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月が導く異世界道中 作者:あずみ 圭

番外編

32/180

extra32 識の一日

お気に入り29000件突破記念、extra32です。
識の近況をお楽しみ下さい。
 深澄真と契約を交わした従者の一人、識。
 彼は真の三人の従者の中では変り種の存在である。
 そして彼の一日は結構大変である。

「もう朝か……」

 部屋の一角に差し込んだ陽光の筋を視界の端におさめた識はペンを走らせる手を止めて呟いた。
 識の自室は真の屋敷の一階にある。
 広さは六十畳ほど。
 きちんと整理こそされているが本をはじめとする資料の量が多く、様々なサイズの棚やケースも多く置かれている為にあまり広さは感じられない部屋だ。
 もはや自室兼研究室と化しているからか、巴と澪の部屋に比べて人の出入りも多い。

「予定よりも進まなかったな。未だ己の能力さえも把握しきれんとは、ままならん」

 識の眉間に微かな皺が生まれる。
 彼の手元の紙にはびっしりと彼自身の能力についての分析が加えられていた。
 十三階梯リースリッツァ
 真と契約した識の内に目覚めた力だ。

「一から四番は基礎能力の強化、五番が回復と修復、六番が剣限定の近接戦闘能力、七番が儀式魔術級の吸収、八番が三段階の封印術、九番が己の影を使役する補助、そして……」

 己の記述を確認する識はその先に目を動かし、そして沈黙した。
 十三階梯はその名の通り十三の能力の発現が可能だ。
 少なくとも識は自身の能力をそう解釈している。
 契約の際に彼の中に取り込まれた真の指輪の鼓動、それを後に感じた識が研究して十三階梯は生まれた。
 その内、識が自在に扱えると考えている能力は現在五番、第五階梯のケトまでだ。
 以降の力は発動に成功した形で扱っているに過ぎず、十三階梯の全貌となるとまるで把握できていないのが実情である。
 だからこそ識は能力の研究と実践を日課とし、真からの任務や亜空での役割、クズノハ商会の仕事の「合間」に励んでいる。
 彼は、真と契約してから仮眠以外に満足な睡眠を取っていなかった。

「私が睡眠をそれほど必要としない体で良かった。肉体を得た時は、睡眠の欲求との戦いがまた始まるのだと思ったものだが、どうやらリッチの時と同じ無理がきくようだ。十番は何とか発動できそうだが条件付き、十一は発動するが効果が弱く、十二は正体すら掴めん。十三は発動に要求される魔力が多過ぎて単純に手が出せん」

 苦笑いを浮かべる識。
 巴や澪の成長や、彼女らが得た力に比べて識の力は極めて汎用的で、また難しい代物だ。
 契約時から十三個の指輪に助けられ、その上前の二人と比較するとあまりにスケールの小さな存在だと自覚している識。
 だがスケールはともかく、元アンデッドであるという経歴は契約の歴史上でもレアケースに分類される。
 アンデッドはそもそも生者を憎む存在であり、恨みからリッチになったのではない識も長い時の中で、いつしか生者への憎悪に心を蝕まれていた。
 彼がリッチになった理由でもある研究への妄執も、他者との支配の契約を拒む大きな因子になる。
 眠らずに済む肉体と精神を酷使した上での事とはいえ、元がアンデッド風情の識が上位竜だった巴や世界の災害と称された黒蜘蛛だった澪と「戦える」存在になりつつあることも十分異例なケースだった。
 良い事か悪い事かは別として、深澄真に深く関わると漏れなく常識が変わる。
 識が今能力を把握して真面目に目指している場所は、昔の彼から見れば鼻で笑うような夢物語の産物そのものだ。

「さて、と。仕事を済ませてしまうか」

 首をならしながら軽いストレッチで体をほぐす識。
 立ち上がった彼は整頓された机から何冊かのファイルを手にして部屋をあとにした。
 迷いのない足取りで屋敷に併設された建物に入ると、作物の生育状況、探索で発見された新たな植物や動物についての報告を念話で部下から聞いていく。
 同時に今日の指示を与えて念話を切る。

「おはようございます、識様」

「おはよう」

 次に、既に仕事に取り掛かっていたハイランドオークと翼人のチームリーダーがいる部屋に顔を出し、識は彼らと挨拶を交わした。

「……ふむ。海も特に問題はないか。こちらも若様の知識と亜空の状況を照合できる人材が必要だが……陸の班はサリでいいとして、海中は海王から覚えがよさそうなのを見繕えば問題ないな。お前達から海の者に伝えることは何かあるか?」

 机に積まれた報告書と資料を高速で読み込んで現在の状況を把握する。
 実に手慣れた様子で、速い。

「私からはありません。進捗は順調ですね」 

 ハイランドオークの簡潔な言葉。
 エマの友人である彼女は識が真の従者に加わってすぐに配属された古参の部下だ。
 既に二人の間にはある種の呼吸が出来上がっていた。

「海の方々への連絡などは私からもありません。ただ、現在進めている仕事で一点問題がございます」

 翼人の女性からの報告には問題という言葉が含まれていた。

「聞こう」

「識様からの御命令にありました医療班の編成ですが、我々翼人は全体的に治癒系統に弱く、識様から示されました基準まで達していない者が現状大多数です」

「ふむ」

「つきましては治癒に長けた方に指導を受けたいと考えております。それで――」

「わかった。今夜か、明朝には人を揃えておこう。が、治癒と一口にいっても術師の傾向には数タイプある。座学と実践に分けた上で力を向上させるように。地上ではなく空中を主戦場とする以上、支援は自種族である程度完結させる必要がある。翼人の課題だ、じっくりと取り組んでくれ」

「ありがとうございます」

「他には?」

「ありません」

「ではよろしく頼む。報告はいつも通り緊急を除いて昼と夜に。ああ、巴殿と澪殿に渡す書類はこれだけで間違いないな?」

「はい」

 部下からの一礼を受けて、識は脇に更に書類を抱えて自分のデスクに着席した。
 真っ白な紙に迷いなくペンを走らせていく。
 まず箇条書きにした幾つかの条項に、補足説明を加えて書き上げているのは報告書。
 主人である真に見せる為のものだ。
 山のような報告書と部下からの念話の報告を統括して、彼は内容をA4サイズの紙数枚にまとめる。
 書類に魔術などは通用しない。
 そして人の背ほどに積みあがった書類と十数人からの口頭の報告を小さな紙数枚にまとめることなど出来る筈がない。
 自分で処理した後に報告すること、真にあげるまでもなく処理できること、報告する必要のないこと。
 それらを除外した上で真にするべき報告を選択して書き上げているだけだ。
 主がどんなことを気にして、そして気にしないか。
 識は十分にわかっていた。

「……今日は少し多くなってしまったな。あまり若様のお手を煩わせたくないが……これ以上は削れぬし、仕方ない。もう朝食の時間だ」

 自室から持ち出した書類のいくつかを置いて、代わりに真への報告書と巴と澪に渡す書類を手にして識は部下のいる部屋をあとにした。
 時間にして三十分程度である。

「識様は相変わらずお忙しいわね」

「暇という時間をお嫌いになる方のようですから。それにしても毎日凄い紙の量、若様の記憶にあったパソコンというものでもあればこの部屋もずっとすっきりするのですけどね」

 翼人がパソコンの存在に触れた。
 時折識もぼやいていることではあるが、事務仕事をする者にとっては異世界であってもパソコンは夢の機械に映っていた。

「ふふふ、それ、識様もよく仰っているわ。でもあれを作ろうと思ったら物凄い手間と時間がかかって他の仕事が止まりかねないから現状では難しいって」

「あれってやっぱりゴーレムの応用なんでしょうか?」

「さっぱりわからないわ。でも形を見てるとドワーフの工芸品の類にも見えるわね、確かに」

「紙も亜空に来るまでの私達からみたら十分凄いですけどね。ちょっと贅沢になっているのかもしれません」

「ホントに」

 二人がチェック済みの資料のうち、廃棄予定のものが集めてある一角に立つ。
 オークの女性が短く魔術の詠唱を口にすると、彼女の目の前にあった積み上げられた紙の山が一瞬で消えてなくなる。
 代わりに、その場所にはビーズ程のキラキラした球体が残っていた。

「こうして核に戻せば、また繰り返し使えるから無駄にはならないものね。強度もあるし、紙って凄いわ」

「若様の故郷ってこんなものまで普通なんだとか」

「これを数百枚買っても、簡単な食事代程度だそうよ」

 簡単な術で紙を複製することが可能で、しかもそれをまた白紙に戻して再利用できる。 
 真の世界だった日本でも、紙はそんな変態仕様ではない。
 二人は真の故郷をナチュラルに誤解しつつ山積みの業務に取り掛かるのだった。





◇◆◇◆◇◆◇◆





 朝食を真たちと取り終えた識は、亜空からツィーゲとロッツガルドにあるクズノハ商会へと移動し、商会の状況について報告を受けた。
 各店舗では通常営業時の準備と開店は真や識がいなくても滞りなくできるようになっていて、識が店に顔を出すのは大体が開店後少ししてからになっている。
 この辺りの調整は巴と識がクズノハ商会の開業初期から手がけ、今では従業員もみな慣れたものだった。

「在庫は問題なし、大きな依頼もなし……と。武具の作成依頼もこの程度なら、冒険者のレベルも特に変動はないな。あとは、予約関係か。得意先だけではなく一般客からの要望もかなり多い。現状、特例で数件認めているだけだが……」

 ロッツガルドの二階、商会の拠点となっている場所で識は報告書と日報に目を通して唸っていた。
 真はこの時間、巴や澪からの報告を聞いたり、亜空やケリュネオンを見て回っている事が多い。
 先に店の状況をまとめて指示を出し、その上で真に伝える事を整理しておくために、識は先回りして動いているわけだ。
 今彼が悩んでいるのは予約や注文に関しての客からの要望だった。
 クズノハ商会が扱う品は人気のものが多い。
 それなりの品数を用意しているものの、やはり事前に予約して、また決まった量を確実に得られるように注文したいという声もまた多い状況だ。
 識が特例として思い浮かべているのは、レンブラント商会の絡みだったり、真に直談判した客だったり、何件かはトップの真がOKを出して受けているケースだ。
 そもそも在庫は亜空からの産物の場合、供給を絞っているだけなのでその気になれば幾らでも増量は可能。
 他の地方の特産物などの場合でも、転移などという愉快な輸送方法がある以上対応力はかなり高い。
 真の判断一つでどうとでもなる問題でもある。

(若様がお認めになっている件はともかく。現状で予約や注文を受けるとなると売り上げも目立つようになる。かといって一日の在庫の総量を変えずに取り入れると苦情は必至。業務内容が多少増える程度は今の皆の様子を見ていると問題はないとはいえ……)

 難しい問題だった。
 ただ売り上げを伸ばし、業績を上げ、シェアを拡大していくというだけならクズノハ商会には何の障害もない。
 だが、真は商人ギルドで波風を立たせず、かつ店を訪れる客には最大限応えたいという、恐ろしい理想を持っている。
 今でこそある程度の現実を受け入れるようになっている真だが、それでも商売の原理から見ればその態度はまだまだ甘い。

「識様、よろしいですか?」

 ノックの後、識に声が掛けられる。
 森鬼の従業員アクアだった。

「入れ」

「失礼します。午後からの商人ギルド会合ですが夜に変更になったと連絡がありました。欠席であれば昼までに連絡が欲しいとのことです」

「会合か。若様が出席する予定だったものだな」

「はい」

 会合の時間変更。
 少し前までなら返答は確実に欠席します、だった。
 しかし今は少し事情が違う。
 真はロッツガルドで変異体が暴れた一連の事件のあと、商会の代表としても積極的に動くようになっている。

「夜だと食事もつくか。しかも私は行けんし……」

「欠席にされては?」

「若様は行くとおっしゃるだろう。ギルドの会合だからザラも来るだろうしな。奴とレンブラントが知己だからか、若様はあれにも気を遣っているように思える」

「ですが澪様はもう今夜の献立をお考えでしょうし、何より――」

「わかっている。仕方がないが、これしかないか。若様が出席される場合だが、若様と澪殿で行ってもらおう」

「え、若様と澪様にですか?」

 アクアが意外そうに聞き返す。
 クズノハ商会の用事としてはあまりない組み合わせの二人だったからだ。

「そうだ。だが、一応、お前も一緒に行ってくれアクア」

「……ふぁっ!?」

「なにがふぁっ、だ。出欠についてはすぐに若様にお伺いを立てる」

「ちょ、識様!?」

「……」

「問答無用で念話しないで下さい、識様!」

「……」

「アクア。若様はご出席されるそうだ」

「な、なんで」

「どうしてもお前が行けないなら、エリスに頼む事になるが、お前はそれで大丈夫か?」

「大丈夫と申されましても、なにが……」

「若様と澪殿とエリスが商人ギルドの会合に行って、お前の胃は大丈夫か?」

「……大丈夫じゃありません」

「ザラが目を光らせているし、女連れで会合に出席すると言っておけば余程馬鹿なことはないと思うが、よろしく頼むぞ」

「了解、しました」

「済まんな」

「失礼します」

 アクアが若干猫背になって、うなだれたまま部屋を去る。
 その姿を目で見送った識はすぐに仕事を再開させた。
 黙々と商会関連の仕事をこなしていく。

(ん、こんなところだな。あとは夜に来て確認するだけか。さて、今日は顔を出しておく場所が五件ほどか。若様本人でなくても済む所ばかりで助かった。手紙は誰かに頼んで……亜空に戻ってエルドワとアルケーの所にいくのは午後になるな。何とか明るい内にアベリアの様子を見に行ければ上々か)

 何通かの手紙を手に一階に降りると、識はそれを手近にいた従業員に渡した。
 最後に店を一回りして店内にいた客に挨拶などしながら、彼は店を出ていった。





◇◆◇◆◇◆◇◆





「識、お前がコモエに預けたあの娘。あー、若の生徒のなんとかいう奴じゃが」

「アベリアですね」

「おお、それじゃ。モノになりそうかの?」

「……まだわかりません。地力をつけさせている段階ですので」

「それなら学園の講義で身につけさせているのではないのか?」

「本人はクズノハ商会で勤めたいと言っております。それですと、今のあの娘には難しいですからまずは地力から見直しております」

「他の生徒についてはそこまで要求せんのに、か?」

「レンブラント姉妹は縁故枠ですし、ジンなどは素質が元々違います。基礎能力だけにしても、同じ基準で見てやる訳にはいきません」

 巴と識が食事をしながら話をしている。
 亜空の食堂。
 真も澪もロッツガルドに行ってしまっている今夜、巴と識は亜空の闘技場傍にある酒場に出て食事を取っていた。
 周りは喧騒に包まれ、多くの種族が集まって飯と酒を楽しんでいる。

「それだけかのう? 毎日様子を見にきたり、随分気に掛けているとコモエが言っておったが」

「……若様の教え子ですから。それがアベリアの希望なら、出来る限りはしてやりたいだけですよ」

「いやな、儂もちょいと様子を覗いたがあの娘、やけに必死じゃった。識よ、随分と惚れられておるようじゃのう」

「っ」

「若ですら気付くんじゃぞ、驚くことか」

「懐かしい、大昔の記憶に少しあてられたのかもしれません。諸々、否定はしません」

「殊勝じゃな。少々優等生のきらいはあるが、あの娘、若干ライムとかぶる。儂も嫌いではないぞ」

「ありがとうございます」

「……無論、使いものになれば、という前提でじゃがな」

「お眼鏡に適うよう、鍛えてみせます。その折にはライムの下につけたいと思っておりますが、よろしいですか?」

「構わぬ。使える者なら、いくらいても邪魔にはならぬからな。なるほど、ライムと同じように使うなら個人の戦闘能力もそれなりにいる。そして、若やお前に会う機会もそれなりにある、か」

「少々小細工かとも思いましたが」

「お前らしいな。じゃがな」

「はい?」

「もしもあの娘に、ライムと同じようにヒューマンを辞めさせるつもりなら、先に若に了解を取っておけよ。ライムの時はとんでもなく怒られたからの、あれはもう二度と御免じゃ。見るのもな」

「……わかりました」

 最後に識に釘をさす巴。
 自らの失敗を識に繰り返させまいと思っての言葉だ。
 明かしていないはずの最後の手段を巴に見透かされ、識は一瞬言葉に詰まりながら神妙な顔で頷いた。

「お前はこれから研究と修練じゃろ? ご苦労じゃが、励めよ。儂は先に行くぞ」

「あ、はい。お気遣いありがとうございます。お休みなさいませ」

「馬鹿もん、儂もどうせ若から声がかかるでな、寝るわけにはいかんわ。休憩じゃよ、休憩」

「お疲れ様です」

 手のひらをはためかせ去っていく先輩の姿を見送る識。

「さて、そろそろエマからの報告がある頃か。研究の時間はいつも通り始められそうだ」

 酒を飲んで騒ぐ住人の姿を尻目に、このあとの予定を考えながら識は店を出た。
 そして……。

「もう朝か」

 彼の眠らぬ日々は続いていく。
 幸いなのは、彼が元々眠りを必要とし、それに縛られたヒューマンであったこと、眠りに割かなくてはいけない時間を惜しむ性格であったことだ。
 識にとって寝なくてもいい事はプラスだった。
 巴や澪とは逆である。
 彼女らは眠りの心地よさを楽しんでいるのだから。

「まったく、時間はいくらあっても足りんな」

 事実、識の表情には疲労感が浮かんでいない。
 目にはどこか嬉々とした光さえ宿っている。
 多忙な毎日を識は存分に楽しんでいた。

 
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