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第十九話 そして伝説の幕が開く 書籍化該当部分5
それでは軍閥政治ではないか!
貴様……反抗するか byバスク・オム
バルドは南部を守備していたネルソンを呼び戻した。
すでにサヴォア伯の軍も撤退していたし、もはや南部に配置する一兵も惜しかったのである。
「騎兵部隊には偵察と総予備を任せる。帰ったばかりで悪いが斥候を出してくれ」
「御意」
南部を転戦したネルソンの戦いも、バルドに劣らず困難なものであったが、いささかの躊躇も見せずネルソンは快諾した。
アントリムの置かれた状況はそんな悠長な余裕がないとわかっていたからであった。
籠城、あるいは撤退戦を考え、領民の疎開も始まっている。
残念ながらコティングリー街道が崩落したため、味方領内に逃げこむのは難しいが、ハウレリア王国もわざわざアントリムのような僻地を兵を出して全土占領する余裕はない。
バルドを討ち果たすか捕虜にすれば、そこで戦闘は終わるはずであった。
そのため、西部と北部の村落に一時的に領民を疎開させるため、バルドは一時金と食糧を支給した。
「配給はこちらにならんでください! 順番を守って!」
「……また戻ってこれますよね?」
不安そうな領民のお婆さんに、テュロスは絶対の自信を持って断言する。
「もちろんです! 最悪ひと月もかからずまた戻ってこれますとも!」
その迷いのない笑顔に勇気づけられたかのように、一人、また一人とガウェイン近郊から西に向かって隊列が伸びていった。
ようやく並んだ人波が解消されたのを見計らって、ブランドンはうらやましそうにテュロスに声をかけた。
「君は本当に領主様を信頼してるんだねえ……」
まともに考えれば勝ち目などどこにもないように思える現状である。
それでも全くよどみなく勝利を信じることのできるテュロスが、ブランドンは心底うらやましかった。
もともとアントリムの生まれであるブランドンは、青年期の戦役の記憶を今も色濃く覚えている。
領主の一族は女子供まで含めて全滅し、領民たちも特に虐殺があったというわけではないが、戦火に巻き込まれておよそ三分の一が死傷した。
ブランドンの歳の離れた兄も、そのときの怪我がもとで亡くなっている。
あのときのなにもできない無力感。
故郷を蹂躙されて、親しい友人や家族を失う絶望感。
そして全てが終わった後には、喪失感とぶつけるところのない怒りだけが残された。
ここは王国も領主も助けてくれない土地なのだ、と。
バルドは領主としては規格外に優秀だが、それでも一国を相手にするには微力すぎるであろう。
ブランドンの理性はそう判断せざるをえなかった。
「あの方が無理、とか不可能、とかいう言葉をどれだけ乗り越えてきたか、私は一番身近で見てきましたから」
曇りのない目を輝かせてテュロスは答える。
コルネリアスで出会ったあの日から、バルドは憧れで尊敬と忠誠の対象だった。
バルド以外の誰も想像もできない画期的な発明や発想を、テュロスはいち早く消化し自分のものにしてきた自負がある。
そして何より、平凡な仕立屋の三男坊にすぎない自分を、側近として登用し、重要な職責を任せてくれているのだ。
主から信頼を得た部下が、その主を信頼しなくてどうする?
ほかの誰もがバルドを見捨てても、テュロスだけはバルドを信じ抜く心算であった。
「そうだね……あの領主様なら……もしかして……」
ブランドンもバルドの規格外ぶりには振りまわされてきた一人である。
バルドとアガサが外出した際には、過労死の一歩手前まで追い込まれたことも記憶に新しい。
あるいは、過労死のほうが敵と戦って殺されるより嫌な死に方かもしれないな。
そう思うとブランドンの胸から重苦しい何かが、すっと抜け出ていくのがわかった。
「それでは私も領主様を信じるとしようか。我が微力を尽くして」
「それがよろしいでしょう。しかし……アガサ様に次ぐ行政官である貴方が、バルド様を信じきれぬとは……」
「あれ? なんだか様子が変だよ? テュロス君。少し落ち着こうか」
「ええ、落ち着いておりますとも。落ち着いて貴方を――お仕置きします!」
「うそおおおおおおっ!」
エジンバラ公にして宰相のハロルドは、バルドがあげた奇跡的な勝利の影響を最大限に活用していた。
それほどにバルドの勝利はインパクトがあるものだったのである。
経済的には優位でも、もし軍事的な衝突が起きたならばハウレリア王国が優位というのが、マウリシア王国貴族や、民衆の間でも定説に近いものであったのだ。
ところがその定説が崩れた。
そうなれば自分が損害を受けるのがいやで傍観していた貴族たちの意見も変わる。
何といっても戦争はリスクもあるが、昇進と褒美を得るためにはまたとないチャンスでもあるからだ。
もっとも前回の戦役では、その褒美が欲しくて暴走したうえ惨敗したわけであるが。
いずれにせよ、被害を王室に押しつけ、相対的に影響力を取り戻そうという反国王派貴族の策略は、逆に褒美を国王派に独占されてしまうという危機をもたらした。
このまま趨勢に取り残され、冷や飯を食わされることになるのではないか。
それどころか戦後、非協力的な態度を罪に問われるのではないか。
流言によって彼らのそうした危機感を煽りつつ、ハロルドは反国王派貴族を分断した。
――一部の貴族を裏切らせ、告発された貴族を処分したのである。
いつ仲間の貴族に告発されるかわからない疑心暗鬼に陥った反国王派が雪崩を打って鞍替えするのに、それほどの時間はかからなかった。
「――とはいえ見せしめは必要です。貴方はそうなりたくはないでしょう?」
優男といっていい容姿ながら、大国マウリシアを統括するハロルドの迫力にヘイスティングス伯爵ヘンドリックは全く抵抗することができなかった。
「――――はい」
貴族の誇りと名誉のために、国王と平民の手から権力を取り戻そうと煽動したヘンドリックの姿は見る影もない。
むしろ中心的な役割を果たした自分が、いつ仲間に裏切られるのではないかと戦々恐々としていたことが、彼のやつれ具合から見受けられた。
何もかもが裏目に出た――――とヘンドリックは思う。
王国の経済優先と平民の地位向上という政策は、内乱に陥り亡国の憂き目をみたトリストヴィー王国と同じ経過を辿っているともいえる。
ヘンドリックが賛同する貴族が決して少なくないと確信できたのは、トリストヴィーのクーデターがあったからこそだ。
実際に思った以上の貴族が集まり、そのリーダーとして将来の栄光を夢見たのもつかの間、たちまち事態は変転する。
当初から国王と宰相はヘンドリックたちを監視しており、仲間たちのネットワークが把握されたばかりか、行政府を掌握した宰相、そしてランドルフ家をはじめとする国王派貴族、そしてダウディング商会のような総合商社が一斉にしめつけを開始したのである。
貴族の収入は官僚でなければ領地からの税金収入だが、彼らでも物を売買しなくては生活していけないのは平民と変わらない。
物価があがり、農作物の買い取り価格が安くなってたちまち彼らは困窮した。
本来こんなことをすれば貴族の横のつながりで、顧客を失うのは商人のほうなのだが、現在は王国行政府が後押ししている有様である。
彼らに打つ手など残されているはずもなかった。
ハウレリア王国が攻めてきてくれさえすれば――それは彼らに残された最後の希望に似た妄想であったが、その妄想もバルドの大勝利で潰えた。
家が滅亡するまで勝ち目のない戦いを続けるという考え方はヘンドリックにはない。
いや、ほとんどの貴族にはないといったほうがいいだろう。伝統のある古い貴族ほどその傾向は強くなる。
たとえどんなに愚かでも、家のために個を殺し屈辱にも甘んじるのが貴族たるの最後の義務であった。
対反国王派貴族包囲網ともいうべき彼の施策は、ここまで順調に推移していた。
あとは黒幕であるボーフォート公に責任の一端を取らせて手打ちとする。
反乱を誘発するところまで追い詰めるつもりはハロルドにはない。
それが貴族社会の常識であり、ハロルドもウェルキンも、そうした貴族の伝統としがらみから自由ではなかった。
だからこそ、ボーフォート家の降格を落とし所と考えたハロルドを責めることは出来ない。
マウリシアの建国以来、処罰された者はあれど、お家を断絶させられた伯爵以上の貴族は一人たりともいないのだから。
――――魔がさすという言葉があるが、後世の人間は今のボーフォート公アーノルドを指してそう判断するかもしれない。
「あのヘンドリックの小僧がハロルドの軍門に下っただと?」
「はい……おそらくは今頃王都で面会しているころか、と」
ヘイスティグス家に潜入させていた部下からの報告にアーノルドは激高した。
ボーフォート家の隠れ蓑として、ヘンドリックは反国王派の表面上のまとめ役であった。
その彼が国王派に鞍替えしたということは、もはや事実上反国王派は崩壊したのと同義である。
否、反国王派の崩壊にとどまらず、ボーフォート家の没落をも意味した。
「なんと愚かな……あと少し……あと少しでハウレリアが再び動き出すものを!」
アーノルドの策略通り、ウェルキンはボーフォート公爵軍を無視できず王都周辺の軍を動かせずにいる。
アントリムの若造に二度も奇蹟など訪れるはずがない。
遠からずハウレリア軍勝利の報が届くに違いないのだ。
それを待てずに国王に尻尾を振ったヘンドリックを、殺しても飽き足らないほどにアーノルドは憎悪した。
憎悪の念が溢れだして呼吸するのも苦しさを覚えるほどだ。
今や燃え尽きるろうそくの炎が、最後に鮮やかに燃え上がるように、アーノルドは怨念を糧に生気を取り戻した。
それはアーノルドとボーフォート家にとって決して幸福なことではなかったけれど。
「――わしは兵を挙げるぞ!」
「ま、まことでございますか?」
もし部下でなかったならば正気なのかと言いたいのを必死に抑えた問いかけにアーノルドは激怒した。
「貴様――――反抗するか?」
「め、滅相もございません! しかし我が家の戦力だけでは……!」
「もはやわしに残された道はハウレリアの支援のもとマウリシア王位に登るのみ! そのためには兵を集めたまま模様眺めは許されん!」
狂気としか言いようのない妄想である。
ハウレリア王国がアーノルドの即位を認めてくるのか、そもそもハウレリア軍が戦いを継続するのか、なにひとつ明らかでないにもかかわらず、圧倒的多数のマウリシア王国軍を相手に戦端を開くなど。
こうした無謀な老人を排除すべきなのが次期当主なのだが、ボーフォート家にはアーノルドを掣肘すべき次期当主が育っていなかった。
さらに不幸なことには、アーノルドをはじめ歴代のボーフォート家当主は家臣には優しく有能な領主であり、家臣団の忠誠と組織力は十大貴族のなかでも一、二を争うほど高かった。
「テムズとハーゲンに伝えよ。攻め込まれたくなくば我が旗のもとに馳せ参じよ、と」
「ははっ!」
ボーフォート家の軍事力は周辺貴族のなかでは群を抜いている。
形だけでも従う貴族はそれなりにいるだろう。もっとも忠誠心はさほど期待できまいが。
重要なことは、そうした圧力がすでに反乱行為であり、王国はそれを放置しておくことはできないということだ。
いかに狂気に判断力を失っていても、アーノルドはたとえば王都キャメロンを陥落させることができる、などとは考えてはいない。
地の利のある自領に引きずりこんで、出来るだけ王国軍に消耗を強いることが最大の戦果であると、極まっとうに判断していた。
のちに、ほとんど意味はないが、放置もできない厄介事という意味で故事成語となる、ボーフォートの籠城の始まりであった。
ボーフォート公謀反。
十大貴族にして、かつての王国筆頭貴族の反乱はマウリシア王国に激震を走らせた。
誰もが無茶無謀を通り越してボーフォート公の正気を疑った。
もし仮にボーフォート公が利益を得るとすれば、それはマウリシア王国が滅亡するほどのハウレリア王国の完勝が必要であり、なおかつハウレリア王国の善意にすがるしかない。
味方してくれたからといって、ハウレリア王国がボーフォート公を厚遇する義務はないのである。
ましてアントリムで先鋒軍を喪失したハウレリア軍が、この先マウリシア王国を占領できるほどの勝利をあげられる可能性は限りなく低かった。
せいぜい望めるのは和平を有利にするための限定的勝利であり、そのためにわざわざ反乱を起こすこと自体が考えられぬ話であった。
「――――狂ったかアーノルド!」
そう国王ウェルキンが思わず絶叫してしまったのも無理はない。
狂気にも似た妄執あればこそ、ボーフォート公アーノルドはこの勝ち目のない戦いに打って出たのだから。
「――私は人の愚かさというものを甘く見ていたのかもしれません……」
ボーフォート公の手足を奪い、無条件降伏に持って行こうとしたハロルドも顔面を蒼白にして俯いていた。
少しでも理性が働けば、ボーフォート公アーノルドも名門としてこの先も存続できることを理解したはずである。
また、その程度の洞察も出来ずして長年十大貴族の筆頭を務めることなどできはしない。
だからこそアーノルドが、政治家として利のない暴発を思いとどまるであろうとハロルドは予想していた、
信頼していた、と言ってもいい。
建国の功臣である十大貴族には、その血を次代に引き継いでいく義務がある。
はたしてアーノルドに一族の血と家名、そして可愛い孫まで巻き込んで心中するという自覚はあるのだろうか。
どんなに無謀で愚かな決断であろうと、これを放置しておくことは不可能であった。
ボーフォート公領の周辺には比較的小さな小領の貴族しかおらず、抑止力を働かせることが難しい位置的状況にある。
早めに手当てしなくては、ボーフォート公領周辺が半独立王国化する可能性も否定できない。
そうなってから討伐したのでは被害が大きすぎるため、影響の少ない今、討伐する必要があるのであった。
そうした高度な要求を実現できるだけの手腕をもった戦術指揮官は、王国広しといえどもそう多くはない。
ましてハウレリア王国を相手に戦力を維持しなくてはならない状況にあって、国内のボーフォート公に向かわせる将帥となるとさらに少なかった。
騎士学校校長にして、平民として貴族とのしがらみのないラミリーズが選ばれたのは妥当な判断であると言えるだろう。
「……老骨に味方殺しをせよ、とはまったく因果な商売じゃのぅ」
今さら栄光や栄達を夢見る歳でもない、ラミリーズにとっては名誉でもなんでもなかったのは運命の皮肉であろうか。
本来対ハウレリア王国戦に投入されるはずであった兵力を率いて、ラミリーズは王都キャメロンを出陣した。
「…………死ぬなよ、バルド。この老骨と違って、お前には果たすべき生まれ持った運命が待っているのだから」
諦念とも哀惜ともつかぬラミリーズの呟きは、誰に聞かれることもなく戦場の喧騒の中に消えていった。
ハウレリア軍本隊の来寇を察知したのは、やはり土地勘のある傭兵を主体にしたジルコたちであった。
彼らのなかにはかつての戦役を戦った古つわものもいる。
彼らにとって、ハウレリアの敵地深く潜入することなど造作もないことであった。
「四万……五万はいるね……」
「いや……輜重の姿がまだ見えん。下手をすれば六万を超えるかもしれんぞ?」
「まいったねえ……ハウレリアは負けたら国を滅ぼす覚悟かい?」
たかだかアントリム程度の小領に派遣される軍の規模としては、正しく破格というほかない。
そこまでアントリムにこだわる理由が一介の傭兵であるジルコには見当もつかなかった。
「子爵様に伝えてきな。ハウレリアは総力をあげてやってきた、と」
早足のウィルバーは不思議そうに尋ね返した。それではまるでジルコはここに残るようではないか。
「それじゃお前はどうするんだ?」
「――このままじゃハンデありすぎるだろ? ここらで給金分の働きはするさ」
不敵に嗤うジルコの覚悟の深さを、歴戦の傭兵であるウィルバーは察した。
「給金じゃとても足りねえよ。子爵様からボーナスをふんだくってやらんとな」
「ああ、任せたよ、ウィルバー」
同じ傭兵であっても、グループの頭はその人間の実力と持って生まれたカリスマがものをいう。
武力でジルコに引けを取るとは思わないが、傭兵の格としてジルコには敵わないと思うのはこんなときだ。
「――――死ぬなよ、ジルコ」
傭兵の仕事などいつでも死と隣り合わせである。
この稼業で見送った戦友の数は両手が十本あってもききはしない。
それでもジルコとその仲間は数々の戦場をくぐりぬけて生きのびてきた。
しかしそれを知っているウィルバーにしてなお、あの数万の軍に挑もうとするのはあまりに無謀な試みであった。
「心配するない、ちょいとからかって逃げるだけさ」
感傷のせいだろうか。
少し照れながら微笑むジルコの顔が、なぜかとても可愛らしく感じられた。
そんな気の迷いを振り切るように、ウィルバーは頭を振ると、後ろも見ずに馬首を返した。
遠くなっていくウィルバーの背中を見送って、ジルコは仲間たちに問いかける。
「さあて……さすがに今度ばかりは生きて帰れないかもしれないけどいいのかい? あんたら」
「おいおい、せっかくボーナスを頂くのに仲間はずれはないだろう?」
「そうそう、やばいところを生き残ってこそ褒美もでかいってぇもんさ!」
口ぐちに軽口を叩き笑い合う仲間を、頼もしそうにジルコは見つめた。
傭兵にとって生き残るということは至上命題である。
彼らの命の値段は安く、味方にも使い捨てにされがちであるため、自らの命は自らが守らなければならない。
だからこそ不利な戦場から真っ先に逃亡するのが傭兵であった。
しかしジルコのような歴戦の傭兵となると、もらった金の分は働くという職業意識が働くようになる。
有能で手段を選ばない傭兵が不正規戦闘に徹すると対処は非常に困難だ。
さらに、ただでさえ有能な彼らが決死の覚悟を固めたとなると、その猛威は時として災害にも等しいものとなる。
本来傭兵は死ぬべき理由を持たない。
ゆえに傭兵が自ら進んで死を覚悟したとき、往々にして戦場には伝説が生まれるのである。
「――大将の新しい料理がまた食べたかったねえ……」
ここ数年の、驚天動地を地で行くような記憶を思い起こしてジルコははにかむように笑う。
はじめは戦場の空気を感じてマゴットを訪ねただけだったのに、人生とはなんと面白く、そしてままならぬものか。
「ま、それでもなんとかしちゃうのがあたしって奴なんだけどねっ!」
死に臨んで最後まで希望を捨てない。
たとえどんな死地に見える戦場でも、万に一つの生は必ず残されていることを、優秀な傭兵は残らず体験的にそれを知っている。
「ミランダは森の中から狙撃を頼む、グリムルは四人ほど連れて仕掛けを急げ。ミストルと残りはちょいと派手に烽火をあげるとしようか!」
「おうっ、派手なのは好みだぜ」
「むしろ敵さんが可哀そうだよなあ……絶対これっぽっちの傭兵だなんて考えてないぞ?」
それでも全員が生還出来る可能性は皆無に等しい。
だが平然とそれを笑い飛ばせるからこそ、彼らは傭兵のなかの傭兵なのであった。
斥候の騎士たちは、火勢が予想以上に本格的であることを確認して首をひねっていた。
焼き畑であるにしては農民の姿が見えず、自然発火であるにしては燃え広がる速度が速すぎる。
何者かによる意図的な放火である可能性が高いのだが、こんなことをして何になるのか、その意味が不明であった。
「……もしかすると徴兵された家族のいやがらせか? いずれにしろ大したことではあるまい」
悠長に消火活動を行うような余裕はハウレリア軍にはない。
そう考えて斥候が踵を返そうとしたそのとき、彼の胴体は鎧ごと両断されていた。
まるで噴水のように血が噴き上がり、臓物がぼとぼとと大地を濡らしていく。
目を疑うような凄惨な光景に斥候たちは惑乱した。
「何だ? 何が起こった?」
「まさか……敵なのか?」
ほんの刹那の一瞬、一陣の風が吹いたかと思うと、僚友が無惨な死体に変わり果てていたのである。
彼らも、国内で襲撃を受けるとは予想していなかったため反応が遅れた。
「――――悪いけど一人も生かして帰さないよ」
ジルコの合図と同時にミランダの矢が飛来して、次々と斥候たちを射落としていった。
そしてジルコも再び全身に魔力を練り始める。
ジルコの身体強化は爆発力はあるが、溜めに時間のかかるため仲間の援護なしには使えない。
「退け! 伏兵だ! 少なくとも一個小隊はいるぞ!」
実際のところは一個分隊ほどなのだが、いずれにしろごく少数であることを知らせるわけにはいかない。
「逃がさないよ!」
ミストル率いる数名が、退路を断つようにして斥候たちの背後から襲いかかった。
「くそっ! 散れっ! 散れっ!」
なんとしても情報を持ち帰りたい斥候と、持ち帰らせたくないジルコたちの駆け引きは、今のところジルコの予想通りに推移していた。
「……この程度の小勢で本隊に挑んだことを後悔させてやる!」
戦友の死に歯噛みしながらも、馬首を返しひとつ頭を抜けだした斥候の騎士は憎々しげに呟いた。
仲間を殺されたとはいえ、ハウレリア軍全体からすれば痛くもかゆくもない損害にすぎない。
結果的に敵が皆殺しにされる未来は確定したようなものだ。
しかし――――。
「なっ??」
いつの間にか木々の間に張り巡らされていた鉄線が、日射しを浴びて煌めくのが彼の最後に見た映像となった。
「こんな視界の効かない場所で馬を走らせちゃあいけねえな」
巨体に似合わずグリムルはこの手の細工が得意であった。
森のような狭い空間での不正規戦においては、セルとならんで敵に回したくない男である。
「これで――――終わりさっ!」
十分に魔力を練ったジルコが再び疾風と化して吹き抜けた。
ポロリ、ポロリと、背中を向けて逃走していたはずの男たちの首が血をまき散らして落ちていく。
かくして斥候として派遣された一団は、一人も残さず全滅したのであった。
「――遅い、こんな遅いはずがない!」
ロシャンボーは一向に帰る気配のない斥候部隊にやむなく全軍の停止を命じた。
なまじ大軍であるために、最前列から最後尾まで伝令を行き渡らせ、統率を維持することはただ停止するだけであっても非常な労力を必要とする。
ジルコの狙いはまさに、その労力によって時間を消費させることにこそあるのであった。
「おそらくは斥候は敵に捕捉されて全滅している。あの人数が一人も逃げられなかったとすると、下手をすれば一個中隊程度は展開しているかもしれん。くれぐれも連携を絶やすな」
新たに編成された強行偵察部隊は二個中隊である。
敵の規模がわからない以上、背後の危険性を無視して行軍を再開するわけにはいかない。
通常であればロシャンボーも捜索中隊でも残して先を急いだかもしれないが、辺境の小領でありながら、フランドル率いる精鋭を撃破したアントリム子爵であれば 万が一のことがあるかもしれないという危惧がぬぐえなかったのだ。
「……もしも手に負えぬとわかれば、すぐに戻って援軍を待て」
「了解しました!」
ロシャンボーの危惧は騎士たちも共有するものであった。
彼らにとってアントリム軍は、ただの倒すべき敵ではなく、常軌を逸した何かになろうとしていたのである。
パチパチと火花を散らして森から草原へと火が広がっていく。
顔に感じる熱気に騎士たちは顔を顰めた。
消火をしている余裕がないとはいえ、これを放っておいてよいものか、と思わせる火の勢いであった。
はじめはミストルたちが手分けをして火をつけて回っただけなのだが、折から乾燥していたこともあって、ジルコの予想以上に火の手は広がっていた。
「――さて、連中は頼んだよ」
低い呟くような声でグリムルはジルコに答えた。
「任せとけ、お前も無理すんじゃねえぞジルコ」
「そりゃ聞けない相談だねえ……無理と無茶がタンゴでも踊ってるような策だからねえ」
十中八九どころか、まず間違いなく自分は死ぬだろう。
それでも万に一つくらいは命を拾うこともできるとジルコは信じている。
まだバルドの作った菓子を、もう一度味わうことを諦めたわけではないのだ。
「生きて帰りさえすればそれでいいさ。あの大将の下にいればまだまだ楽しい思いができそうだからな」
「――――違いないねえ」
あの日食堂でバルドに声をかけらなかったら自分はどうしていただろうか。
ノルトランドでもトリストヴィーでも、まず戦のある場所で戦っていることは間違いだろうが、こんなに楽しく充実した毎日が送れていたとは思えない。
生きる楽しみを与えてくれただけでも、バルドは十分忠誠を捧げるに値する雇い主であった。
「また会おうセル、グリムル、ミランダ」
「死ぬんじゃねえぞ! ジルコ、ミストル!」
配下の傭兵を引き連れて、ジルコたちは二手に別れた。
「おい、待て! あそこに倒れているのは……!」
騎士たちは折り重なって倒れている死体を発見して、次々に馬を下りた。
「くそっ! やっぱり……」
「手練だな。一撃で真っ二つにされている……」
なかには見知った戦友の姿を見つけて慟哭するものもいる。
死を常に覚悟した戦場とはいえ、仲間の死が哀しくないわけではない。
「気をつけろ、近くに敵がいる…………ぞ」
一人の騎士がふらりと頭から大地に崩れ落ちた。
「おいっ! どうした?」
慌てて駆け寄る騎士もまた、軽い目まいを感じたかと思うと自然と瞼が落ち意識を失ってしまう。
「――――毒かっ!」
本来ならすぐに気づいたであろう酢にも似た異臭も、吐き気を催すような血と腸の匂いのなかに紛れてしまった。
仲間の死体に近寄りすぎた騎士たちは次々と倒れ、かろうじて効果範囲を離れていた者は暴風のような斧の一撃に見舞われた。
「悪く思うなよ。お前らを殺しておかんとジルコに合わせる顔がないんでな」
そしてグリムルの背後からミランダやセルの正確無比な援護が飛ぶ。
たちまち捜索の騎士たちは朽木が倒れるようにして全滅した。
「第二小隊! 何かあったのか?」
「おっと、新手がきやがったぜ」
「貴様ら! 敵だ! 早く中隊長にしらせろっ!」
全滅した騎士と入れ替わるようにして、新手の騎士が一個小隊ほど現れる。
おそらくはそれぞれの小隊が孤立しないように、互いの位置を交換するようにして捜索していたのだろう。
「ま、ジルコからは離れてもらおうか」
そういうと、グリムルたちは身を翻して、追手を引きつけたまま森の中へと消えた。
彼らと入れ替わるようにして、ハウレリア王国の騎士鎧を身につけた一団が、一斉に森を飛びだした。
「一大事でございますっ!」
荒い息とともに一団は大声でわめいた。
こんなことは通常ならばありえない話である。
確かに一大事なのはわかるが、彼らはなぜ一大事であるのかを全く語ろうとしない。
まして彼らの身につけている鎧が、ところどころに血痕が付着していたり、槍の突き刺さった痕跡があったりするのだから、彼らの正体に気づくことは比較的容易であったろう。
しかしここがまだハウレリア領内であるにもかかわらず発生した異常事態が、バルドに対する理解不能な怖れによって増幅され、ハウレリア軍の誰もがアントリム軍が逆襲に転じたのだと錯覚した。
「敵はどこだ? 数はどれほどだっ!?」
全くの想定外の事態に、ロシャンボーの実戦経験の少なさが覿面に出た。
一刻も早く正確な情報を収集しようと、一文字に突き進んでくる騎士に向かって問いかけてしまったのである。
「敵は十万! 王都に向かって侵攻中です!」
「そんな馬鹿なっ!」
マウリシア王国の全軍を足してもそんな人数は出てこない。
ましてそれがすでにハウレリア王国内に侵入しているなどありえる話ではなかった。
もちろん、報告した騎士はそのことを誰よりもよく知っている。
「――――ま、嘘だけどな。覚えときな、何が起こるかわからないのが戦場さ」
不敵に嗤うと騎士たちは槍を縦横に振りまわして、ハウレリア軍の中央へと突入した。
「くそっ! 敵の間者かっ!」
そのほとんどが各地で徴兵され、領主によって統率されている大軍であるがゆえに、ハウレリア軍は内部を暴れ回る小集団を捕らえるのは至難の業であった。
混乱し、連携もなく立ち向かってくる兵士たちをジルコたちは一蹴する。
なまじジルコたちが味方と同じ鎧を着ていることも始末が悪い。
ほとんどの徴兵された兵士は、同郷からやってきた仲間しか顔見知りがいないからである。
「騎士団を集めろ! 民兵どもを早くどかせ!」
そうはいっても簡単に身動きがとれないのが大軍の弱点であった。
損害は軽微であったものの、ハウレリア軍の指揮命令系統はズタズタに引き裂かれたといってよかった。
「防げっ! 何をしておる! 早く倒さぬかあああっ!」
狼狽するロシャンボーに、あと少しで手が届く。
馬を走らせつつ、ジルコは槍をロシャンボーに向かって投擲した。
一陣の風となって過たずロシャンボーを槍が貫くかに見えたその瞬間、甲高い金属音を残して高々と槍は宙に舞い上がった。
「ロシャンボー閣下を殺させるわけにはゆかぬ」
「少し見ない間に男前になったねえ。前より男ぶりが上がってるよ!」
そう言いつつも、ジルコは額から冷や汗が零れ落ちるのを禁じ得なかった。
戦場を生活の場とする傭兵でも、これほどの憎悪を向けられることは決して多くない。
隻眼となったフランドルが発する幽鬼さながらの鬼気は、敗戦を経てまさに燃え盛るばかりであったのである。
フランドル以外にも、騎士団長級が接近してくるのを感じとったジルコは、絶好の機会が過ぎ去ったことを認めた。
「残念だが店じまいだ! 逃げるぞ野郎ども!」
「逃がすと思うかっ!」
不意に背中を見せたジルコに斬りかからんとしたフランドルは、忌々しそうに飛んできた槍を斬りはらった。
ジルコの後ろについていたミストルがロシャンボーへ槍を投擲したからである。
「おのれ! こざかしいまねをっ!」
逃げにかかったジルコたちを押し包もうと前後左右から兵士たちが押し寄せた。
だが敵である兵士は、同時にジルコたちを守る重要な盾でもある。
もしもこれが十分に広さのある空間で、フランドルをはじめとする少数精鋭に襲いかかられていたら、ジルコはとっくに殺されていただろう。
「後ろを振り返るな! 足を止めたら死ぬぞ!」
ただひたすらに前へ、前へ!
この混乱した集団を落ちつけて、再びアントリムへ進軍させるには少なく見積もっても半日はかかる。
そして同じような奇襲を食わぬよう警戒して進むとなれば一日かかってもきかぬかもしれない。
ジルコたちの決死の奇襲は、アントリムに血よりも貴重な時間を稼ぎだした。
「逃がすなっ! 奴らを逃がしてはハウレリア軍の名折れぞ!」
「うわっ!」
馬を射られて一人の傭兵が落馬した。
逃げるべき足を失った傭兵のもとに、兵士たちが殺到する。
「キスリング!」
「止まるな、と言ったのはお前だろう? とっとと先に行け!」
そう言い終わると同時に、キスリングと呼ばれた男は火打石を手に取った。
「ふん、死に花を咲かせるためにとっておいたわけじゃないんだがな……!」
薄笑いを浮かべて動きを止めたキスリングの身体を、無数の槍が貫いた。そして次の瞬間、高々と煙を噴き上げ爆発の華が咲いた。
「キスリング……! 馬鹿野郎が!」
ジルコは唇から血を流して吐き捨てた。
すでにジルコたちはハウレリア軍の外縁付近にまで達している。
もう少し、もう少しで包囲を抜ければ、あとはレナ川までまっしぐらだ。
いくらハウレリア軍が頭に血がのぼっていても、川の下流まで捜索するような戦術的に無意味な真似は取らないだろう。
そして突破の最後の詰めとして、ジルコたちは一斉に爆薬を点火した。
だがそれを見て激甚の怒りを発した人物がいる。
火炎放射器や数々の秘密兵器によって敗軍の将となったフランドルだ。
再びあの悪夢が目の前で展開されようとしていることが、フランドルには認められない。
認めることなど許されない。
「この恥知らずどもがああああああああああああああっ!」
濛々たる爆発の炎と煙のなかに、フランドルは雄叫びをあげて飛びこんでいった。
身体のあちこちに火傷を負いながらも、奇跡的に煙を突きぬけたフランドルは、爆炎から身を守るために身を伏せたジルコたちの無防備な背中を見つけた。
(見つけたぞ、戦を穢す悪魔どもめ!)
「死ねええええええええええええええええ!」
この負傷した身体ではもう追いつけない。
爆発で混乱した味方も奴らを追跡するには不足であろう。
ならばこの一撃で、あの指揮官らしき女を殺しさってくれる!
渾身の力をこめて、フランドルは慣れ親しんだ愛用の槍を大きく振りかぶった。
そして一閃の光となった槍が、目にもとまらぬ速さでフランドルとジルコの距離を結んでいく。
ジルコが気がついたときにはもう遅かった。
背後に集中していてはあの大軍から逃げ切ることはできない。
ひたすら前へ突進することを優先させていたことが、ここで裏目にでた。
しかし――――。
バキリ
骨が圧潰する乾いた音ともにフランドルの投じた槍は、ミストルの胸を背骨ごと貫いていた。
ジルコの斜め後方を走らせていたミストルが身を呈してかばったのである。
さらに勢いあまって背中から飛び出た槍は、ジルコの鎧をも貫き、その腹部に突き刺さった。
「……怪我はないか? ジルコ……」
瀕死のミストルがすでに視力を失っていることにジルコは気づいた。
同じ故郷から農家の下働きがいやで飛び出した仲である。
以来、幾多の戦場でともに守り守られ、安心して背中を任せられる仲間にして、唯一心の奥深い場所を許せる昔なじみだった。
そのミストルが余命いくばくもないことに、ジルコは嗚咽する。
「ああ――お前のおかげで傷ひとつないさ」
嘘である。
腹部に突き刺さった槍は致命傷ではないが、決して浅いものでもなかった。
だが死にゆくミストルを前にして、ジルコはそれ以外に返す言葉を持たなかった。
「どうやら年貢の納め時らしいや。楽しかったぜ、ジルコ」
「ああ……あたしも楽しかったよミストル」
そしてジルコはもの言わなくなったミストルを力任せに抱き寄せた。
「やれやれ、嫁の貰い手がないときは引き取ってもらう相手がいなくなっちまったねえ……」
このまま二人で死ぬというのも、そう悪い人生ではないかもしれない。
そんな感傷に浸りながら、ジルコはレナ川の急流に身を任せた。
あっという間に下流へと姿を消していったジルコたちを追う時間も余裕も、ハウレリア軍には残されていなかった。
ハウレリア軍の到着はバルドの予想よりもほぼ一日遅れた。
その一日をもたらしてくれたのが誰であるか、早足のウィルバーの報告をうけたバルドは身にしみて知っていた。
彼女たちがもたらしてくれた一日という時間が与えた影響は大きい。
もっとも大きな影響はマティス・ブラットフォード子爵の援軍が到着したことであろう。
モルガン山系を越えてきたマティスは、予定より遅れたものの、アントリム陥落前に間に会ったのであった。
「おおおっ! 無事であったかバルド殿!」
「マティス様の援軍、万に勝る味方を得た思いです」
バルドとマティスはしっかりと手を握り合ってお互いの敢闘を讃えあった。
実際に援軍がマティスでなければ、到着は間違いなくもっと遅れたはずであった。
とはいえ、マティスの援軍は千数百名程度であり、慣れない山中の行軍で疲れ果てていた。
昨日からゆっくり一日の休暇をとったものの、疲労が完全に抜けたわけではない。
それでも敵が同数であれば、何も恐れるところではないのだが、ハウレリア軍は全土から根こそぎ動員したのではないかと思われる五万を超える大軍を擁してきた。
これではマティス率いる援軍も焼け石に水でしかない。
もっとも時間の経過とともにアントリムにも援軍がやってくることは十分に期待できた。
ハウレリア軍の矛先がどこに向くかわからないがゆえに、国境に張りつけた兵力は警戒を解くことができなかったのだが、今回ほぼ全兵力がアントリムに向けられたということが知れれば、その警戒も必要なくなる。
もしかしたらコルネリアスからアントリムに援軍が向かっていたとしても不思議ではない状況であった。
「それまでもたせればいいんだが、な……」
それがどれだけ困難なことであるか、バルドは知っている。
まともにぶつかりあえばハウレリア軍は決して弱くはない。それどころか大半はアントリム軍の練度を上回るであろう。
物資の不足した今、どこまであの大軍を抑えることができるのか、バルドは重いため息を隠せずにいた。
一方、圧倒的な戦力を誇るハウレリア軍も決して問題がなかったわけではない。
先日のジルコたちの襲撃によって受けた損害は微々たるものであったが、心理的な衝撃は大きかった。
何より、再び奇襲を受けるのではないか、という恐怖から末端の兵士にいたるまで緊張による疲労が蓄積していたのである。
これは正体不明の武器を操るアントリム軍を相手にするには、あまり望ましくない心理状態であるといえた。
しかしすでにアントリムと戦った経験を持つフランドルや、ハウレリア最強の騎士団である黄金竜騎士団長アルセイユなど戦術能力に富んだ指揮官を多数抱えるハウレリアの優位は動かない。
なんとしても勝利してアントリムの秘匿兵器を手に入れる。
そのために多くの犠牲に目をつぶってハウレリア軍はやってきたのである。
「…………それにしてもこの泥濘は厄介だな」
フランドルの前には、もはや底なし沼と化した感のある泥濘地帯が広がっていた。
よほど念入りに工作したらしく、まともに突撃すればたちまち深い泥濘に足を取られ犠牲者の山ができるだろう。
かといって、悠長に射撃戦を展開するという選択肢はなかった。
もはやハウレリア軍にとって時間の経過は敵でしかない。
まとまった援軍が来襲する前にアントリムを落とさなければ、敗北という名の破滅が現実のものとなる。
「――――死ぬしかあるまいな」
あのアントリムの将が何の策も用意していないはずがない。
必ずや泥濘以外の悪辣な策を弄するはずである。その罠を白日に晒して後につなげるためにはフランドル自身が死ぬ必要があるのであった。
「――だがただでは死なん。今度吼え面をかくのは貴様のほうだ!」
復旧された塹壕線に向かって魔法支援射撃が開始されると同時に戦線は動き出した。
ありあまる物量を盾に、ハウレリア軍は魔法による絨毯爆撃と、泥濘を硬化させ歩兵の突撃を可能にするための魔法工作を同時に実施する。
これに対し、アントリム軍は投石機による榴弾の投射とクロスボウによる射撃で対抗した。
フランドルが率いた先鋒に倍する魔法士を投入した力任せの魔法支援射撃は、紅蓮に咲く炎の華と土砂の煙をまき散らし、アントリム軍の視界を著しく不明瞭なものとした。
「この間より手ひどいことになったもんだな」
サリルは胸壁に頭を隠してあてずっぽうに射撃を続けていた。
狙いをつけなければ命中率は下がるが、自分の方へ飛んでくる矢を無視して作業を続けられる者は少ない。
たとえ当たらなくとも敵に向かって撃ち続けることに意味はあるのである。
「大丈夫ですよっ! 領主様なら!」
崇拝にも似た信頼を領主によせるカーライルを見て、サリルは若いなと思う。
確かにあの領主は出来星だが、決して万能の神ではない。
神でない以上、刺されれば死に、戦えば負けることもある。そして勝つために必要な何かを犠牲にするということも。
とはいえカーライルの純粋な信頼をわざわざ叩き壊すほど、サリルは人間が擦れていなかった。
それに今はそんな余裕もない。
「お前さんの信じる領主様がなんとかしてくれることを祈るとするか」
耳をつんざく大音響とともに、どうやらかなり手前に着弾したらしい榴弾がさく裂する。
「おいおい、味方に落とすのだけは勘弁してくれよ?」
前線の兵士にとって唯一の助けである支援砲撃で殺されては浮かばれない。
サリルは肩をすくめて重い兜をかぶりなおした。
少しずつではあるが、魔法士の硬化の魔法で固まった泥濘をフランドル率いる先陣の歩兵が進んでいく。
彼らの前には再び構築された鉄条網が広がっており、支援射撃で幾分かのほころびをみせているものの、依然として大軍の機動を阻むように立ちふさがっていた。
彼らの任務は敵味方の支援射撃の乱れ飛ぶ真っただ中で、鉄条網を撤去しアントリムの塹壕線を突破するというものである。
十中八九まで死が待っている過酷な任務であった。
しかしその中央で昂然と胸を張るフランドルにいささかも絶望や躊躇の色はない。
そのフランドルの闘志が乗り移ったかのように、先鋒部隊は前進を続けた。
「――――奴め。何を企んでいる?」
殺せるものなら殺してみよとばかりにその姿を前線に晒すフランドルは、アントリム軍の妙な手ごたえに首をかしげた。
先ほどから飛んでくる榴弾は明らかに後方の魔法士を狙っていた。
確かに魔法士の援護がなければ損害が跳ね上がることは間違いないが、戦の帰趨を決めるのは常に歩兵の群れである。
極端な話、全滅を覚悟であれば、このまま泥濘に突撃することも不可能ではない。
にもかかわらずまるでそこにいないかのように攻撃が素通りしていくことが、フランドルにはどうしても解せなかった。
このままではアントリム軍はじり貧ではないか。
まさかあの炎を吐く筒を頼りにしているわけではあるまい。
あれは魔法盾で防御可能であることがすでに判明している、すでに種の割れた品だ。
射程も短いことがわかっているし、フランドルの目標としては是非ともあの筒を無傷で手に入れたいところである。
攻撃を仕掛けてくるのはむしろ望むところであった。
歩兵同士の質では決して負けていない自信がフランドルにはあるし、それはまた完全な事実でもあった。
――――だからこそバルドは歩兵同士の全面衝突が発生する前に戦況を動かす必要に迫られていた。
「――――いったいバルド殿は何をされようとしているのだ?」
マティスは先刻からの不可解なバルドの行動に内心で焦りを感じていた。
彼の常識からすれば遅々とした動きで密集している先鋒に攻撃を集中し、敵の出鼻をくじくべきところだ。
可能な限り敵の鼻面を叩き続け、敵の消耗を待って持久する以外の方策はないように思われる。
しかしその勝率がかぎりなく低いこともマティスにはわかっていた。
根本的に戦力は兵力に比例する。練度は一定の交換比率で兵力差を補正するが、所詮はそれは補正にすぎないのだ。
もちろん戦術もまた兵力差を補正する要因ではあるが、五万対数千という兵力差を覆すものをマティスは想像することもできなかった。
ならば信じるほかあるまい。
すでに二万余のハウレリア軍を敗走させたバルドの実績を。
自分の役割は、バルドの戦術構想を可能な限り実現させることだ。
竹を割ったような性分であるマティスは一度そう思い定めると、もはや微塵の焦りもなく悠然とハウレリアの大軍を見下ろした。
「――楽しみだな。これほどわくわくさせられるのはいつ以来のことだ?」
自己完結してしまったマティスのように、迷いから解き放たれるという贅沢を、バルドが味わうことなどできるはずがなかった。
「……このまま気づいてくれるなよ……」
アントリムにいる全ての魔法士が、まるで火口の溶岩のように泡立った水の前に並んでいる。
これを実行するために、水蒸気爆発を利用した攻撃を諦めなければならないほど、バルドは作戦に賭けていた。
アントリムが魔法解除を行わないために、ハウレリアの魔法攻撃はますます激しさを増しているように感じられる。
かろうじて榴弾がハウレリアの進軍を遅らせているが、残り少ない火薬が底をつくのももはや時間の問題であろう。
幸いにして榴弾や火炎放射器の攻撃を体験したハウレリア軍が、魔法解除を使用する気配はない。
先日の火炎放射器や水蒸気爆発のような、いや、それ以上の衝撃をハウレリア軍に与えられなければこの戦いは負ける、とバルドは直感していた。
胃が痙攣を起こしそうなほどの重圧感。
未知の戦術に対する不安、そして健気に力戦する忠実な兵士への哀惜。
まだまだ本質は少年にすぎないバルドが背負うにはあまりに重すぎる責任である。
いっそ全てを左内に委ねたい誘惑をねじ伏せて、バルドは静かに作戦の開始を告げた。
最前線で弓を手に射撃戦を継続する兵士たちが、息苦しさに呼吸が荒くなるのを自覚したのはそれから少し経ってからのことであった。
もちろん極限の緊張状況にある最前線である。
動悸は銅鑼を鳴らすようにうるさく、肺は酸素を求めて兵士にさらなる呼吸を促し続けていた。
だから息苦しいということに、それほど疑問を感じる者はいなかったのだ。
泥濘地帯を全て硬化させるのには時間がかかりすぎるため、中央にほぼ十メートルほどの橋を架けるようにして形成された突入路は、あと少しでアントリムの陣地を指呼の間に捉えようとしていた。
(ふん、あの炎の筒をそれほど信頼しているのか? そんなもの最初から知っておればどうということはない!)
フランドルは復讐の予感に湧きあがる昂揚を抑えられずにいた。
いくら犠牲が多くとも、自分が戦死することになろうとも、突破口さえ開いてしまえばあとは戦力の差がものをいう。
彼の見るところ、あと少しでアントリム軍の阻止限界点は超えるように思われた。
アントリム軍は巧妙に戦闘正面を限定しようとしているが、たとえ戦闘正面が狭くとも、消耗を恐れる必要がなければ先に根を上げるのは圧倒的に兵力の少ないアントリム軍なのである。
「鬨の声をあげろっ! 勝利の栄光はすぐ目の前にあるぞ!」
あのときは本陣から離れることを許されなかった。
しかしフランドルの本質は優秀な前線指揮官である。
出世して部下を使うことを覚えたものの、才覚においては前線で直接兵を率いる能力には及ばない。
そのフランドルの勘が告げていた。
――――このままで終わるはずがない。
もはやハウレリア軍に被害を最小限にとどめ、次の戦いに備える余裕はない。
どんなことをしても勝つことだけが使命であり、そのためには進んで味方を見殺しにすることさえ覚悟のうえだった。
ここに至って、フランドルは自分の大呼に反応した鬨の声が、思いのほか小さいことに気づいた。
「――どうした?」
兵の戦意に濁りは感じなかった。
そもそも兵とは将の戦意に呼応するように訓練されている。
フランドルが先頭を切って不退転の勇気を示し続けている以上、兵が戦意を失うのはよほどの火力の集中あるいは被害を受けないかぎりありえぬはずであった。
振り向いたフランドルはそこに背筋が凍りつくような違和感を覚えた。
疲れすぎている。
戦場では平時の三倍以上は早く疲れがやってくるものだが、それにしてもつらそうに荒い呼吸を繰り返す兵の疲れ方は異常であった。
この様子では突撃していくらもせぬうちに息切れしてしまうだろう。
何が――――いったい何が起こったというのだ?
考えても答えは出ない。
もう一度士気を鼓舞するべきであろうか?
すでに魔法支援が最終段階に達している現状、部隊に休息をとらせるだけの猶予はもはやない。
しかしこのままでは突撃の衝力は期待できない。
明らかな戦術上の問題点を考えているうちに、フランドルは激しい頭痛に襲われた。
頭が割れそうな勢いで、まるで岩石で殴られているかのような痛みが頭のてっぺんから足のつま先まで走り抜ける。
「こ、これは…………」
フランドルはよろめいただけで、かろうじて踏みとどまったが、部下の兵たちにはそのまま倒れ伏す者たちが続出した。
「ううううっ…………!」
何が起きたのか、どうして兵士たちが倒れているのか、全く理解できない事態に後方の魔法士や本隊の間にも動揺が広がっていく。
――――またか? またなのか?
正体不明の攻撃ほど味方の士気を下げるものはない。
たとえどんなに強力な攻撃でも、目に見えるものは必ず防ぐための方法はある。
しかし何をされているかもわからないでは、ただ敵のなすままにされるだけで、これほど屈辱的で恐ろしいものはなかった。
「よし、どうやらうまくいきそうだ」
バタバタと倒れ始めたハウレリア軍の先頭集団をみてバルドはほくそ笑む。
現在彼らを蝕んでいる正体不明の敵とは、なんの変哲もない二酸化炭素である。
実は数時間以上も前から、バルドはイースト菌と塩と砂糖と水を嫌気発酵させた高純度の二酸化炭素を、魔法でゆっくりとハウレリア陣地に浸透させていた。
まるで火口の溶岩のように大量の泡とともに二酸化炭素を吐き出す様子は、まるで地獄へと誘う抽象絵画のようだ。
その二酸化炭素をハウレリア軍陣地へと流すと同時に、拡散しないようそれとは別の空気の対流を作り出す。
これが人を傷つけるための風の刃であれば、すぐに魔法による攻撃だと気づかれただろうが、そよ風のような柔らかい風が攻撃であるなど誰が気づくだろうか。
それに現実にハウレリアの兵士を昏倒させているのは魔法それ自体ではないのだ。
二酸化炭素中毒は一般に空気中に存在する二酸化炭素によるものでありながら、その症状はちょっとした毒ガス並みに重い。
通常空気中の二酸化炭素の成分はわずか0.04%にすぎない。
ところが火山ガスなどの影響により、この濃度が四%前後になると頭痛や吐き気、動悸など人体への影響が現れる。
これが十%になると耳鳴りや目まい、震えなどが起き始め約一分以内に意識を失う。
さらに二十%以上になるとほぼ数秒で意識を失い、三十%以上という濃い濃度においては即座に意識を失い、わずか数秒で死にいたることもあるという。
その威力は毒ガスで有名なサリンやVXガスに勝るとも劣らない。
しかも無味無臭で無色透明なため、気がついたときには身体が動かずに中毒死するという事故が日本においても数多く散見されている。
ある意味では、まっとうな毒ガスよりさらに恐ろしい存在といってもいいであろう。
「くっ……さすがにきついかっ……!」
ただ風を操作してハウレリア軍の前方に二酸化炭素の溜まり場を作り出しているだけとはいえ、その範囲があまりに広すぎる。
距離に反比例して減衰する魔法の特質上、アントリムの魔法士の全力で維持するのがやっとであった。
あと十倍魔法士がいれば、ハウレリアの全軍を射程に入れることも可能であったのだが、残念ながら今も戦力では先鋒の部隊を囲うのにすぎない。
それでも全く理屈もわからぬままにバタバタと人が倒れていくのを見て、恐怖しない兵士はいない。
何よりも目的である敵の士気を砕くという点においては、まず成功といえるのではないかとバルドは考えていた。
あとは…………。
「馬を引け! 打って出るぞ!」
敵の恐怖に混乱を加えてやれば、あとは勝手に崩壊してくれる。
機動力と打撃の波及力において、騎兵は今なお最強の兵科であった。
ハウレリア軍が動揺から立ち直らぬうちに、どれだけ指揮系統に打撃を与えられるかで勝負の行方は半ば決まるといってよい。
そしてそのために、もっとも深い場所で腰までつかるほどの泥濘は、右翼の一か所だけが浅く馬で駆け抜けられるようになっていた。
全てはこの一撃のために――――。
「はっはっはっ! ようやく私の出番がやって参りましたな!」
マティスが平均的な槍の倍は重そうな槍を、片手で軽々と振りまわす。
「あ、危ないですよマティス様! そういうことは敵にお願いします!」
待ちに待っていた出番にテンションが有頂天のマティスに、バルドは呆れながら言った。
精鋭とはいえたった三百程度の騎兵で、数万の敵陣に突っ込むのである。
控えめに言って生きて帰る可能性は高いものではない。
にもかかわらずこれだけ気負いもせず、戦意を高められるのはやはりマティスの実戦経験の賜物なのであろう。
さすがのバルドもマティスほどには坦懐な気分ではいられなかった。
「万余の敵に先駆ける。まさに武人の本懐極まるところ! 礼を言いますぞバルド殿!」
屈託のない笑顔でマティスは笑った。
娘の恩人にして親友の息子とともに、国家の命運を背負って栄誉ある敵と戦う。
もはやそこに自らの生死は問うところではない。
自らの持つ武の全てをぶつけることで、己の守るべきもののために戦うだけだ。
高々と槍を掲げ、ゆっくりとマティスは頷いて見せた。
「押せやあああああああああああああっ!」
バルドの命令一下、アントリムの騎兵部隊は一筋の矢となってハウレリア軍に向かって突撃を開始したのである。
全身を悪寒に震わせ倒れていく部下たちに囲まれて、フランドルは怒りに目を血走らせていた。
「くそっ! いったい奴は何をしたというのだ!」
「閣下……助けてください! もう……意識が……」
「しっかりしろ! ん? 待てよ? どこかで同じ症状を見たような……」
意識を失って仰向けにばったりと倒れる部下の様子が、フランドルの古いどこかの記憶を刺激した。
「あれは……まだ若かったころ……そうか! ベナリリス火山に行ったときのことだ!」
フランドルが二十代の若き日、山中訓練のため登ったベナリリス火山において、フランドルの部下四名がくぼ地で原因不明の症状によって死亡していた。
おそらくは火山性の毒にあたったのだろうと類推されたが、そのときの症状は今の兵たちの症状によく似ていた。
「これは敵の魔法だ! 魔法支援を止めて魔法解除を! 急げ!」
そうか。手段はわからないが、アントリム軍はあの火山と同じ毒をまき散らすことに成功したのだ。
先鋒だけが被害を被っているところからすれば、風の魔法で毒を一か所に集めておいたに違いなかった。
「相も変わらず卑劣な真似しかできぬ男よ!」
そう叫んでフランドルは突撃を開始したアントリム騎兵に向かって迎撃を試みる。
しかし魔法が解除されても高濃度になった二酸化炭素が一気に拡散してくれるわけではない。
薄れていく意識をなんとか繋ぎとめるために、フランドルは槍を腹に突き刺して歯を食いしばった。
「我が声が聞こえるものは我に続け! 意識あるものは舌を噛み切ってもあがき続けよ! 我らすでに勝利せり!」
一向に自由にならない手足をそれでも一歩ずつバルドに迫っていくフランドルは、味方の勝利を確信していた。
中身まではわからなくとも、こうした事態になることをフランドルは想定していた。
こちらの理解の及ばぬ攻撃を仕掛けられ、前線に大きな被害が出ることは、先日の戦いから想像することは容易かったのである。
だからこそ、フランドルはその想定の対策を準備していた。
「――――我らの勝ちだ! 悪魔め!」
急速に崩壊していく先鋒に明らかにハウレリア軍は動揺していた。
これが火炎放射器のように目に見える攻撃であれば、動揺は最小限で済んだであろう。
戦場における視覚効果というものはそれだけで十分な意味を持っている。
殺傷能力という点では弓矢とさほど変わらない鉄砲が主戦武器となったのは、操作訓練がしやすかったこともあるが、激しい轟音が兵士に与える恐怖というイメージ力が弓矢より遥かに勝っていたからだ。
しかし戦場でもっとも兵が動揺することは別にある。
後方の味方が逃走を始める裏崩れという現象が戦線を崩壊させるように、また裏切りが出たという流言が士気を奪い去るように、自分たちの力では対応することのできない最悪の事態の想像こそが何よりも兵の動揺を生む。
たとえ敵が幾倍の兵力を誇ろうとも、左右の戦友が肩を並べて戦っているうちは兵は戦意を失わないものだ。
だがいかに勇気を振るおうと、仲間との絆があろうと、目の前の敵に対処するだけではどうにもならない不可抗力ともいうべき事態にあっさりと兵は崩れる。
目の前でつい先ほどまで勇敢に前進を続けていた味方が、まるで不可視の悪魔にいたずらをされているかのように倒れ、痙攣する様子が彼らに動揺を与えぬはずがなかった。
「どうしてなんだよ……なんであいつらは倒れてるんだ?」
「こんなの人間の仕業じゃねえ……」
理由さえ分かれば対処ができる。仮に出来ないとしても納得ができる。
しかし一切が不明のままでは、自分の心と恐怖の折り合いをつけるための納得することすら難しかった。
そんな味方の動揺に喝を入れたのは、フランドルの獣のような咆哮であった。
「騙されるなああ! こいつは所詮、騙し方のうまいただの詐欺師だっっ!」
詳しい理由までは説明できない。
だがフランドルはバルドの思惑をほぼ正確に看破していた。
すでに荒くフランドルの息は上がり、全身を襲う倦怠感を気力を振り絞ってかろうじて立っている有様である。
フランドル本人はバルドを追って走っているつもりだが、現実は一歩、また一歩と遅々とした歩みを続けているにすぎない。
たとえバルドに追いついたとしても到底戦える状態でないのは明らかであった。
それでも鬼気迫る勢いでフランドルは歩き続ける。そしてそんな指揮官を追うように兵士たちが続いた。
まるで冥府に向かう死者たちの葬列のような有様であった。
瀕死の状態にありながらなお戦意を失わないフランドルの執念に、逆にバルドたちのほうが恐怖を抱いたほどである。
「ふふふふふふふふふ……」
フランドルは嗤った。
死を超越したその先にあるような、妄執にも似た思いだけがフランドルを衝き動かしていた。
あの男に勝利の栄光をつかませてなるものか。
絶望に顔を歪め、守るべき者たちにむなしく屍を晒させる未来が貴様には相応しい。
すでにして我が軍は勝った! 勝っているのだ!
フランドルの不敵な笑みにバルドの背中にゾッとするような寒気が走った。
「――――何がおかしい?」
バルドに与えられた使命はハウレリア軍の本陣に突入することだ。
フランドルなどと言葉を交わす余裕はないし、それは致命的な時間のロスにもなりかねないものであったが、バルドは自らの直感を信じた。
「わけのわからぬ手妻を使って先鋒を壊滅させたと思ったか? また兵たちに畏怖を与え戦の主導権を取れると思うたか? 思いあがるな、この餓鬼め!」
いったいどこにそんな力を隠していたのか。
フランドルは死人のように青白く血の気のない顔のまま、射出された弾丸のように加速した。
「――いかん! バルド殿!」
尋常ではないフランドルの勢いを察したマティスが二人の間に割って入るが、如何せんフランドルには二人を圧倒するだけの力はなく、また援護してくれる味方の姿もなかった。
だが、フランドルからの答えを聞くのを待つことなく、バルドは事の真相を察した。
「気がついたか! そうよ、最初からわしの率いる先鋒は囚人を寄せ集めただけの捨て駒よ! 万が一のときには先鋒は最初からいなかったものと諦めて迎撃せよとすでに軍議は定まっておるわ!」
フランドルは高らかに訶訶と笑った。
ずっと騙され続けてきたバルドに、とうとう致命的な一矢を報いてやったのだ。
「どうだ? 我が軍はなにひとつ損害など受けておらぬ! これから貴様は無傷のハウレリア軍全軍を相手にしなくてはならんのだ!」
これであの世にいってもランヌたちに顔向けができる。
もうフランドルの意識は身体から抜け出て、人の触れられぬ次の世界へと旅立とうとしていた。
しかし足の歩みは止まらず、口をついて出る雄叫びもやむことなはなった。
「敵ながら御見事!」
ただ執念だけをその身に宿して吶喊するフランドルの胸板を、マティスは祈るような思いで刺し貫いた。
「……先に地獄で……貴様が来るのを……待ってるぜ」
「ああ、言いたくはないが――この勝負にかぎっては、僕の負けだ」
ゆっくりと崩れ落ちるフランドルの最後をバルドはもう振り返らなかった。
今はそれよりも早くやるべきことがある。
「先頭! 手榴弾一斉投擲! 後ろを見るな! 全速で退けえええええええっ!」
全身を冷や汗が濡らして今にも手綱から手が滑りそうであった。
おそらくフランドルは、バルドがなんらかの策を講じることを見越して囚人たちを集め、最悪の場合味方ごと殺してもらうつもりでバルドの策を力づくで粉砕しようとしたのだろう。
最初から捨石にするとわかっていれば、味方の動揺も最小限で済む。
フランドルの決死の勇気と不退転の決意にハウレリア軍は、早くも動揺から立ち直りつつあった。
そしてかねてからの手はず通りに、まずは豊富な数を誇る魔法士による制圧射撃が開始されようとしていた。
「――――頭を伏せろ! 傷を負っても決して止まるな!」
ほんの少しだけ、魔法の発動よりも早く閃光と雷鳴を轟かせて手榴弾が爆発する。
そして爆発の向こうから鋭い礫と、暴風のような強く叩きつけるような風がバルドたちを襲った。
最初からハウレリア軍の本営は、先鋒の成果にかかわらず槍隊による防御ラインと魔法士の檄撃ラインを崩さずにいたのである。
全てはこのとき、まさに勝利の直前にいたバルドをどん底に突き落とすためだけに。
「フランドル、見事であった。貴様は雪辱を果たしたぞ!」
愛すべき臣下の討ち死にに国王ルイは涙した。
たとえこの戦いのあとには死が待っている男であっても、ルイにとっては長年軍を支えてくれた宿将であった。
初めてフランドルから策を明かされた時には気が狂ったのではないかと思った。
そこまでして詐術めいた用兵を、圧倒的な大軍を擁するハウレリア軍がしてよいものなのか、とも。
だが蓋を開けてみれば、まさにアントリム軍の用兵は常軌を逸しており、下手をすれば会敵する以前に重大な被害を受ける危険性すらあった。
そしてあの正体不明の、何をされたかわからぬままに骸にされていった先鋒の兵士たち。
果してフランドルの忠告がなければ、ルイ自身がこうして戦意を維持できていたかどうか……。
最初からそうなるものと言われていてすらそうなのだ。
このときルイは、初めてアントリムと交戦し敗北したフランドルの気持ちがわかったと言っていい。
――それは理解できぬものに対する畏怖と反発である。
火炎放射器や二酸化炭素による中毒事故のような正体不明の兵器が怖いのではない。
それにより心理的なストレスを与え、考える余裕を与えぬうちに指揮命令系統を破壊するというバルドの思考方法そのものに、ルイは本能的な怒りを抱いたのだ。
それは兵と兵が、そして将と将が、その技量を競い勝負を決する従来の戦いの否定に他ならなかった。
極端な話であるが、バルドの考えを突きつめていけば視覚的な抑止力や、戦意を落とすための流言、そしていくばくかの小兵力による嫌がらせ的な対応などによって、こうした戦そのものが成り立たなくなる可能性すらある。
古来から歩兵の精強さで知られ、武力によって建国したハウレリア王国にとって、それを認めることは自らのアイデンティティを否定するに等しかった。
「――――あの小僧を殺す」
もちろん捕らえて必要な情報を引き出すということも考えているが、ルイはその後バルドを生かしておくつもりは毛頭なかった。
どこまで逃げようとも、たとえマウリシアの奥深く逃げこもうとも、バルドを捕捉するまではどこまでも追いかけてやる。
それが扱い憎い囚人たちの尻を叩き、一人前の兵士に見せかけてくれた、誇るべき歴戦の戦術指揮官フランドルに対するせめてものはなむけだ。
「逃がすな! 奴の思い上がりを叩きつぶせ!」
一瞬の判断で急速反転して逃走に転じたとはいえ、すでにバルドたちはハウレリア軍の射程内に入りこみすぎていた。
かろうじて手榴弾の爆発が、魔法の正確さと騎兵の追撃を阻んだ。
それでもなお、圧倒的な数の魔法士を揃えたハウレリア軍の魔法射撃はアントリム軍騎兵の二割近い六十名ほどを戦闘不能に追いこんでいた。
「落馬するな! 馬に任せて乗っているだけでいい!」
落馬した兵士を助ける余裕などあるわけがない。
ただ致命傷にいたらぬことを祈ってひたすら敵からの距離を稼ぐしか、バルドたちにできることはない。
古来より、歩兵に退路なく騎兵に退路あり、というが全速で疾駆する騎兵にまともに命中する攻撃手段が少ないことも確かであった。
しかし落馬して移動手段を失った騎士は、もはやただの的であり生還の可能性は皆無と言ってよいだろう。
魔法の射撃が収まったあとは遠矢が雨あられと降り注いだ。
もちろん遠矢は正確な狙いをつけて射るものではなく、命中率はお寒い限りのものである。
しかし間違いなく、その低い可能性を引き当ててしまう者がでるのはやむを得ないことであった。
「うわっ!」
運悪く矢が愛馬に命中してしまったために、棹立ちになった馬ごとネルソンは大地に投げ出された。
「――ちいっ! 俺はブルックスほど日ごろの行いは悪くねえってのによ!」
咄嗟にネルソンに向かって腰をひねろうとするバルドの肩を、マティスの太い腕ががっちりと押さえた。
「無理です。もう間に合いません」
そんなことはマティスに言われなくともわかっていたが、それでもバルドは騎士学校からついてきてくれた親友の最後を認めたくなかった。
「ネルソーーーーーーーーーーーンッ!」
「楽しかったがここが最後の晴れ舞台ってやつらしい。死ぬなよご主君!」
恋人もできないのに死ぬのは癪だが仕方がない。
死が避けられないのならば見苦しくあがくのではなく、意義のある死を迎えるのが騎士という生き方だ。
「忠勇無比の騎士ネルソン、アントリムに散るってか」
ようやく矢の連射が収まったと思ったところに、今度は再び詠唱中の魔法士たちの姿が映った。
あの魔法をそのまま飛ばさせるわけにはいかんよな。
まあ、だからといって全部止めるなんてことも当然できないわけだが。
そしてネルソンは懐から最後の一発の手榴弾を取り出した。
部分強化で遠投の能力をあげればおそらく間に合うはずだ。
「せっかくだからシルクとか綺麗どころにいいとこ見せたかったぜ」
全身全霊の力をこめて投擲された手榴弾は、見事魔法士の中心に穴をうがつことに成功した。
生き残りの魔法士から気が狂ったような魔法の連打を浴びたネルソンの姿は、そのままアントリムの大地へと溶けて見つかることはなかった。
「――油に火をつけろ。ここはもうもたない」
バルドの指示のもと、用意されていた油が泥濘の水面を舐めるように燃え広がっていった。
こうなってはハウレリア軍にも追撃は不可能であった。
「伏兵にいやがらせはさせておけ。残りはガウェイン城まで撤退するぞ」
まるで予定通りの行動とでもいうようにバルドは指示を下していったが、その内心は絶望で埋め尽くされていた。
二酸化炭素による目に見えぬ攻撃、そしてその心理的衝撃が去らぬうちの指揮中枢に対する打撃。
それがバルドが全霊を振り絞って組み上げた必勝の手段であった。
しかしその結果は無惨である。
確かにハウレリア軍の先鋒数千を壊滅させるという戦果は得た。
ところがふたを開けてみればその先鋒は囚人の集まりであり、肝心のハウレリア軍本隊は完全に無傷である。
さらに魔法の種は割れ、同じ方法を使うことはできない。
まさにフランドルはバルドへの復讐を果たしたといってもいいだろう。
この馬鹿げた戦力差を覆す新たな手段を、バルドは思いつくことができずにいた。
(どうすればいい――――どうすれば……?)
これまで勝っていたのだっていくつかの偶然に助けられていた部分が大きいのだ。
今回はたまたまフランドルに騙されたが、どこかひとつ歯車が狂っただけで、アントリムが敗北することに変わりはなかった。
ガウェイン城に向かうバルドは、なお撤退する味方を鼓舞し続けたが、自分自身を鼓舞することだけはできなかった。
「――追撃いたしますか?」
「捨て置け。この火が消えたらあの泥濘を渡って夜営の準備をせよ」
「御意」
いささか無法な手段ではあったが、ついにハウレリア軍はアントリム軍を破った。
それはまるで呪いのようにハウレリア軍を蝕んできた、アントリム軍に対する恐怖を払しょくさせるものであった。
たった千程度の兵で数万のハウレリア軍を翻弄する悪魔の軍隊。
しかし一皮むけば彼らも斬れば死ぬごく当たり前の人間にすぎないし、数の差は決して無力なものではない。
その事実を指揮官と兵士に再認識させたのが、この戦いのなによりの戦果であった。
「今夜は別れの晩餐を楽しむのだな。どうせあと数日の命なのだから」
この泥濘と鉄条網の野戦陣地を突破すれば、あとはガウェイン城まで抵抗線らしい抵抗線はない。
それにガウェイン城そのものも、行政庁として機能しているだけで、防御力は並みの城以下であることはわかっていた。
もちろんバルドが守る城である。
侮ることはできないだろうが、もはやあの小僧には隠し玉が残されてはいないであろう。
騎兵の突撃を阻止されただけであっさりと撤退したのがその証拠だ。
「くっくっくっ……ようやくだ。ようやく貴様に絶望を思い知らせてやるぞ!」
暗い目をしてルイは暗くなり始めた西の空を見上げた。
真っ赤な血のような色に染まった空が、ルイの復讐と加虐心を否が応にも煽りたてていった。
「ちょ、ちょっと! どこにいくんですか? サリルさん!」
薄暗くなった黄昏時を、ガウェインに向かって撤退するアントリム軍の兵士たちの中にサリルとカーライルはいた。
ガウェイン城へ移動しろという命令を受けて塹壕を出た二人は、薄明りを頼りに一路西へと歩を進めていたのだが、暗くなるとともにまばらになってきた隊列か ら、ふい、とサリルが脇へとはずれたのである。
「カーライル、悪いことは言わん。ここで離れておかんと死ぬことになるぞ」
「ま、まさか逃げろっていうんですか? 仲間たちを置いて!」
「お前の帰りを待っている人はいないのか? 昼の戦ではっきりした。この戦いはうちの負けだ」
戦の経験の長いサリルには、バルドがどれほどの意気込みをもって戦いを仕掛けたかがおぼろげながらわかっていた。
あの失敗から立ち直るのは並み大抵のことではない。
まして味方が圧倒的に劣勢で援軍の見込みが立たない現状ではなおのことである。
おそらくはガウェイン城での籠城は、最後の意地のような勝ち目のない戦いになるだろう。
その前に逃亡するべきだとサリルは言っているのである。
「幸いもうすぐ夜になる。夜になったはぐれたと言えば誰も追及する奴はいないさ。だいたいこのままみんな城までおとなしく行くと思ってるなら甘いぜカーライル」
「それって……他にも逃げる人がいるってこと?」
信じられない、と顔色を青くしてカーライルは首を振る。
しかしサリルは世の中の無情さがそんな甘いものではないことを知りつくしていた。
「勝ち目があるうちは逃げやしないさ。でも負けがきまっちまうようじゃだめだ。自殺に付き合わされるのは平兵士の俸給は超えてるよ。おそらく半分残ればいいほうじゃねえか?」
言いかえれば貴族たるバルドには王国の藩屏として時間を稼ぐ義務があるが、もともと農民や町民である平兵士にはそこまでの義務はないのだ。
負け戦から兵士が逃げ出すのはごく当たり前の光景なのであった。
「どうしてあの方が負けるって決めつけるんです!」
カーライルにとって、バルドは侵しがたい偶像である。
アントリムに繁栄をもたらし、そして奇蹟とも言える勝利をももたらした。
ただ一度後方に引きさがった程度でサリルが敗北と決めつけるのが理解できなかった。
「わかってねえな坊や……」
バルドは今日勝負を決めるつもりでいた。
詳しい軍略を理解できなくとも、サリルはその程度の機微は理解できる男であった。
だからこそ、本当は喚き散らしたいバルドの深い懊悩と絶望を何とはなしに察していた。
「種のない手品なんてないのさ。種が尽きれば当たり前の現実が待っている。俺だって本音はあの若い領主に勝って欲しいんだ。マウリシア国民だからな」
「なら、もう一度頑張りましょうよ! みんなで力を合わせればきっと味方が来るまで粘ることだって……!」
「味方は来ない。味方が来るくらいなら最初から領主様は籠城を選択していたはずさ」
若い人間にありがちなカーライルの希望的な観測や意気込みを、サリルは正直眩しく思う。
自分もこうした血気盛んな時代が確かにあったはずだ。
しかし残念ながら現実は、若者が抱くような甘い夢を運んでくれるほど親切な存在ではない。
「勝ち目があるうちは戦う。だが全滅するまで付き合えと言われても御免こうむる。カーライル、このまま領主様に従うってことは墓場まで付き合うってことだぜ。それでいいのか?」
あれほど大量の損害を出したのだ。
サリルの経験からいってアントリム軍は降伏すら許されない可能性が高い。
素直にガウェイン城で立て籠もるのは、確実な死が待っているとサリルは確信していた。
「――――それでも、僕は行きます」
決然と答えるカーライルにサリルは耳を疑った。
「俺はこれまで何人も若いのが理想に殉じて命を捨てていった奴らを見てきた。本当に死んでも構わないんだな?」
「死ぬのは怖いですけど……本当は死ぬ覚悟なんてないですけど……領主様に助けられてきた僕が今度は領主様をお守りする番なんです!」
バルドなかりせば、アントリムが繁栄することもなく、とっくにハウレリアに占領されていただろう。カーライルだって緒戦で戦死していたかもしれない。
万策が尽きた今だからこそ、次の策を思いつくまでバルドを守るのはこれまで守られてきたカーライルの役割であった。
「……それは俸給のうちじゃあない」
「知ってます。でも、これは領主と領民の絆の問題です」
領主が領民を守るため命を懸けるように、領民もまた自分たちの生活を守ってくれる良き領主には命懸けで応える。
それが軍人としての生活が長かったサリルには想像がつかなかったのだ。
「これまでありがとうございました、サリルさん。お元気で」
「馬鹿野郎!」
サリルはゴツンとカーライルが悶絶してうづくまるほどの拳骨を落として、ふてくされたように地面を蹴った。
「若いやつだけに格好つけられてたまるかよ。年寄りには面子が命より大事だってこともあらあな」
(――何日持たせられる? ガウェイン城は小城だ。城塞のように敵の損害と交換するべき土地がない。一か所でも突破されればあとは簡単に城は落ちる)
先ほどから悲観的な予測しかできないことにバルドは内心で頭を抱えていた。
兵は敗戦の気配に敏感なものである。
おそらくは城につくころには兵員は千を割り込んでいるに違いない。
さらに言うならば、籠城はもともと士気のあがる戦い方ではないから、劣勢になればあっという間に士気が崩壊する可能性は高かった。
ではこちらか出撃するか?
それも不可能である。圧倒的多数の敵に策もなく出撃すれば、接近する前に戦力の大半が失われてしまうだろう。
このまま逃げる、という選択肢もあるが、連戦で疲弊したアントリム軍が追いつかれることは確実であった。
唯一助かる道があるとすれば、それは殿を犠牲にしてバルドたちが逃走するくらいであろうか。
しかし領主としてバルド個人として、そんな真似ができようはずがなかった。
(考えろ――――思いつかなければ、死ぬ!)
せめてセイルーンやセリーナ、アガサを逃がす時間を稼がなくては。
彼女たちを城に残しておきながら、ハウレリア軍を撃退することもできず逃げ帰るとはなんと情けないことか!
思えばコルネリアスでトーラスと戦ったときもそうだった気がする。
どこか自分が特別であると思いこみ、負けるはずがない。自分ならやれる、勝てると慢心してはいなかったか。
その結果、ジルコは帰らずネルソンもまた戦場に消えた。
なんという無様、バルド・アントリム・コルネリアスよ、お前はどうやってこの責任を取るつもりなのだ?
初めて経験する身近な人間の死に、本来ならばこうした窮地にこそ力を発揮するはずのバルドの脳髄はマイナスの思考に囚われ始めていた。
『おぞいこというなや。死に場所得るは誉やけ(格好悪いことをいうな。死に場所を得られるのは名誉なことだ)』
死地に追いやられた時、武士の真価は問われる。
まして左内は生涯最後の武功の晴れ舞台、大坂夏の陣を奪われた人物であった。
猪苗代城で最後の時を迎えてみれば、心に思い浮かぶのはただ伊達政宗を見逃してしまったあの松川の戦いのことばかり。
たとえ生きて帰れなくとも、あそこで政宗を討ち取っていれば、左内の名は千載の後までも残ったことだろう。
死に場所で死ねないことは、生まれてきた意味をなくすことに等しい。
左内のように古いタイプの武士にとってそれはあまりにも当然の帰結である。
『死ぬるは今じゃ。死なねば勝つことなど夢やげな』
左内が体験した松川の戦いでは、上杉軍二千弱に対し、伊達軍およそ一万五千という戦力差であった。
しかも伊達軍は大量の鉄砲を装備しており、不意を突かれた上杉軍より士気も高かったのだが、それでも上杉軍は負けなかった。
むしろあと一歩で政宗を討ち取る寸前まで追い詰めた。
死を決した少数の精鋭は、敵を全滅させることはできなくとも、敵陣に錐のように穴を穿つことはできる。
生きて帰る意志を捨て去った兵の底力というものには、それほどの瞬発力があるのだ。
「戦人で死のうとしたときに死ねるものはよほどに運のいい男よ」
同僚前田慶次郎の言葉を左内は思いだす。
死のうとするほどに死ねないのが天に愛された戦人というものだ。
まさかこんな形で、かつて失くしたはずの武士の死に場所が得られようとは。
ハウレリア軍に伊達の雲霞のごとき軍勢を重ね合わせた左内の顔は輝いていた。
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