イデアってあるの?
僕には中学生の頃から今もずっと変わらずに抱いている危機感があります。
この危機感こそが僕を突き動かす原動力でした。
そして今それは確かなものへとなってきているように思えます。
が、そうじゃないかもしれないしそうなるかもしれません。
そんなアンビバレントながら僕がこれまで抱いてきた思想と今を徒然と書き綴ってみました。もちろん、僕なりに懸命に考えてきたことではありますが、若輩者の戯言だと思って読んでみて頂けたらと思います。(約6400字)
哲学との邂逅
僕が危機感を抱いた最初のきっかけは中学3年生の頃に「14歳からの哲学」を読み、哲学に耽っていったことです。
これを書いた後に著者である池田晶子さんはなくなってしまうのですが、哲学というものをこれでもかというほどの情熱という名の主観で力強く書かかれた名著だと思っています。
「哲学ってなに?」
「難しい言葉で暇な人達が勝手に妄想することでしょ?」
みたいに考えている人にはぜひおすすめしたい一冊です。
年齢を問わずに。
※ ただ昨年再び読み返してみると本に込められた情熱ゆえの先導が文章に表れていたのだと気づきました。それでも一読する価値がある本だと思っています。
価値観の転覆
この本に出合うまで、またこの本を読むきっかけとなった哲学者であり修験者である恩師に出会うまで僕は「普通の人生を送れればいい。」と無垢に思っていました。
けど、その無垢は必ずしも純粋なものではなく無垢ゆえにむしろ「無邪気という名の悪」にすら時に思うようになってしまいました。
僕が信じていた世界はこんなにもちっぽけなものだったのかと。
こんなにも世界は複雑で醜くも美しくあったものだったのかと。
同時期に知った相対性理論や量子力学の存在はさらに僕の世界を混迷へといざないました。
答えと問題意識
そして、辿り着いた境地は「私と世界は同一である。」ということ、「人生の目的とは幸福になること。」ということです。
そう考えて世界を見渡してみると、なんてこの世界は歪で未完成なのだろうと子どもながらに思わずにいられませんでした。
「なぜ無益にも思えるような議論にもならない争いを繰り返すのか?」
「なぜ自分のした行為を『みんな』がしたからいいんだと正当化しようとするのか?」
「努力すら才能なのになぜ努力なら誰しもに出来ることとされるのか?」
「自己責任だとか俺には関係ないって言って当事者意識の欠如したやつが多すぎやしないか?」
内在的な批判精神
けど、これは今となっては偏った見方があるなと思っています。
ですが、それでも「より良く生きる」ためには「哲学」は必要なんじゃないかって思ってます。
それは哲学者やその考えを知る「哲学学」ではなく、本来の「哲学」である個々人の問いに「応える」ことです。
それはいわば内在的な批判精神を持つということです。
そうでなければ自分がどんな立ち位置にいるのかも分からない、
自分が知らぬ間に前提としてしまっていたことが分からない、
そもそも自分が分からない。
そういったことに陥ってしまうのではないか?
もちろん、哲学なんてしなくとも自然とそういったことをしている人はいます。
ですが、僕の周りの人と話してみても「そもそも自分が何がしたいのか分からない」とか「自分を俯瞰的に見ようとしたことがほとんどない」といった人が大勢いました。
僕の疑問はここにあります。
「なぜそうした状態に陥ってしまった人が多いのか?」
「歴史的・社会的・文化的背景には何があるのか?」
「どうすればその状態を改善できるのか?」
「個人の問題として、社会の問題としてどうアプローチすればいいのか?」
また同時に自分に対しても
「そもそもそうした状態は改善すべきなのか?」
と問いています。
「資本主義」という名の魔力
僕が見てきたのは同じような若い年代の人たちが多いわけですが、どうやらこれは若者に限ったことでもなく思えます。
というのも、今現在もたらされている多くの国際問題のような解決に困難だとされているものの多くは人間的活動、特に経済的問題が主な要因として起こっているように思えるからです。
その経済的問題の根幹にあるのはおそらく資本主義なのですが、これに疑いの目をかけて、次世代へと繋ぐような新たな道を模索している人がどれだけいるかというと多くはないように思えます。
もちろん、資本を循環させることは一概に負の側面だけではなく正の側面があります。
かつて見られたような社会主義と資本主義というイデオロギーの対決として冷戦が表面的にあったわけですが、それは社会主義が様々な制約に耐え切れず自ら綻び崩れ去りました。
そして、そうした資本主義の負の側面を補おうと修正資本主義という考え方が出てきたと思うのですが(国によって違う)、比較的自由という名の下に「アメリカンドリーム」を標榜してきたアメリカではその反動として民主主義が思わぬ方向に進みつつあることを示唆しているようにも思えます。
「資本主義」と「魔法の世紀」
ピケティが『21世紀の資本』で指摘したように結局、資本主義という経済システムは極一部の人にのみ富を集中させるのでしょうか?
けれど、ピケティはクズネッツの用いた分析を対象の時間幅を広げて計算し間違いだったとしたように、ピケティの経済予測が必ずしも正しいとは限らないかもしれません。
ですが、面白いことに最近『魔法の世紀』で脚光を浴び「人間性を捧げろ!」と言う落合陽一さんもこの資本主義について最後の良心みたいなのが反応すると言っています。
※ 詳しくは10:50~15:10くらいの間でその話をしています。より正確に言うと、資本主義とITのヒエラルキーが似た構造になっていて、ISなどの反勢力が抵抗してももはや「戦争」とすら呼ばれずただの「テロ」として片づけられていってしまっているんじゃないかという文脈で、資本主義を疑うことなく当然のものとして進んでいってしまっているという話です。ちなみに落合さんはもうその流れに割り切って乗る方向に舵を取ったそうです。
資本主義がこのまま続いていけばどこかで限界が来るのではないかという危機感は未だにありますし、上のビデオでもいつかリーマン・ショックという名のブラックホール?が起こりうると言っています。
※ ビデオでは「魔法の世紀」とはまた関係なく起きていると言っています。
あくまで可能性の話ではありますが、実際に第二次世界大戦の火蓋が切って落とされたのも、それ以前の多くの侵略行為といった争いはそうした経済的な問題が根幹にあったのではないかという気がしています。
また、争いだけでなく資源といった環境の問題もそれに次ぐものだと思います。
どこかで乗り越えなければならないんじゃないかと思いながら、どうやってそれらを乗り越えていけばいいか全くもって分かりません!!!
社会善と個人善?
かといって、僕が思うに「そういった問題や危機があるからといってなぜそういった問題を解決するために行動しないんだ?」という憤りは個人の価値観を押し付けているだけであって正しくないように思えます。
こんなことを言うと、さっき「私は世界とは同一である。」とか「当事者意識がない」と言ったじゃんかと突っ込まれてしまいそうですので付け足しますと、
やはり社会よりも個人の「責任」を優先すべきではないかと思うからです。
最初で最小の社会である両親から生まれるという時点で、どうあがいても人は社会から完全に脱することはできません。
そこから出会う血縁、地域住民、友人、先輩後輩 etc.
これらの関係を完全に断ち切って個人の自由意志の元にすべてを選択して生きていける人などいないと思っています。
が、それでも社会と個人のどちらに従うべきかと言えばやはり個人だと僕は考えています。というのも、これはかなり観念的なもののように思うのですがそうした社会に規定されない個々人の奥底にある本来の自分がいるのではないかと思っているからです。
それは、言うなればデカルトのこれ以上疑い得ない自分という存在なのかもしれません。
ただこれに関してはあまり自信がありません。
他にも怪しいなーというのがいろいろあるけど…「哲学」はしてきたつもりなんですけど、「哲学学」はあまり詳しくないんですよね…
今は「哲学学」を少しずつ勉強しているところです。
とにかく、
社会的な権力などに抑圧されることなく生きれる方が健全だとは思っています。
もちろん、これまで歴史的に構築されてきた社会的な制度によってそうした個々人並びに社会が循環・維持されていると認識しています。
だから、一概に社会批判をしたいわけじゃありません。
日本のアカデミズム
これらが現在浮かびあがっている問題点やそれに付随する危機意識、また僕自身の哲学だったわけですが、その解決策として僕が考えるのが「教養」です。
これは単に知識があることを意味していません。
「教養」や「知識人」というものはただ知識を持っているのではなく、その不完全性を認知していることにあると考えています。
どう考えても皆が皆、一つひとつのことを徹底して突き詰めることはできませんしする必要もないと思います。
が、そうした行為である態度が大事であるともう少し認知されてもいいのではないかという気がしてなりません。
確かに、話を聞く限りでは日本のアカデミズムの世界(特に文系)が現在のような立ち位置に甘んじるようになったのは外的要因だけでなく内的要因も大きいのではないかと思います。
(時々、哲学界などからもそういった声が上がっていますよね)
ですが、アカデミズムの方法論としての価値が揺らぐと言うことはないのではないでしょうか?
なのに、今はどこか実学が持てはやされ虚学が軽んじられている傾向にある気がしてなりません。そもそも、学問というものも元を正せばすべては「哲学」に帰結します。
時代的な要請があるとはいえ、
「学問を支える土台として存在する基礎研究がどこかないがしろにされているのはなぜなのだろう?」
と思ってしまいます。
(自然科学も含む)
それだけでなく、今の世の大学生(昔は違ったではなく今しか知らないという意味で)はそうしたアカデミズムの価値をどれだけ認知して卒業していっているのかというと疑問です。
留学だとか就活だとか手段なるものばかりが表立って、そもそもの内的・外的な問いかけがなされていないのではないかという気がします。
また、インターネットにおいても声が大きいものが勝つというのが未だに強いのもどうかと思っています。「価値」とは他者だけが決めるものではなく、内的なものとして存在する「価値」もあると思っているからです。
必ずしもマジョリティが支持したからといって価値が高いわけじゃないはずです。
(そのマジョリティをどの集団として捉えるのか?とか長期スパンで考えれば結局は他者が価値判断して良いものが残るとも言えますが…ジョン・デューイはプラグマティズムでこのようなことを「真理化のプロセス」と言っていたはず。)
自分が気づいてないだけかもしれませんが…
ただ、少なくともマジョリティではないという実感があります。
そうした事態に対処するには今一度、アカデミズムとしての方法論をきちんと伝えていくことが必要なのではないかと思うようになりました。
そこで、今はそうしたことを伝える「学術メディア」の構想を試案しています。
「べき」という価値観の正当性
ですが、これも「価値」の問題であって学問を重んじると言いながらそれを正当化するのも難しい気がしています。
この本でも述べられていますが、そうした価値を主張していくにはやはり「私」の空間的・時間的幅を広げる必要が出てくるように思えます。
とすると、先ほど言ったような「私と世界は同一である。」ということを証明していけば出来るのではないかとも思ったのですがことはそう簡単ではないようです…
この本は守る道徳を考える倫理学ではなく、不道徳な倫理学を最終的には説いています。
倫理も哲学的に突き詰めれば「そんなものはない」というニヒリズム的なものなのでしょうか?
だとすれば何をしてもいいのでしょうか?
科学ですらファイヤ・アーベントによって「anything goes(なんでもいい)」と言われています。
が、それを科学哲学者の方に聞くと彼の理論にも綻びがあるそうでこの本を読むといいと勧められました。
量子力学の哲学――非実在性・非局所性・粒子と波の二重性 (講談社現代新書)
- 作者: 森田邦久
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2011/09/16
- メディア: 新書
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まだこの本は読めてません。
(授業なんて最早どうでもいいので好き勝手にいろいろ読みたいな…)
そんな感じで最近は
「全くもって分からないなーあっはっはは!」
という様相を呈してきました。笑
(ちなみに苫野一徳さんなど論理相対主義一見は強力だが「自由の相互承認」という点に関しては絶対的と言えるや、アマルティア・センのように結局「正義」なるもののも相対的だという点に対しジョン・ロールズが言うような絶対的「正義」をどこか標榜しているというような意見もあり今はそちらを支持してはいますが、果たしてそれが本当に正しいのかは今の僕には判断がつきません。)
もし哲学も倫理学も
「個としての精神が世界を明らかに見ようとする努力であるとすれば、そのような哲学における知は本来内発的なものでなければらずそれがそのまま他人に伝達できないのは当然のことである。」
『科学から哲学へ』(春愁社)
ならば、自分がこれまで抱いた問いも淡く儚いものに思えてきます。
まぁ、もしそれを押し付けようとするものならばそれは一種の宗教ですよね。
答えを求めて三千里
もしそうであるならば今自分が専門として学ぼうとしつつある「批判的談話分析:Critical Discourse Analysis(CDA)」は価値を用いて批判するのではなく、批判的な眼差しを提供したりその方法論を精錬化させるという意味で価値があるなと思わなくもないです。
でも、やっぱりどこかに「答え」があるのではないかと思ってしまう今日この頃。
そしてその上で批判的な眼差しを向けていきたいです。
とにもかくにも、もし自分が述べてきたような正しさが仮にあったとしてもそれを押し付けることなどは出来ず、自らが問い続けそれを体現し、各々の問いが同じようなものに至ると信じるしかないのかもしれません。
一端、1からリセットするつもりで考えを組み立て直して行くくらいの気概が必要な気がしないでもないという。
うーん、日々精進!
では~!