには即答出来た。先導していた女中が扉の前で立ち止まる。
「……どうしてそんなに私を踊らせたいのか、分からない」
「理解してもらう必要は無いわ」
私は辞儀をして、言った。
「それでは、おやすみなさい」
角部屋の扉が開かれる。踊り子は返事もせずに部屋に入った。私も今日はとても疲れた。早く休まなければ。召使の持つ灯りを頼りに、その場を後にした。
夜のうちに逃げ去ってしまうのではないか、と思っていた。しかし彼女は翌日、遅くにのろのろと起き出してきた。鳥のようだと感じたあの時はあまりにも鮮烈な一瞬で、踊り子は何処にも留まらず飛び立ってしまうような気がしていた。しかし当然のことかもしれないが、彼女には羽根の代わりに自由意志がある。この屋敷に居れば雨風を凌ぎパンにありつけるのだから、妥当な選択だ。踊り子は丈の足らない寝間着のまま、大きな欠伸をして食堂にやって来た。
「おはようございます」
紅茶茶碗を置いてそう声を掛けると、彼女は途端に針のような視線をこちらに向ける。
「おはよう。もう昼近いけどね」
「ええ。食事の前に、して頂かなくてはならない事があるわ」
「なんだよ。腹が減ってるんだ、何もしたくない」
私は首を横に振った。
「少しでいいわ。仕立屋が来ているの。採寸をしなければ。隣の部屋でもうずっと待っている」
私が指で示した扉を一瞥し、踊り子はこれ見よがしな溜め息を吐く。
「私は私の服でいい」
「では、仕立屋にそう言って」
召使が扉を開けた。仕立屋の店主とその若い息子が不安そうに立っているのを、視界の隅に認めた。踊り子は彼らの持っている上質な絹を見つめる。
「売れば、それなりのお金になるわ」
私の言葉にぴくり、と肩を揺らしたが、落ち着いた素振りで踵を返した。
「そうだな。まあ、私を踊らせたけりゃ、服の一枚や二枚、安いもんだろう?」
ちっとも踊る気など無い癖に、そんな事を言う。去っていく彼女のしどけない後ろ姿を見ながら、私は難攻不落の城を前に右往左往している騎士の心情であった。
「……私には、お嬢様のお考えが分かりません」
扉を閉めるなり、召使はそう言って眉間に皺を寄せる。
「あの……客人を、どうなさるおつもりなのですか」
「さあ」
「は」
「私にも分からないの。どうすれば良いのか。何をしたいのか……」
旅の踊り子などの世話を焼いて、どうしたいのだろうか。我ながら上手くの見込めずにいた。何かを飼うのは好きではない。道楽にしても酔狂が過ぎるだろう。兄ではあるまいし、女性と見れば親しくなろうとするような性格でもない。女友達など居た試しが無かった。
「お嬢様がご存知ないのなら、私などに分かる筈もありませんね」
召使は紅茶を注ぎながら呟いた。とろりと濃い琥珀色の液体が白い陶器の中で渦を作る。
「貴方は、彼女を屋敷に招いた事は間違いだったと思う?」
私の問いに、彼は困ったような顔をしたが、すぐにいつもの澄ました表情を作った。
「いいえ。私にとって喜ばしい事ではありませんでしたが、お嬢様のなさること、正しいでしょう」
「私も間違うことはあるわ」
「お嬢様の過ちは、私などにとってはいつも正しい過ちなのです」
正しい過ち。奇妙な言葉である。その意味を尋ねようと口を開いた時、ばたんと大きな音が背後で響いた。踊り子が腹部をさすりながらやって来る。
「ああ、腹が減った。早く飯にしておくれよ」
昨日彼女につけた女中が、銀の覆いをかぶせた大皿を食卓に置いた。中からは湯気の立ちのぼる肉のパイ包みが現れる。私がそれから顔を背けると、丁度仕立屋達が部屋に入ってきた。
「どのようなものをお仕立てしましょうか?」
「任せるわ。けれど、普段着でもきちんとしたものお願い」
「仰せの通りに。お急ぎだとの事ですから、おおよその背丈は伺っておりましたので、出来合いのものを幾許かご用意したのですが」
「そう。全部置いていって。すべてよ」
彼女が着られるものなら、何でも構わない。仕立屋は喜色満面でいそいそと鞄を開ける。薄く柔らかな色合いの服たちの中に、はっとさせられるような赤がちらりと見えた。濃いが明るい、燃えるような色だ。私はそれに手を伸ばす。なめらかな絹の感触が指に心地良い。広げてみると、細身の袖は、引き締まった踊り子の腕によく似合うであろうと想像出来た。
「食事をするなら、きちんとした装いをする必要があるわね」
早速パンに食らいついている踊り子を見て、私は言う。彼女がこちらを睨んだ。深い緑の瞳には、炎がちらついていた。
「ヘンリエッタ、この服を彼女に」
「かしこまりました。お嬢様」
女中は服を受け取ると、まだもごもごと口を動かしている踊り子の手を掴んだ。
「さ、こちらへ」
「なんだよ、まだパイも食ってないってのに」
「お召し替えが先です」
やはり第一印象に似合わず、この女中は強くものを言う。彼女は踊り子を立ち上がらせると、こちらに向かいぺこりと一礼して手を掴んだまま部屋を出た。パン屑がほろほろと零れる。清められて艶の戻った色の濃い髪を目で追っているうちに、扉が閉まった。
「……食事はもういいわ」
「はい」
「手紙を私の部屋へ」
私は席を立つ。踊り子ばかりに構ってもいられない。領主不在の間にも、些末な面倒事は持ち込まれるのだ。兄の代わりに出来ることは何でもしている。そうしていないと、落ち着かない。役立たずの自分がのうのうと生きていることに耐えられなかった。使用人達は何も言わず、仕事の手助けをしてくれる。召使が持ってきた親類からの手紙は案の定下らない話ばかりで埋め尽くされていたが、げんなりとした気持ちを悟られぬよう上手い返事をでっち上げた。兄の筆跡を真似て署名を終えた頃である。部屋の扉が、ノックも無しに開けられた。
「やっぱり、その服は貴方によく似合うわ」
扉の前に立つ、真っ赤なドレスを身に着け髪を結い上げた踊り子は、まるで一端の淑女のように見える。もしくは一流の舞台に立つ女優、といったところか。薄く化粧までしているというのに、いかにも不機嫌そうな顔をしているのが残念だ。ふわりと裾を靡かせながら、彼女はこちらに近づいた。
「これで満足かい、お嬢ちゃん」
「いいえ」
封蝋を垂らしながら答える。
「貴方を着替えさせたところで、私は面白くとも何ともない。貴方の為のものよ」
次の手紙に取り掛かった。今度は借金の申し入れだ。この人物は以前も金の無心をしてきた。兄の不在を理由に断っておこう。顔を上げずにいると、こちらへ近付いてくる足音がした。どさり、と踊り子が机に腰掛ける。心底呆れたような溜め息が聞こえた。
「あんたは本当に、私の踊りにしか興味が無いらしいね」
「はじめからそう言っているでしょう?」
手元に座られ、ペンが上手く動かせない。踊り子の顔を見上げる。逆光が、彼女の輪郭を僅かに朧げなものにしていた。
「踊らないよ」
きっぱりとそう言い切られてしまう。
「……どうして」
「別に。見せたって意味があるとは思えないからさ」
煩わしげにリボンを取り払い、結っていた髪を解いてしまう。癖の強いブルネットが私の手元に影を落とした。
「私の踊りはね、あんたが思っているようなものじゃあない。男どもは私の脚や、腰を見ているのであって踊りを見ているんじゃないんだ。私はそいつらに縋って生きてきた。意味が分かるかい? お嬢ちゃん」
日に灼けた指が私に触れる。蠱惑的な仕草で喉元をくすぐられた。私は思わず眉を顰める。
「馬鹿にしないで。そこまで子供じゃないわ」
「へえ。それなら理解できるだろ。あんたみたいなお上品な人間が見るようなもんじゃないんだよ」
その口振りに、少し苛立った。見下すような口調は、私を都合の良い操り人形か何かのように扱う人間達と似ている。何も知らず、何も出来ない人形。そんな都合の良いものが、本当に存在していると思っているのだろうか。
「貴方の踊りの意味は、私が決めるの」
顎を持ち上げられたまま、言った。出来る限り強く踊り子を睨む。手紙を持つ手に力がこもった。踊り子は眦を決して、高く組んでいた脚を直す。
「これまでどんな意図があったのかなんて、知らないわ。この目にそれが映るわけでもあるまいし。ただ私は、私が美しいと思ったものをもう一度見たいだけ」
眦のきつい目が私を見下ろしていた。むきになって否定したのは、私が見惚れるほど美しいものを、彼女が言葉で貶めようとしたからだ。そんなことはさせない。あの森の中の一瞬は、彼女自身にも汚させるつもりは無かった。踊り子は訝しげに目を細めると、手を放して立ち上がる。
「……変な女。あんたの言ってること、さっぱり分かんないよ」
そう吐き捨てると、扉の方へ向かう。私は部屋を去られる前に声を掛けた。
「夕方、お茶をするわ。それまでに、ここを去るか、踊るか。考えておいて」
踊り子はちらりとこちらを一瞥し、赤い服を翻して扉の奥へ消える。あの鮮やかな赤を、インクが汚さずに済んで良かった。そんな事を考えながら、ペン先をインクに浸す。鳥の鳴き声が絶え間なく聞こえていた。
旅の踊り子がどうやって暮らしてきたのか。そんなことは想像に難くなかった。それでも構わないと思ったのは、彼女がその宿命とも呼べる生活に慣れていなかったからだ。私に見せたくないと恥じる程には、誇りを持って生きている。関心があるのは踊りそのものであって、踊り子本人の事情にはさほど興味も無かったけれど、燃える新緑の色をした瞳の強さは、彼女の生き様が育んだものだろう。その点は、好もしいと思えた。
仕事を終えると、私は画架と画布を用意させてテラスに出る。見慣れた風景だが、同じ空の色、木々の形は二度と見られない。教養の一つとして描かされたのは静物画であったが、そちらにはあまり熱が入らなかった。木炭を手に取り、目に映るものものをなぞっていく。広くて小さな、私の庭。西日が雲の隙間から柔らかく射し込んでいた。どのくらい描き進めただろうか。召使が午後の軽食を用意し始めた頃、甘い菓子の匂いに誘われたかのように、赤い服を着たままの踊り子が現われた。手には何も持っていない。私は木炭で汚れた手を拭う。
「……お茶にしましょう」
敢えて、先程提示した問いの答えは聞かない事にした。聞くまでもない。椅子に腰掛け、居心地が悪そうに庭を眺めている彼女に、召使が紅茶を差し出した。私はじっと踊り子が口を開くのを待つ。色黒の指先が林檎を手にした。
「此処の居心地は最悪だ」
独り言つように彼女は囁く。
「ベッドは高過ぎるし、どこもかしこも飾りだらけで落ち着かない。人が多い割に無駄な場所も多くて、気持ち悪い」
私は紅茶茶碗を傾けながら、ただ話を聞いていた。
「大体、あんたの道楽にしたって阿呆らし過ぎやしないかい。見ず知らずの人一人を家に置いて、その上屋敷の主より立派な食事を出すなんて……ま、そんな事気にもならないくらい、この家にゃ金が唸っているんだろうけど」
がりりと白い歯が林檎を噛む。仄かに酸味のある豊かな香りが漂った。私の鼻先を掠めて、天高き庭の方へ消えてゆく。風はテーブル掛けをはためかせ、私達二人の頬を撫でていった。
それでもさ、と踊り子は話を続ける。
「一座にはもう戻れない。無法者の旅芸人とあんた達は侮っているかもしれないが、破ってはならない掟くらい、私達にもある。それによって、私らはまとまっていられるんだから。人は一人じゃ生きていけない」
「貴方は、その掟を破ったのね」
「ああ」
踊り子は手にしている林檎を見つめた。丸く歯形のついたそれをテーブルに置く。僅かに転がって、皿に当たり止まった。
「座長の言うことは絶対。それが決まりだった。私には面倒なばかりの掟だったけど、ちゃんと守っていたんだよ。座長が私の育ての親を見捨てた、その時まではね。血の繋がりよりも濃い何かがこの世にはあるもんだ。あの人が踊りを教えてくれた。踊れなくなって、流行り病で倒れたあの人を、あの野郎、道端も同然の所に捨てていったんだ。私が客の相手をしているうちに」
唇を噛み締める彼女の横顔には、怒りと深い悲しみが滲んでいた。打ち捨てられた彼女の育ての親とやらは、恐らくもうこの世には居ないのだろう。
「それで、旅芸人の一座を離れたの」
私の言葉に、踊り子は無言で頷いた。大方、一人でも日銭を稼ぐ為に辿り着いたのがこの屋敷だったのだろう。せめてもう少し賑やかな土地で一人になればましであったろうに、こんな田舎で喧嘩別れをするとは、実に不運だが、彼女の責任だ。
私の召使は紅茶を淹れるのが上手い。花の如く香る茶を一口、飲み込んで、私は召使を呼ぶ。
「馬車の手配を。乗るのはこの方よ」
「え?」
驚きの声を発したのは踊り子だった。
「貴方の話からすると、此処からそう遠くない場所で貴方の大切な人は居なくなったのでしょう。領内の墓地で構わなければ、弔って差し上げることは出来るわ。マクアダムス、それと手紙の用意を。レズリー副司祭に話をしなければ」
「ちょっと待ちなよ。そりゃ、弔ってやりたいけど……もし私が馬車に乗って遠くへ行ったまま帰って来なかったらどうするんだい?」
それを想像して僅かな寂しさが頭を掠めたが、私は出来るだけ平静を装って言う。
「仕方がないわ。私は貴方に何かを強いることなど出来ないのだから」
踊り子は険しい顔つきで考え込んでいた。食べかけの林檎に蜂が近付く。召使がそれを除けた。長いようで短い時間が静かに流れていく。
「馬車を、用意して参ります」
「待ちな」
ようやく、彼女は顔を上げた。
「私は行かない」
「どうして? もし帰って来なくたって、追いはしない。恩を着せるつもりも無いわ」
「知ってるさ。それでも、行く気は無いよ。もう死んだ人間だ、亡骸だって、何処へ行ったか知れない。もう何も、してやれることは無いんだ……」
踊り子はぬるくなった紅茶に口をつける。そして、言った。
「でも、ありがとう」
それは彼女の深く低い声で初めて零された言葉だった。私は首を振る。
「いえ……」
夕暮れ時の空は珍しく晴れていて、踊り子の顔に深い影を生み出していた。彼女がどうして此処へ来たのか、それを聞いて、良かったのかどうか分からない。ともすれば、知らずにいた方が「踊れ」と言うことは容易かったかもしれなかった。それでも、私は痛みに似た喜びを感じていた。鋭い棘で胸の奥を突き刺されるような、苦い幸福だ。彼女はきっと、人の死が関わるような悪趣味な嘘は吐かない。身の上を語ってくれる程度には、警戒を解かれている。今はそれだけで充分に思えた。
あの日のお茶の時間以降、踊り子は私の後を四六時中ついて来るようになった。他にすることも無いからだろうが、雛鳥の如く側を離れない彼女を見ているのは奇妙な心持ちがする。食事は勿論、仕事や勉強をする時さえ、彼女は程よい距離を保ったまま近くに居た。近付き過ぎることも無いが、離れもしない。
久しぶりに外国語の教師がやって来たその時も、私の側に居た。ミス・エルザ・ベイツは私の家庭教師として長い間この屋敷に住んでいたが、彼女の家族が病で臥せりがちになったのを機に家に戻らせた人物だ。煩わしいお目付役が居なくなったことは有難かった。父を亡くしてから時期を見て首を切ろうと思っていたけれど、有能な女性から職を奪うのは忍びない。今は通いの教師ではあるが、充分な給金は与えられている筈だ。
「噂には聞いていたのですけれど」
さり気なさを装って、しかし好奇心を隠せない様子で彼女は言った。
「新しい鳥をお飼いになったのだとか」
「鳥?」
フランス語の詩を書き取りながら、私は聞き返す。
「ええ。兄上様がお贈りになったものではなく、薄汚れた野の鳥だと聞きましたよ」
ミス・ベイツはちらりと鳥籠を見遣り、そして窓際に座って物思いに耽る踊り子を盗み見た。ペンを置いて彼女に視線を投げ掛ける。聞こえていない筈もないが、興味が無いのか耳に入っていないのか、表情は変わらない。カーテンの隙間から雲の立ちこめる空を眺めていた。
「驚きました。貴方には分別というものをお教えしたつもりでしたから」
「野の鳥を飼うのは、分別の無いことなのですか?」
「小鳥ならいざ知らず、大層行儀の悪い鴉なのでしょう? 追い払うのが賢い行いというものですよ」
とうとう、踊り子がこちらを見る。しかし、怒っている風でも品のない口振りにうんざりしているようでもない。まるで観察するような、温度のない眼差しをこちらに向けていた。
「ミス・ベイツ」
私は踊り子の顔色を窺いながら口を開く。
「何か、誤解があるようですね。私は鴉など飼ってはおりませんよ」
「あら、そう?」
教師はあからさまに顔を顰めた。笑顔を作って続ける。
「誰から聞いたのかは存じ上げませんが、間違っています。私が先日屋敷に招いたのは、旅芸人の踊り子ですもの」
踊り子が驚いた様子ではっきりとこちらを向いた。ミス・ベイツに至っては手にしていた教本を取り落とす。
「領主様の妹御ともあろう貴方が、何を言っているのか分かっているのですか?」
「ええ、勿論です。本当のことを言ったまでですわ。彼女の紹介が遅れて申し訳ありませんでした。彼女は……」
「結構です。そんなことが聞きたいのではありません」
その時、忍び笑いが聞こえた。踊り子の声である。笑い声は次第に大きくなり、ミス・ベイツの機嫌もそれに比例して悪くなっていった。私もつい苦笑する。
「驚いた。思ったより根性あるじゃないか、お嬢様の癖に」
踊り子は笑いを噛み殺しながら言った。彼女が何を言い出すのか、ただ見守ることしか出来ない。
「私は確かに行儀が悪いけれど、悪趣味な皮肉で人を馬鹿にする人間の方が此処を追い払われてしかるべきないんじゃないのかい?」
怒りのあまり、女教師の顔が青褪める。本来なら口すら聞かないような身分の踊り子に笑われ、怒り心頭に発しているところであろう。私は内心小気味良く思いながら、インク壷の蓋を閉めた。
「今日はこの辺りまでにしておきませんか、ミス・ベイツ。ご家族へのお土産に、菓子を包ませます」
彼女のように頭の固い手合いは上手く受け流すに限る。それは分かっていたのだが、踊り子への侮辱に同調して笑う訳にはいかなかった。どうにか機嫌を取ろうと、召使を呼んで焼き菓子を用意するように言う。ミス・ベイツは無言で教本を鞄に仕舞い、軽く辞儀のみをして部屋を出た。高く鳴る足音が遠ざかってゆくのを聞いて、踊り子は言う。
「いいのかい、お嬢様?」
「良くはないけれど、王侯貴族達は芸人を侍らせていたものよ。少し出会いが特殊であっただけで、何か言われる筋合いなど無いわ」
そうは言っても、芸人を自分とほぼ同等のものとして扱っている時点で、それらと比べるのは間違っているのだが。蹄と車輪の音がした。ミス・ベイツは受け取るものも受け取らず帰ったのかもしれない。踊り子は立ち上がって、こちらに近付いた。
「この部屋は鳥だらけだな」
「兄の贈り物なの。私の趣味ではない」
仮にこれほど鳥を集める趣味の人間が居たのなら、私は軽蔑するだろう。
「そうなのか? てっきりお嬢様は鳥がお好きなんだとばかり」
「よして、その呼び方は。白々しい」
「ふうん?」
楽しそうに踊り子は目を細める。
「じゃあ、おじょうさん」
「……いいわ」
本当は、呼び方などどうでも良かった。しかしながら、彼女は私にとって使用人ではない。彼らと同じように呼ばせるのは気が引ける。
「おじょうさん。私、あんたの為に踊ってあげてもいいと思ったよ」
歌うように彼女は言った。私は驚いて目を見張る。それを面白がってか、踊り子は快活に笑った。机の上に置いていた手を握られる。つい、肩が跳ねた。
「でも、踊るのは今じゃない。あんたの為に踊るなら、もっとちゃんとしたいんだ。でたらめに踊るんじゃ意味がない。おじょうさんが満足してくれるように考えるよ。待っててくれるかい?」
待ちに待った言葉だ。しかし、私の口は上手く動かない。ただ温かな手の熱を感じていた。絞り出すように言う。
「……ごめんなさい」
「何で謝る?」
「私は我が儘だわ」
「今更だね」
踊り子は握る手の力を強くする。
「いいよ。ただ私の踊りを待っていてくれれば。それだけでいい」
胸がいっぱいになり、苦しくなるのを感じた。ようやく欲しかった約束を手にしたというのに、どうしてか涙が出そうになる。どこまでも自由だった人を、己の愉しみの為だけに閉じ込めてしまった。その罪悪感は痼りのように胸の奥底に残る。私はおずおずと手を握り返した。もう、放すことは出来ない。今更になって怖じ気づくなど情けないが、仕方が無いのだ。かつて、これほど望んだものなど無かった。私の願いと言えばいつも自分の身体が健やかであることであった。半ば習慣化した願いである。私はただそれだけを求めていれば良かった。周囲の人間も、病気がちな私には健やかであること以外を望めなかったのだ。あらゆる健康法を試し、様々な医者にかかった。なんて世間知らずだったのだろう。初めて他の、もっと尊いものを求めるようになった時、どうすれば良いのか分からなかった。食べものや服を与えて、一人前の扱いをする事で機嫌を伺っていた。踊り子は、何もかも分かっていたのかもしれない。そうして怯えながらも自分に近付こうとしていることを分かっていて、私が本当に己を求めているのか見ていたのだ。あの、緑の炎を宿した瞳で。
久しぶりに、鳥籠のうちの一つを開けた。この部屋には一羽だけ、鳴かない鳥が居る。鮮やかな黄色の鳥だ。丸みを帯びた体つきをした小鳥をそっと手にし、閉め切った部屋の中に放った。小鳥は机の上まで飛んでいく。久しぶりに羽根を伸ばせるのが嬉しいのか、鳴きはしないもののどこか生き生きとして見えた。
「可愛い鳥だね」
踊り子はそう言って鳥に触れようと机に近付く。彼女が長い腕を伸ばした途端、また飛び立って今度は背の高い本棚の上まで行ってしまった。
「あーあ」
「慣れない人だからかしら」
「でも、鳴かないんだな」
「そういう種類なのでしょう」
他の鳥達が鳴いている。これ以上うるさいのも考えものだ。静か過ぎるくらいで丁度良い。私は本を開いた。
「捕まえなくていいのかい、おじょうさん」
「暫く放しておくわ。捕まえたくなったら、召使を呼べばいい」
「やめてくれよ。こういうのは自分で捕まえるのが楽しいんだ。邪魔はさせない」
眩しい薔薇色の服の裾を持ち上げて走り回る踊り子に思わず笑ってしまう。あのような小さな鳥と戯れる為に舞踊で培った軽やかなステップを踏んでいる様はおかしみがあった。踊り子は椅子の上に乗り小鳥に向かって鳴き真似をしてみせる。鳴かない鳥にも、歌の意味は通じるのだろうか。彼女の元へ、黄色い体を持ち上げて飛んだ。不意に、ノックの音がする。
「なあに」
「お嬢様、庭を描きたいという画学生が来ているのですが」
召使は、言葉尻を濁した。こういう時の私の反応を知っているからだ。
「そう。勝手にして頂戴」
「お会いにはならないのですか?」
「留守だと言って」
ようやく捕まえた小鳥を手の甲に乗せた踊り子は首を傾げた。
「会ってやらないのかい」
「ええ」
「どうして」
率直な問いだ。私はちっとも頭に入ってこない本のページをめくった。
「苦手なの。初対面の人に、愛想良く振る舞うのが」
外から来る者には警戒せよ、と教えられていた。どんな病の源を持っているか、分かったものではないからだろう。その教えは私に馴染み、私自身の性質となった。
「……ふうん。それなら、私が会ってきても構わない?」
踊り子は明るい調子でそう言って小鳥を鳥籠に戻した。私は目を伏せる。
「出来れば、やめて欲しいわ」
「どうして」
「貴方がこの屋敷に居る事が知られたら、面倒だもの」
口実だ。ただ、彼女に外へ行って欲しくなかった。鳥は一度逃してしまうと戻って来ない。もう二度と、籠の中の鳥達が大空を飛ぶことはない。少し機嫌を損ねた踊り子は、そうか、とだけ言って籠の中の鳥に向き直る。結局、画学生がどうしたのかは知らないまま、夜になった。ナイチンゲールの鳴く時間だ。
外は苦手だった。それなのに、どうして踊り子を傍に置いているのだろうか。自分でも、判然としない。彼女は間違いなく余所者だというのに。あまりにも遠過ぎて、境目が分からなかったのかもしれない、と思いつく。私の中で厳密に区切られていた筈の内と外は、あの踊り子を前にすると何の意味も持たなくなってしまうのだ。
「ミス・ベイツはご立腹のようでしたよ」
私にとって内側の人間であるアナが言った。彼女は乳母だった頃から毎朝時間を見つけて私の髪を結ってくれる。今日も髪を梳くアナの手つきには容赦がない。
「……困ったわね」
「まあまあ、お嬢様。そんな他人事のように仰って」
櫛を置き、リボンを手にしてアナは呆れた声を出した。
「お父上の具合が思わしくないので、暫くいらっしゃらないそうです」
「その間に、彼女を追い出しておけと言いたいんでしょう」
「ミス・ベイツはそうお考えかもしれませんわね」
馬の尾のように纏めた髪を丁寧に編んでいく。私の髪は色も薄く、細くてどことなく頼りない。踊り子のように下ろしたままでいると恰好がつかないのだ。私は鏡をじっと見た。
「まだ踊りを見ていないわ。それに、今更放り出すなんて出来ない」
「そうでしょうとも。ですから、最初から関わるべきではなかったのです。後の祭りですけれどね。どうにかご機嫌を窺う他ないでしょう。お任せ下さい、贈りものをしておきます」
「……ありがとう」
「いいえ、当然のことですわ」
最後に飾りのリボンを結んで、完成だ。全くアナには頭が上がらない。私は鏡台の前から立ち上がった。
「今日は仕立屋が来ますよ。ドレスが完成したのでしょう」
「そう。他に来客は?」
「いいえ」
ふと、あることが私の脳裏を掠める。踊ると約束をしてくれた時に触れた、踊り子の手の温かさが思い起こされた。
「アナ」
「何でございましょう」
「仕立屋が来たら、私の部屋まで来るように伝えて」
「……かしこまりました」
理由は聞かれなかった。朝食が用意されている筈の食堂へ向かう。近頃、私はどこかおかしい。兄が帰ってきたのなら踊り子はどうなるのか分かったものではなかった。それなのに小さな約束を頭から信じて、あらゆるものを言い訳に踊り子を此処へ留め続けるのだ。愚かしい、と自嘲した。
仕立屋が用意した服を、踊り子は満更でもない様子で受け取ってくれた。どれも鮮やかな色のものだ。それらの服とは別に、私はもう一枚仕立てるよう注文した。私は舞踏会にも出ず、なかなか新しい服を作らないので、仕立屋は去年一年分より多い注文に大層な喜びようだった。はにかみ屋らしい仕立屋の息子まで、にっこりと笑って辞儀をした。彼らの幸福が私などの手にあるのかと思うと、とても残酷な気分になる。何故だか、もう二度と彼らとは会いたくない、と感じてしまうのだ。滑稽なほど儚い幸福を喜ぶ様を見て、私は悲しみすら覚えた。
仕立屋の来た日の晩のことだった。夜更け、私は一人廊下を歩いていた。寝る前に目を通した本の中に気になる一文があり、辞書を参照する為に自室へ向かっていた。
階段を下りた時だ。遠くで足音が聞こえた。こんな時間に、一体誰が出歩いているのだろう。不審に思い耳を澄ませた。すると、その音は歩く足音にしてはあまりにも不規則である事に気付いた。足音のする方へ、そっと歩みを進める。角の部屋からそれは聞こえていた。私は僅かに開いている扉から部屋を覗き込んだ。何ということはない。音の正体は踊り子が舞い踊る音だった。暗がりの中、僅かな月明かりを浴びて、寝間着のまま彼女は踊っていた。足を踏み鳴らし、指先まで緊張させてひとつひとつの動きを作る。どうやら、練習をしているらしい。私はすぐに顔を扉から遠ざけて、廊下を引き返した。今見てはいけない、と感じた。彼女が見せたいと思う時まで待たなければならない。彼女は毎晩、こんなことをしていたのだろうか。体を衰えさせず見事な踊りを踊る為に、絨毯で滑りやすく踊るには適さない、この狭い部屋の中で?
踊り子は額に汗が浮かぶほど踊っていた。もう、先程まで気にしていた古代の詩の内容など頭から吹き飛んでしまっている。そのまま寝室へと帰った。私は何よりも贅沢なものを求めているのかもしれない。どれだけの汗と労力が、彼女の踊りを支えているのだろうか。
「……馬鹿みたい」
そう呟いた。私のような人間がどれだけ趣味を身に着けたところで、所詮は道楽だ。誰もが踊り子を下に見ているけれど、彼女には敵わない、と思った。踊る為に生きている人に漫然と生きている私が勝てるところなどあるだろうか。やはり踊り子は、遠い人だ。
あれだけ身体を動かしていれば、空腹にもなるだろう。踊り子は相変わらずよく食べた。朝はパンを私の倍かそれ以上は食べるし、昼にも肉を食べ、夕方、私がお茶を飲むのに付き合う際は用意された果物と菓子をぺろりとたいらげる。晩餐ともなれば、前菜から始まって二種類の主菜、パン、そして甘味まで、全てその腹におさめてしまうのだ。踊り子がこの屋敷にやって来てから、料理人達はさぞかし忙しくなったことだろう。彼女はマナーこそなっていないが、実に楽しそうにものを食べた。食べることが幸せだと思える者は、素晴らしい美徳を持っている。
召使が主菜を持ってきた。湯気の立つ骨付きの背肉のソテーである。当然、それは踊り子の前にだけ運ばれた。私は自分の手元を見下ろす。代わり映えのしないスープとパンが寂しく皿に乗っていた。
「ねえ」
「はい、お嬢様」
「私もそれが食べたいわ」
踊り子が器用に片眉を上げる。召使は指先をぴくりと揺らし、一瞬の沈黙の後口を開いた。
「それ……とは、このポークチョップでしょうか」
「他に何かあるの」
「いえ、申し訳ありません。すぐに持って参ります」
「いいよ。私のをあげる」
そう言って、踊り子が厨房へ戻ろうとする召使を止めた。
「今からじゃ時間がかかるだろ」
「そうですが……」
「そんなに、要らないわ」
私は少し後悔し始めていた。珍しいことはするものではない。召使は動揺しているし、踊り子にまで遠慮をさせるなんて気恥ずかしい。つい俯く。しかし踊り子は悪戯っぽく笑ってナイフを持った。
「それなら、尚更だ。味見がしてみたいんだろう?」
私が違う、と言うよりも先に、不器用な手つきで彼女は肉を切る。一口大の欠片をフォークで掬いあげると、彼女は身を乗り出した。
「ほら。食べてごらん」
差し出された肉はソースがたっぷりと絡んでいて、今にも雫を落としそうだ。私はつい口を開けてそれを受け取った。踊り子は目を細める。口の中には旨味が広がり、噛む毎に肉汁が溢れてきた。少し焦げた部分の苦ささえ舌に心地良い。
「……美味しい」
思わずそう呟いていた。踊り子は微笑んで席に戻る。
「料理長が喜びますわ」
彼女の傍に控えていた女中、ヘンリエッタが言った。
「いつも言っていましたもの。もう少しだけでもお嬢様が何か召し上がって下さるなら、どんなものでも作ってみせるのにと」
私は自分の顔が熱くなるのを感じた。気まずく身を縮こめる。料理人にまでひどく気を遣わせていたのだと、今になって知った。
「もっと食べるかい?」
踊り子が尋ねてくる。私はどうにか落ち着いた顔を取り繕って頷いた。
「では、もう少しだけ」
「少しお待ちを。皿を持ってまいります」
召使が急いた仕草で部屋を出て行く。私は踊り子と顔を見合わせた。彼女が今まで見たこともないような優しい顔で私を見る。気恥ずかしさは残っていたけれど、私も笑みを返した。
それからは、私の前にもほんの少しだけ、様々な料理が出てくるようになった。踊り子の半分ほどの量だ。彼女は二杯目を頼むこともあるので、食べる量としては三分の一程度だろう。しかし私には大きな進歩だった。毎日、新たなものに五感でもって触れる。美味しいと感じるものが多かったが、中には風味が強過ぎるように感じるもの、明らかに好みに合わないものもあった。それら全てを含め、新鮮な経験として深く印象に残った。不思議なものだ。単調で穏やかな生活が何よりも大切で、これまでの習慣を変える気など毛頭無かったというのに。踊り子と出会ってからも、何も変わらないと思っていた。今ではそれが驕りであったと分かる。
「貴方が来てから、何もかもが変わってしまった」
薔薇の咲く庭を散歩しながら、私は言った。
「ミス・ベイツには嫌われてしまったし、使用人達も貴方の存在にすっかり慣れて」
「後悔してる?」
召使の代わりに私の後をついて来た踊り子がそう問うた。立ち止まって手元に咲いていた小さな赤い花に触れる。棘を避け、それを手折った。
「まさか。貴方を此処へ招いたのは、私よ」
私は花を踊り子に差し出した。彼女は受け取ろうとはせず、花弁を見つめている。仕方無く距離を縮め、豊かな髪にそっと飾った。
「私には花なんて似合わないよ、おじょうさん」
「そんなことはないわ。戻って鏡を見てごらんなさい」
「いいや。花は身を飾るより、野で咲いている方がずっと綺麗だ」
そう言って、花を髪から取ってしまう。
「後ろを向いて」
彼女の言葉通りくるりと身を翻すと、私の結われた髪に細い枝が添えられるのを感じた。
「うん。まだあんたの方が似合うね。もう、私の為に花を折ってはいけないよ」
そう耳元で囁く声は何処か寂しげで、思わず振り返る。踊り子は一人、森の方へ向かって歩き出していた。彼女を追うべきか迷っている間にも、しゃんと背筋の伸びた後ろ姿はどんどん遠くなる。咲き誇る薔薇は彼女の服の青い色と反発し合い、色褪せて見えた。私は服の裾が汚れぬよう気をつけながら花の咲く庭を歩き続ける。今日は天気が悪い。もう少し経ったら、屋内に戻らなければならないだろう。雨が降る前に彼女も帰ってきてくれれば良いのだが、と思った。雲は刻一刻と形を変えながら暗さを増し、雷雨の接近を告げている。
父は、嵐の夜に馬車に轢かれて死んだ。旅に同行していた召使達が持ち帰ったのは遺骸と、泥まみれの外套であった。何故、そんな天気の夜に一人外へ出たのか。震える声でそれを尋ねた兄に、目許を赤く腫らした秘書はただ首を振るばかりであった。兄は言葉を失くし下唇を噛んでいた。私はというと、父そのもののようにぱりっとしていて美しかった外套が見る影もなく草臥れているのを目の当たりにして、やはり外は恐ろしい、と思い知ったのであった。誰も、まだ若かった父が死ぬなどと考えてもみなかった。人はなんとあっけなく死ぬものなのだろう。私自身、幼い頃から病を得て幾度も死にかけた。この穏やかに時の流れる屋敷の中ですらそうなのだから、此処から出れば一体どうなってしまうのだろう。それは恐ろしい想像だった。
咳払いをしてみる。肺を病んだ時のことを、今でもはっきりと覚えていた。あの信じ難いほどの苦しみは二度と味わいたくはないものだ。外を恐れる心が無ければ、私はきっと生きてはゆけない。そうして恐怖を抱きながらどうにか生きてきたものだから、踊り子の心が分からなかった。一応は「踊る」と約束してくれたけれど、もしかするとただこの屋敷に居座る為、そしていつか服や装飾品を売って外へ出て行く目的で嘘を吐いたのかもしれない。彼女に限って有り得ないとは思うが、絶対に違うとも言い切れなかった。疑いを消せぬほどに彼女について知っていることは少ない。何をしでかすのか想像もつかないのだ。それが面白くもあり、厄介でもあった。
そしてとうとうそのことが、厄介な性質、から事件の原因へと変わる時が来た。
踊り子は以前のように四六時中私と一緒に居ることは無くなった。ふらふらと屋敷のあちこちで時間を潰し、その延長として私の部屋にやって来る。手が空いている時は、本を読んだことが無いという踊り子の為に朗読をした。流行の小説から古典まで、適当に選び出されたものを読んでいく。踊り子は楽しげに聞いていることもあれば、退屈そうに欠伸をしていることもあった。どちらにせよ、私は気にせず続きを読んだ。今日は古代の叙事詩を読んでいる。これには彼女も興味が湧いたらしく、真面目な顔をして耳を傾けてくれていた。喉を使うことすら重労働になる私は、小休止を入れながらでないと朗読も出来ない。本に栞を挟み、茶を飲んで喉を潤していると、踊り子は不意に口を開いた。
「そういえば、今日は祭りがあるらしいね」
彼女は窓の外へと視線を向ける。カーテンは半分ほど閉められていた。
「誰から聞いたの」
「さあ、誰だったかな。話しているのを小耳に挟んだだけだから」
私は再び本を開く。
「行きたいの?」
「勿論」
本当に楽しみなのだろう。夢見るような目をして踊り子は答えた。
「賑やかなところが好きなのは芸人の性だね。もしかしたら同業者が来ているかもしれない。懐かしいな、昔は色んな祭りに呼ばれたよ。あちこちの国でね」
「そう」
「行ったら何をしようか。きっと美味いものも売られている筈だ」
「行っていい、とはまだ言っていないわ」
私はそう言って、再び朗読を始める。彼女は途端に険しい顔をしてこちらを振り返った。近付いてくる足音に朗読が遮られる。
「どうしてだ」
「分かっている筈よ」
「私はまだ此処を去るつもりは無い。そんなのとっくに分かっているだろ」
答えずに、指先で先程まで読んでいた箇所を辿った。苛立ちを隠す気も無いのか、踊り子は私の手から本を奪い取った。
「返して」
「嫌だね。そんなに私が逃げるのが恐いなら、一緒に来ればいいじゃないか」
「尚更、嫌よ」
思わず声を荒げてしまった。彼女の怒った顔に訝むような色が加わる。その鋭い視線を避ける為、私は仰け反って後ろに下がった。
「そう言えば、あんたがこの屋敷の庭から出るのを見たことが無いな」
椅子に座ったままでは、逃げられる筈もない。ぐっと距離を詰められた。彼女の瞳が突き刺すような光を宿して私を責める。緑の双眸と目を合わせるのが苦痛だった。
「出られない理由でもあるのかい?」
「……私は、身体が弱いから。病気に罹りやすいの」
「だからって、一歩も外に出ないなんて変だ。これだけの人間が屋敷で働いているんだから、此処に居たって病気にはなり得るだろ」
彼女は賢明な人だ。
「なんで、そんな建前が必要なんだよ」
この時ほど、それを恨めしく思ったことは無かった。私は何も答えられず、ただ強く両の拳を握り締めていた。
「大体、それなら私一人なら祭りへ行ったっていいだろ? ちゃんと帰ってくる。約束する」
「いや……」
「どうして」
「恐いの」
はっきりと答えたつもりだったが、私の声はか細く震えていた。
「屋敷の外は恐いから、行ってしまわないで」
踊り子は首を捻る。
「それじゃ、外から来た人間である私が一番恐いんじゃないのか」
そうなのだ。どうして彼女に対して恐れを抱かなかったのか、自分でも分からない。ただ頭を振ることしか出来なかった。
「私が恐くないのなら、一緒に、もっと楽しいところへ行こう」
諭すように踊り子は言う。それでも、身体が震えるのを止められない。掌に爪が食い込むほど握り締めた手を、強く掴まれた。引っ張られた勢いのまま立ち上がる。
「駄目だよ。外と言ったって、色んな場所があるのに。あんたは見もせずに恐れてる。外に出てみないと」
「知っているわ。ちゃんと、何もかも」
彼女が優しさからそう言っているのは分かっていた。しかし恐怖は消えず、泣くまい、と思うのに、胸は軋み、目頭も熱くなる。
「知っているの。母は慣れない都会で私を産んで死んだ。お父様も私の知らない場所で逝ってしまわれた。お兄様だって、きっといつか此処じゃない場所で死ぬの。私は嫌。そんな風にはならない」
畳みかけるように怒鳴った。涙が粒のまま床に落ちる。踊り子は一瞬たじろいだ様子を見せたが、すぐに私の手首を無理矢理に引っ張った。
「おじょうさん。あんたは間違ってる」
「いいえ。間違ってなどいないわ」
「世界は広いんだ。恐い恐いと言って、こんな場所に閉じこもっていたら、何も手に入らないぞ。私みたいに、たまたま転がり込んでくるものなんてほんの僅かだ。自分から、取りに行け。こんな暗い部屋に閉じこもっていないで」
窓際まで私を引きずっていこうとする。その手の力は私にはあまりにも強過ぎた。抵抗など意味を成さない。
「外を見ろ」
「嫌、いやなの、私は此処で死んでしまいたい」
私の手首を握っているのと反対の手が、カーテンに掛かる。思わず、窓から顔を背けて叫んだ。
「カーテンを開けないで!」
甲高く大きな声に驚いた鳥達が騒ぎ出す。踊り子は動きを止め、羽搏きの音と鳴き声で満たされた室内をぐるりと見渡した。敵を見るかの如き目つきだ。私はくずおれるように座り込んで、みじめに泣いていた。堪え切れない嗚咽が漏れる。ようやく、手が放された。
「……あんたが私を拾ったのは、私の踊りが良かったからじゃなく、ただ珍しいものが自分の手元までやって来たからなんだね」
先程までの熱は何処へ行ったのか、静かな声だった。私は、違う、と言いたかったけれど、上手く声が出ない。否定したところで、信じてもらえるとも思えなかった。踊り子は乱れた髪を掻きあげると、扉の方へ向かう。床には既に、小さな水溜まりが出来ていた。涙が溢れて止まらない。彼女は振り返りもせず、部屋を出て行った。
飼い主がどんな気持ちで居るかも知らずに、相変わらず鳥達は籠の中で暢気に歌っている。様々な音色で、誰かを呼んでいた。聞いているのは私だけだというのに。踊り子はもう舞ってはくれないだろう。醜態を晒したことよりもそれを残念に思ってしまうことからして、彼女は少しだけ間違っているのだ。確かに、物珍しさはあったかもしれない。しかし、そんな些細な感情よりも秩序立った平穏を優先するほどには、私は臆病者だった。恐くてたまらない。屋敷の外に出ることも、この家の中の平和を乱されることも。しかし、踊り子がやって来てからというもの、私自身が変わりつつある。教師に逆らった。食べなかったものを食べるようになった。花を贈りたいと思うほど、踊り子を大切に思い始めていた。彼女は特別だ。最初から、変わってしまうと予感しながらも手を取った。まさか、これほど大きな変化だとは思っていなかったけれど。
「それでは、失礼します」
「ええ」
仕立屋が扉の前で挨拶をした。私は愛想の欠片もなく答える。自室での遣り取りの後、部屋に籠りがちになったのは踊り子の方だった。食事も、女中に運ばせていた。ある時私は、女中に手紙を預けようと考えた。それはこんな手紙だった。
先日は失礼を致しました。つい感情的になってしまったことをお詫びいたします。それに、せっかく貴方が抱いてくれていたであろう信頼を裏切ってしまったことも。貴方は私を信頼してくれていたからこそ、踊ると言ってくれたのでしょう。踊ると約束してくれた時、私は本当に嬉しかったのです。それなのに貴方の自由を奪うような真似をして、お怒りになるのも尤もであると理解しています。併し乍ら、誤解があるのです。私は貴方が珍しい人間だったからこの屋敷に招いたのではありません。貴方の踊りは、間違いなく素晴らしい。ただ物珍しさから貴方の踊りを望んだのであれば、あの日森で出会ったその時に、無理矢理にでも踊らせていたでしょう。そうしなかったのは、貴方の踊りを大切にしたかったからです。私は、貴方を
ここまで書いて、はたと気が付いた。踊り子は字が読めないのだということに。こんな手紙を書いたところで、何の意味も無い。私は腹立ちまぎれに紙をくしゃくしゃに丸めた。面と向かって謝る勇気の無い愚か者の最後の手立てであった。八方塞がりである。咳を何度か繰り返した。珍しく大声を出した所為か、調子が悪い。もう、彼女を自由にさせてやるべきなのだろうか。もっと広い世界へ帰ってゆくのを、この場所から見送る。美しい終わりかもしれない。一方で、それを想像するだけで私はひどく動揺し、泣きそうになってしまうのだった。今までこれほどに感情を揺さぶるものと出会ったことが無い所為で、心が吃驚しているらしい。上手く対処出来ないのだ。根拠のない妄想が私を追い詰める。ふと、鳥籠の中で止まり木に立ち、じっとしている小鳥が目に入った。なんて哀れなのだろう。いっそ放してやりたいという気持ちと、それを拒む心がせめぎ合い、揺れた。このままではいけないということだけは分かっている。せめて失ってしまう前に、もう一度、彼女に会いたかった。
「おじょうさん」
低く落ち着いた声が聞こえた。私は机から顔を上げる。その拍子に、溢れかけていた涙が一筋、頬を伝った。慌ててそれを拭うけれど、部屋には入らず扉の傍に佇んでいる赤い服を着た踊り子は、ばつの悪そうな顔をして目を逸らす。
「散歩に行こうよ。この敷地内なら構わないんだろう?」
私は何も言えず、ただ頷いた。最初に彼女に贈った服の赤が目の底に焼きつく。その服の裾を翻して踵を返した彼女の後を追い、私も歩き出した。
日頃、散歩というと玄関から見渡すことの出来る花の咲いた辺りのみを歩くことだったが、この日は踊り子が西の森の方へ足を向けた。なんの言葉も交わさず、只管に歩き続ける。今日は清々しい陽気だった。木漏れ日が優しく足元を照らし、そよ風も肌に心地良い。しかし私の気分は沈んでいた。踊り子はこの森の中で別れを告げるつもりなのかもしれない、と考えたからだ。出会った場所が別れの場所になるとは、実に皮肉である。踊り子はいつもきびきびと歩くが、今日は私とほぼ同じ速さで俯きがちに歩いていた。腐葉土はとても柔らかく、ゆっくりとした速度であれば長い距離を歩いてもあまり疲れを感じない。そうしてのろのろと歩いている道中、ふと目を向けた道端に、周囲よりも低い木が生えていた。私達は足を止める。赤く、可愛らしい果実が幾つも生っていた。
「あ、木苺」
踊り子はそう言ってすぐに長い腕を伸ばすと、実をもぎり躊躇いなく口に運ぶ。甘酸っぱい匂いが漂った。
「……美味しい?」
「うん。おじょうさんも食べてごらんよ」
一粒、食べてみることにした。ぷつりと薄い皮が破れると、香り高い果汁と独特の食感を持つ果肉が口の中で転がる。私はそれらを飲み込んで、頷いた。
「本当に、美味しいわ」
そう言ったきり会話が途切れる。赤い実を見下ろしながら、胸の奥でまだ曖昧な形をしている言葉を喉まで汲み上げようとした。折角話し掛けてくれたこの機会に、謝らなければいけない。踊り子はもう一つ、果実をつまんでいる。きっと今しか機会は無い。
「あの、聞いてほしいことがあるの」
「……うん」
「ごめんなさい。私に意気地がなくて。我が儘で」
言えた。一言飛び出せば、後は流れるように言葉が溢れ出す。
「貴方と、離れたくなかったの。一度外に言ってしまったら、もう帰って来てはくれない気がしたのよ。だって、外の方がずっと楽しい筈だもの」
「そりゃそうさ。旅は楽しいよ。こんな屋敷まっぴらだ。でも、まだ踊ってない。約束は守るよ」
「そう。貴方はそういう人だと、分かっていたつもりだったのに。私にとって恐い場所へ、行って欲しくなかった。全部嘘なの。あの時に言ったのは、どれも正しくない。私が恐ろしいのは、外では私は何の価値も持たないということ。私は役立たずの穀潰しよ。それを思い知るのが恐かった。病がちで、偏屈で、誰がこんな人間に優しくしてくれるのかしら?」
その時、ぱっと優しい力で手を取られた。私は踊り子の顔を見る。眩しい笑顔だった。
「もういいよ。またいつでも聞くから。行こう、良い場所があるんだ」
彼女は私の手を引いて、森の中を進んだ。許してくれたのだろう。結局、祭りにも行けなかっただろうに。私はまだちくちくと痛む心を意識した。この瞬間を忘れないでいよう、と思った。誰かを傷付けたことも、傷付けられたことも、何も持っていない私には財産だ。
「こっち」
踊り子の言う場所、というものには大体の見当がついていた。少しずつ木が減ってゆき、視界が開けてくる。その先には、池があるのだ。水は澄んでいて魚も多く棲み、釣りにうってつけである。森に囲まれた、小さいが美しい場所だった。
「いいところだ」
「そうかしら」
「色んな場所を見てきた私が言うんだから、間違いないよ」
彼女に褒められ、私は嬉しくなった。私の知っているところにも、良い場所はあるものだ。踊り子と手を繋いだまま、池に近付く。少し離れた所には小舟が舫われていた。魚が私達の影を見て逃げてゆく。水際で靴が濡れそうになる頃には、私は握られた手が汗ばんでしまっていることを気に掛けていた。踊り子に触れられた部分は熱を持つ。
「おじょうさんは泳げる……わけがないか」
「ええ。泳ぎなんてしたことが無いもの」
「教えてあげようか?」
彼女はおもむろに水に入ろうとした。
「無理よ、きっと水も冷たいでしょうし」
「それこそ、入ってみないと分からないじゃないか」
今度は両手を握られる。熱くなる部分が増え、私の心臓は高鳴った。踊り子は後ろ向きで水の中に入っていく。誘われるまま、水に足を浸した。ところが、ぬめる小石だらけの池の中で立っているのは非常に困難だった。三歩ほど進んだところで、爪先が滑る。
「あっ」
大きく身体が傾いだ。踊り子が目を見開き、驚いた顔をする。それを視界の隅に認めて、私は思いきり転んでしまった。水が冷たい。しかし、転んだ瞬間に想像していた痛みはいつまで経っても訪れはしなかった。恐る恐る、目を開ける。
「やってくれたね」
私は踊り子に抱きとめられていた。上手く受け身を取ってくれていたおかげで、顔やなにかに怪我を負わずに済んだのだ。
「ごめんなさい」
謝罪したけれど、立ち上がれない。水の冷たさよりも触れ合っている部分の熱さが強烈に感じられた。もしかするとこれは、私の熱さなのだろうか。踊り子は濡れて色濃くなったブルネットの前髪の隙間からこちらをじっと見ている。あまりにも距離が近かった。胸と胸が触れ合い、脚の形すら服越しに感じられる。己の貧相な身体が相手に感じられているであろうことに恥ずかしさを覚えた。踊り子の身体は骨格がしっかりとしていて温かい。彼女は不意に口を開いた。
「この場所と、同じ色だね。その目」
以前にそうされたよりもずっと優しい手つきで、顎に触れられる。
「空が映った水みたいな色」
「貴方には、そう見えるの?」
初めて言われた。私はこちらを見つめる視線に耐えられず目を逸らそうとするけれど、この近さでは何の意味も無い。
「うん。とても、綺麗……」
目尻に冷たいものが触れる。唇だ、と気付くのには僅かに時間が必要だった。私は身を固くする。幾度か目許やこめかみに口づけ、また視線を絡めてきた。そっと唇が唇に近付く。後もう少し、というところで踊り子は動きを止めた。私を待っているのだ。覚悟を決め、赤い唇に己のそれを触れさせた。こうなったことに、違和感はあまり無い。最初から、私は強く彼女に惹きつけられていたのだから。口づけは甘い、木苺の香りがした。ただ唇を重ねているだけで、私の熱が踊り子に伝わっていく。やがて彼女は薄く唇を開き、舌で私の唇をノックする。長い口づけに耐えかねて唇を開くと、舌は口の中に侵入した。何が起きているのか理解出来ず、ただ彼女に身を任せていたが、これには流石に驚く。顔を背けるようにして唇を離した。間髪を容れず、腰を強く抱かれ唇の端に口づけられる。何度も、何処もかしこも踊り子の唇に触れられ、堪らない気分になった。だめ、と小さく呟いた時、それを遮るかのようにまた深く唇同士で熱を交わした。こんなことはいけないことだと、誰もが言うだろう。しかし、誰にも止めることは出来ないほど、互いに昂っていた。舌先で歯に触れる。唇がひりひりと痛むようになるまで、池の水に濡れたまま口づけを続けた。
それがいけなかったのだ。散歩から帰り、卒倒しそうな様子で迎えてくれたアナによってすぐに身体を温めたにも関わらず、翌日から私は熱を出した。信じられないほど軟弱な自分の身体が嫌になる。医者は風邪だと言っていたが、大事にならないよう、私は寝室に閉じ込められた。考える時間も考えたいことも沢山あるというのに、思考は熱に浮かされて曖昧で、喉の痛みや寒気から逃げる為に眠ってばかりいた。
昏々と眠り続け、夢を見た。一羽の燕が飛んでいる夢だ。燕は見事な飛翔をひと頻り見せると、旋回してこちらに近付いてきた。その様子を見た私は無性に嬉しくなった。美しい燕は丸い目で私を見下ろし、青みがかった黒の翼で触れてくる。やがて、可愛らしく小さな嘴でそっと口づけてみせてくれた。素敵な鳥だ。しかし、燕はどこまでも飛んで旅をするものである。またすぐに、羽根を広げて飛び立ってしまった。夢の中の私にも燕ほどではないが翼があった。待って、と、一緒に行きたいのだと伝えたいのに、声が出ない。声の出し方が思い出せなかった。燕はまたくるりと宙を回って挨拶をすると、何処かへ行ってしまう。私は窓辺に立ち、涙を流してそれを眺めていた。悲しい夢だった。
一週間ほど、私は寝込んだままだったが、ようやくまともに何かを考えられるようになると、水辺で交わした口づけのことばかりが思い返された。恥ずかしくて、また熱が上がりそうになる。森から戻るときも互いに言葉少なで、踊り子が何を思っていたのか、その確信は持てないが、自分の心だけは良く分かっていた。夜中、部屋の天井を見つめる。真っ暗な空中に記憶を映し出しながら、彼女に会いたい、と思った。不意に、ギイ、と扉の音がする。小さな灯りが部屋に入り込んできた。ベッドの側にあるテーブルに燭台を置くと、灯りの持ち主は囁く。
「おじょうさん。具合はどうかな」
踊り子は、私が強く願った時、いつでも私に会いに来てくれるのだ。
「……心配するほどではないのよ。皆、過保護なの」
掠れがちな声で答えた。そんなに酷い声だったのだろうか、痛ましげな表情を浮かべ、彼女はベッドの端に腰掛ける。
「それならいいんだけど。ずっと会うなと言われていたから、心配した。悪かったね、池の中になんて入れて」
「いいえ、貴方が気に病む必要は無いわ。もう来てもいいと言われたの?」
「いいや。ヘンリエッタがね、こっそり入れてくれたんだ」
気の利く女中だ。私は微笑もうとしたが、咳が止まらず上手くいかなかった。熱は殆ど下がっている。あとはこの咳だけが治れば良いのだが。
「やっぱり、来ない方が良かった?」
私はどうにか首を横に振ることで否定した。咳が一段落すると、大きく息を吐く。やっと笑うことが出来た。
「貴方に会いたかったの。ずっと」
踊り子は少し困ったように笑って、私も、と言う。それはきっと本当だ。そうでなければ、わざわざ寝室に忍び込んだりはしないだろう。私は絵の描かれた古い長持ちの方を指し示した。
「あの中にね、貴方への贈り物があるのよ。取って、見てみて頂戴」
大人しく彼女はそれに従ってくれた。長持ちを開け、紙に包まれたものを取り出す。ばさり、と広げられたそれを見て、踊り子は声を上げた。
「これ……」
仕立屋が持ってきたばかりの、真っ白な衣装だ。少しだけ裾が短い。その隣の箱に入っているのは、同じく白い、柔らかな布で出来た靴であった。
「踊りやすいように仕立てたドレスと、踊る為の靴よ。踊ると約束してくれた時に頼んでおいたの」
品の良い形だが、薄手の生地で出来ている。跳躍した時には、きっと美しく揺れる筈だ。以前に贈った良質であるが故に重みのある服とは全く違う。踊り子は衣装と靴を抱き締めた。その仕草は私に触れる時のように優しい。
「気に入ったよ。ありがとう」
再びベッドの傍らまで戻ると、額に掛かった私の髪を掻きあげてくれた。
「おじょうさんが元気になったら、今まで見たこともないようなものを見せてあげる」
そう言って、額に唇で触れる。唇が離れるのと同時に小さく可愛らしい音がした。
「だから、早く元気におなり」
「ええ。もう少しだけ、待っていて」
やっとそう答えて、私は喉元を押さえた。熱い砂に焼かれているように痛む。踊り子は小さな子供にするように私の頭を撫でると、灯りを持って部屋を出て行った。残された私は口づけられた場所に指先で触れ、目を閉じる。今なら良い夢が見られる気がした。
それから更に一週間後、やっとアナから部屋の外に出る許可が下りた。しかし、まだ屋敷の外へは出られない。仕方のないことだと思う。しかし、今はもう、外へ出ずに済むことへの安堵は感じなくなっていた。
「こんな広い部屋を使っていいのかい?」
「ええ」
窓の開け放たれた大広間で、衣装に着替えた踊り子は高い天井を見上げる。私は腕に巻きつけていた薄い肩掛けを直し、隅に寄せられているカウチに座った。明るい真昼の日射しの下で、改めて踊り子を見る。珍しく髪を結い上げて、化粧まで施していた。床の様子を確かめる彼女の表情は真剣そのものである。
「踊るには、音が必要だな」
「私がピアノを弾きましょうか」
「それじゃあ、じっくり見られないだろ。歌ってよ、おじょうさん」
突然の提案に、困惑した。歌など久しく歌っていない。習った経験こそあるものの、彼女が踊る為の音楽として相応しいものになるとはとても思えなかったのだ。黙して足元を見る私に、踊り子は言った。
「お上品な楽器は私に似合わない。喉の調子はどう?」
「それは、治っているけれど」
「もし痛むんなら、手拍子でもいいよ。何でもいい。私はどんな音とでも踊ってみせるから」
その言葉には気迫と自信が滲んでいる。私は息を呑んだ。彼女が望むなら、努力してみたい。
「……どんな歌でも構わない?」
「勿論」
私は立ち上がった。小さく口を開き、息を吸い込む。拙い歌を歌うのは気恥ずかしくもあった。高鳴る胸が落ち着いたのを見計らって、歌い出す。この辺りに伝わる民謡で、静かだが、澄んでいて明るい曲だ。すべり出しを聞くと踊り子は微笑み、私の腕から長い肩掛けを滑らせて手にする。次の瞬間、私は夢見たよりもずっと美しいものを目の当たりにした。彼女は優雅に跳んだ。以前見た時とはまるで別物だ。スカートの裾から僅かに覗く足はしなやかな枝のようで、風を受け止める繊細な仕草を見せる指先が美しさを際立たせていた。木の葉に似た軽やかさで地に脚をつけると、すぐに次の動作に移る。全身が見事に調和していた。人の身体がこんな風に動くだなんて思いもしなかった。私は歌を止めずにいるので精一杯だった。なんの変哲もない肩掛けだった布が世にも美しい襞を持ち、踊り子の手によって操られている。白が光をいっぱいに受け止めて輝いていた。踊り子は微笑みを浮かべたまま見事な足さばきでステップを踏む。どれだけ鍛錬を重ねれば、彼女のようになれるのだろうか。自在に緩急をつけた動きからは、どこか異国の匂いがした。私の知らない、外の匂いだ。また彼女は高く跳躍する。先ほどよりも高く、どこまでも行けるような力強さで。どんな言葉よりも強く、人は何処へでも行けるのだと伝えていた。緑の瞳にはそのことへの疑いを持たぬ強い誇りが宿っている。この鳥籠のような屋敷に居ても、踊り子はいつだって自由になれたのだと知った。私は胸がいっぱいになるのを感じながら、どうにか歌い続ける。私の口から紡がれる音楽を自分のものとして、彼女は見たこともない世界を引き出した。白い布は時に羽根に、また時に流れる水に形を変えてゆく。素晴らしい景色が、一人の女性の身体から波紋のように大広間全体に広がっていった。
永遠にこの時間が続けばいい。そう思うけれど、歌は終盤に差し掛かる。私は精一杯、声をあげた。そうしていれば、溢れるほど感じている喜びが踊り子にも伝わるように思えたのだ。踊りは激しさを増す。足は高く床を鳴らし、腕がめいっぱいに伸ばされた。独楽のように身体を回転させると、鋭い視線を窓の外に向け、白い布を放った。布が風に攫われてゆく。糸で吊られているように背筋をぴんと伸ばして彼女は動きを止めた。私は息を大きく吐ききって、口を閉じる。歌が終わるのと同時に踊りも終わり、頬まで伝う汗を拭いもせずに踊り子は笑った。今までで一番明るく、柔らかな笑顔であった。まるで初夏の日射しのような。私はまだうるさく高鳴る胸を押さえ、言った。
「ありがとう」
何と褒め讃えるべきか分からない。この時間が私だけの為にあったのだと思うと、自然と感謝の言葉のみが飛び出てきたのだ。踊り子は乱れた息をどうにか整え、どういたしまして、と言った。
「おじょうさんの声と踊るのは、楽しかったよ」
「拙くてごめんなさい」
「いいや、上手だった」
「……私、歌っている間のことを覚えていないの。貴方の踊りがあまりにも素晴らしかったから。天使を見たのかと思ったわ」
「天使?」
踊り子は眉尻を下げる。
「そう。私の天使。とびきり美しいの」
彼女が踊っていた時間は、この大広間が世界だった。そして最後には窓の外、本物の世界へと視線を向けさせる。完璧な振付けだと言えた。それを自ら考えたという踊り子は照れくさそうに目を逸らす。
「褒め過ぎた。もっと綺麗なものなんて、世の中には沢山あるよ」
「世の中なんて、知らないもの」
「これから知っていけばいいさ」
そう言った声は少し緊張していて、緑の瞳は真剣そのものだった。やはり、彼女は天使なのかもしれない。私の目を遠い場所へと導いてくれる。彼女に優しく手を引かれて、何処までも行ける気がした。そして、彼女の踊りほど美しくも優しくもない場所、しかし大切な、本当の世界へまでも連れ出すのだ。
「私にも、世の中のことが分かるようになるのかしら」
「きっとね」
私はカウチに座り直した。背筋を正して言う。
「祭りも舞踏会も、またすぐにあるわ。行きたいなら行きましょう。一緒に」
「それは、約束?」
「ええ。貴方を縛るものよ。構わない?」
踊り子は結っていた髪を解いて、不敵な視線をこちらに寄越した。
「そんなもの必要ないよ。私は好きにするさ。いつでも。好きなところに行く。今はそれがおじょうさんの居るところってだけ」
私は思わず笑みを零す。そうであってほしい。何よりも自由でいる彼女が、私は誰よりも好きなのだ。
「ちょっと待てよ。舞踏会も一緒に来いってことかい?」
「あら、そちらの踊りは苦手?」
教えてさしあげましょう、と私は手を差し出した。最初は躊躇いを見せたが、不承不承、といった様子で握り返される。二人で立ち上がった。
「今、一等流行っている踊りよ。まずは右足から」
一、二、三と、数えながらステップを踏む。彼女は覚束ない足取りだったけれど、そのくらいで丁度良い。私にとっても踊るのは久しぶりのことだった。音楽の代わりに、開け放たれた窓から鳥の声が聞こえてくる。見果てぬ空に向かって高らかに響く、鳥達の歌だ。
end.
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