「わかんないから、つまんない」ということを言われた。


「こそこそチャップリン」という深夜のネタ番組で、僕のネタについて感想を求められた大沢ケイミさんが言っていた。

現場は一瞬凍りつき(たかのように感じ)、テレビの収録で、いくらそう思ったからといって「つまんない」は言っちゃダメでしょ、と芸人も観覧のお客さんも一瞬思ったはず…?
とはいえ、ネタがおもしろかったと思った観覧のお客さんは、30人中9人しかいなかったので、一般的に「つまんない」ネタだったのだが、なんとなくおもしろそうに、僕の得になるように、編集していただいたので、テレビってすごいな、ありがたいなと思った。
僕もその日は超ムカついたが、よくよく考えれば、大沢さんの「わかんないから、つまんない」は超正論だ。

僕が中学のときには、「ラーメンズわかんないと、やべえ」という空気があった。
といっても、ラーメンズがオンエアされない回もあったので、毎週「オンバト」を食い入るように観ることになる。
実際、当時の僕らにとって、ラーメンズさんの魅力は「わかんなさ」だった。
「読書対決」にしたって「プーチンマーチン」にしたって、逆にわかってたまるかって話、だから、仮にオフエアになったとしても、いいの、観たかったけど。
わかんないから、おもしろいの、その論理がわかんないと、やべえ、の。

つまり、少なくとも、15年くらい前の僕にとっては、「わかんないから、つまんない」という価値はなかった(そもそも15年後の僕のネタは本質的につまんなかったわけだが)。

メディアの変容によって、価値が多様化し、市場が細分化し、みんなが知ってるものってなくなっちゃったよね…みたいな超こすられまくった悲哀の先に、「わかんないから、つまんない」はある。

EXILE系も、2.5次元ミュージカルも、僕はわかんない。
共に、年間100万人以上動員する超ヒットコンテンツなのに、わかんない。
今の僕は、わかんなくても恥ずかしくなく生きている、これは「つまんない」と切り捨てることは無いにせよ、同義のような気がする。僕も無言の「わかんないから、つまんない」スタンスを取っている。

でも、実際に観たら、おもしろいと思う、心を揺さぶられる、だから、多くの人を魅了する。

「わかんないけど、おもしろい」
「わかんなくても、おもしろい」
「わかんないからこそ、おもしろい」

そう思わされるはず。

昨日のハリウッドザコシショウさんもまさにそう。
「わかる/わかんない」を越境し、凌駕する、身体性、肉体性、声の大きさ、(概念としての)汗…つまり、非言語的なもの、一昔前に流行ったヤンキー文化論みたいなものの、ヤンキー成分と言い換えることができるかもしれない。

昨日、お笑いオタク(言語的なネタ、コント組)はお笑いヤンキーに歯が立たなかった。
お笑いオタクはお笑いヤンキーになるか、カウンターを待つしかない。

では、僕はどうしていったらよいのだろうか、とりあえず一旦寝込み、一生懸命バイトをする。そして、不毛な議論的な解決策としては、大沢ケイミで抜いてドローか…



昨日のR-1ぐらんぷりは「お笑いヤンキーVSお笑いオタク」という構図で分析的に語れそうなので、「文化系トークラジオLife」に出てみたい。