- 2016-3-8
- インタヴュー
2010年にスタートした音楽情報サイト「NEXUS」は、2016年2月をもって更新を終了しました。
そして、このNEXUSというサイトでは、2011年から2013年まで過去3回、それぞれの年末に一年の音楽シーンを振り返る対談を掲載してきました。今回の記事は、更新終了にあたっての、その特別編です。
この5年間で音楽シーンはどんな動きを見せてきたのか。フェスやネットなど、音楽マーケットを巡る状況は、どう変わってきたのか。そして、ウェブメディアの持つ可能性はどこに広がっていくのか。鹿野 淳と柴 那典、二人の音楽ジャーナリストが語り合います。
鹿野 淳 × 柴 那典
柴:今回の記事は2010年代前半を振り返ろうと思うんですが、まず全体的な感触として、鹿野さんは音楽シーンにとってこの5年はどんな時代だったと捉えてらっしゃいますか?
鹿野:2010年から2015年というのを振り返ると、まず音楽自体は百花繚乱で、ロックであろうがアイドルであろうが、ネットの音楽クリエイターであろうが、みんな横一線で、非常にバラエティ豊かなものになっていた。しかも、それが全部マーケットに直結していた。そういう意味では、実はとても音楽が元気だった5年間だったんじゃないかと思うんだよね。
柴:振り返ると、ゼロ年代はもっと悲観論みたいなものが多かったですよね。
鹿野:音楽不況はゼロ年代前半からもう始まっていたし、2005年以降くらいからはさらに世界中でCDがどんどん売れなくなっていた。「CDがいつ終わるのか」という合言葉は今に始まったわけじゃない。だから必然的に、音楽マーケットを振り返ると悲観的なことが多くて、その一方で音楽自体は百花繚乱だった5年だったと思う。今振り返るとそう思いますね。
柴:たしかに鹿野さんが仰ったように、アイドルとロックの壁もなくなったし、ボーカロイド出身のクリエイターも活躍するようになった。ゼロ年代にあったジャンルの壁が崩れた5年間でもあった。すごくポジティブな変化だったと思います。
鹿野:ただ、ネガティブだったものをなかったことにするつもりは全くなくて。要するに、音楽というもの自体が元気がなかったのではなくて、音楽の器に元気がなかったり、それが脆弱だったりしていたのが、2010年代前半の5年間だったと思うんです。つまりは、CDというものの持つ力が脆弱になったことによって、マーケットがとても閉鎖的になった。それに加えて、邦楽というジャンルは、洋楽、つまり世界の音楽と比べて非常にガラパゴス化していった中で進化を遂げてきた。
柴:ゼロ年代後半からそういう流れは顕在化しましたね。
鹿野:最近、グラミー賞の授賞式に行って感じたんですけれど、やっぱり、アメリカにとってイギリスの音楽は洋楽なんですね。で、イギリスにとってアメリカの音楽は洋楽なんですよ。それぞれにとっての海外の音楽なんです。でも、彼らは、海外の音楽と自分たちの国のドメスティックな音楽というものの連鎖をちゃんと感じている。そこは今の日本の音楽シーンとは違うんだよね。正直嫉妬します。
柴:なるほど。
鹿野:で、話を戻すと、ジャンルが崩れたというのは、CDという器がダメになってきたことが非常に大きいと思うんです。CDには、わかりやすく帯のところに「ロック」とか「ポップス」とか、ああいう分類の言葉が書いてある。CDを中心とした音楽文化というのは、ジャンル別で音楽を聴くという意識が潜在的な常識としてあった。
で、90年代の日本は音楽バブルで、CDが数百万枚売れるのが当たり前だったんですよね。しかも、そのマーケットをキープするためにタイアップというビジネスが音楽の花型にもなっていった。
柴:そうですね。それが90年代の音楽カルチャーでした。
鹿野:その中で、日本の音楽シーンというものには、勝ち負けがずっと生まれていたと思うんです。つまりポピュラー・ミュージックにはずっと土俵があった。その上で、絶えず「はっけよい、のこった」という勝負をしていた。90年代はCD文化の土俵があったと思うんです。具体的に言うと、ユーミン対ドリカムだったり、宇多田ヒカル対浜崎あゆみだったり、GLAY対L’Arc~en~Ciel、ミスチル対スピッツだったり。そういう人たちの勝ち負けがマーケットを活性化させていったような時代だった。けれど、そこからゼロ年代になり、今度はフェスとネットが大きくなっていった。そこでフェス自体が大きくなるために、そういう土俵を外したということだと思うんです。
柴:フェスが土俵を外した、というと?
鹿野:フェスって、全部を横並びにしたマーケットなんじゃないのかなと改めて思うんですよね。土俵があるようでない、いいステージをどうのこうの、ヘッドライナーがどうのこうのってあるけど、それって実はそんな大きな勝ち負けでもないし、なんかフェスに出演しているアーティストから、土俵の上で勝負している姿を感じるのは、少しばかりだと思うんです。
柴:なるほど。そういう意味でいうと、僕は逆に2010年代に入ってフェスというものに土俵が見えるようになってきたという風に思ってるんです。特にこれは邦楽アーティスト主体のフェスに限った話ですけど、繰り返し同じアーティストが同じフェスに出るようになっていく。そうすると、小さいステージから大きいステージへ、さらにその次はヘッドライナーへという、フェスの中でそのアーティストが大きくなっていく物語が見え始める。そうすると、お客さんの中にもアーティストの中にも、「来年はもっと上で」という発想が生まれる。いわばスポーツの応援に近い空気が生まれている、という。
鹿野:それはそうだよね。それがある意味CDや着うたの売り上げによるランキングから、今の時代のリアルなランキングに移っている。そういう変化はあると思うんだけど、その一方で、フェス側にとっては、フェス自体を大きくすることが、そのビジネスを活性化させるための一番のダイナモになっていったと思う。だからこそ、「これもフェスに入るじゃないか」「これもフェスに入るじゃないか」といろんなジャンルを含めた音楽をフェスという器にガシガシ入れていった。で、入ったものを喧嘩させるわけではなくて、全部横に並べて、ディズニーランド状態にしていった。トゥモローランドも楽しいし、アドベンチャーランドも楽しいしっていう風にね(笑)。で、結局みんなはどのアトラクションを味わったというより、ディズニーランドに行ったんだっていう風に楽しむようになる。僕は、フェスっていうのは、音楽のマーケットをそういう風に変えたんじゃないかと思うんです。
柴:そうですね。その認識は僕も同じです。フェスがテーマパーク化した。
鹿野:で、この状況というものが、ネットの中における音楽のありかたとか、その価値観とシンクロしたと思うんです。YouTubeなどで無料で消費もすることも含めて、音楽に土俵がなくなった、勝ち負けがなくなった。それによって刺激もなくなったからマーケットもあるのかないのかわからない状態になっていった。2010年代の前半はそんな5年間だったという感じがします。