函館の発展に尽力した豪商・相馬哲平とは?

編集部・2011/09/12
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 道民の間でもあまり知られていない人物、相馬哲平氏。明治時代当時、北海道屈指の豪商として知られたという、すごい人物だ。しかも、私財を投げ打ってまで函館の発展に尽力している。一代で巨額の富を築いた相馬哲平氏とはどんな人物なのか。

基坂界隈に見られる相馬氏の影響力

 函館市元町・基坂。旧函館区公会堂函館旧イギリス領事館といった観光名所がひしめくあたりに、伝統的建造物・旧相馬邸が位置する。なんと大英帝国の領事館(函館市旧イギリス領事館)を見下ろす位置にあると言うから驚きだ。国内では横浜・下関・長崎に旧イギリス領事館が現存するが、日本人民間人住宅から見下ろされる場所に位置するのはここだけである。

旧相馬邸から旧イギリス領事館を見下ろす
函館の発展に尽力した豪商・相馬哲平とは?

 これだけでもかなり力を持っている人物であることが分かるが、ほかにも坂の上にある旧函館区公会堂や函館市立図書館旧書庫は彼の寄付で建設されたと言われており、基坂の麓には株式会社相馬社屋があったりする。基坂には相馬氏の影響が随所にみられるのだ。

相馬哲平とは誰なのか

 初代・相馬哲平は、北海道出身ではない。1833年、越後国(新潟県)で生まれた。親は和船で蝦夷地~関西間を運搬する仕事を行っており、もうひとつの家業である綿打ちの仕事をしていた。28歳、開港したばかりの箱館でチャンスをつかもうと箱館に渡り、同郷の岩船屋春蔵氏宅に住み込んだ。わずか2年後の30歳で、貯めたお金で米国雑貨店を開業した。

 巨額の利益を得たのは、箱館戦争(1868~1869年)の時であった。避難民から米を買い集め、戦争が収まってから売却することで儲けたほか、旧幕府軍および新政府軍に酒類を提供して利益を得たとされる。

 こうして39歳までに蓄財を果たし、漁業の仕込みや土地への投資、不動産抵当などの金融業を行うことにした。とりわけ、当時はどの銀行も行っていなかった漁師への融資を巧みに行ったことで、道内の水産業の発展に貢献している。当時はニシン漁が豊漁であったためこの投資は成功した。

旧相馬邸 函館の発展に尽力した豪商・相馬哲平とは?

相馬哲平の残した功績

 しかし、彼の生活は質素そのものであった。たとえば朝食はご飯と油味噌、漬物だけ、下駄はすり減っても履き続けるなど倹約に努めた。一方で、数例として以下の社会貢献や寄付を行っている。いずれも当時の金額であるが、多額の寄付を行っていることが分かる。50000円は現在の価値に直すと約10億円にもなる。

1901年 函館・若松町大火により500円寄付、函館慈恵院設立に以後3年間で900円寄付
1902年 区役所新庁舎建築費の一部として3000円寄付
1908年 函館慈恵院に10000円寄付、公会堂建設に50000円寄付
1911年 渡島開発期成同盟会・恩賜財団済生会・函館出獄人保護会に33000円寄付
1912年 函館八幡宮に5年間で5000円寄付
1913年 高竜寺宝蔵建立に5800円寄付
1914年 凶作救済金として1000円、函館訓育院に1000円寄付
1915年 函館図書館書庫建設に9000円寄付
1916年 函館警察署新築で3000円寄付
1918年 函館区救済米廉売資金に10000円寄付
1920年 函館区消防設備資金に50000円寄付

 こうした時代の最中、1907年には函館大火で住宅や店舗を焼失している。そんな中でも多額の寄付を続けた。彼のモットーは「郷土報恩」であり、その通りの生活を送っていたことが分かる。1912年には株式会社函館貯蓄銀行頭取に就任、1914年には株式会社百十三銀行の頭取に就任、1918年には多額納税者ゆえに北海道初の貴族院議員に当選している。

 様々な功績から、1919年・86歳の時に、紺綬褒章を授与されている。それから二年後の1921年、函館で一代で大富豪にのし上がった相馬哲平は、88歳で亡くなった。


 現在、初代・相馬哲平の功績は函館市内あちこちで見られる。元町で相馬氏の偉業をかみしめながら散策するのも良いだろう。ここを見学するだけで相馬哲平のすごさが伝わってくる。

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