自由って何だ? SEALDsとの対話(3) ヘイトスピーチは社会の害悪 声を上げよう
朝日新聞社の言論サイトである「WEBRONZA」は今を読み解き、明日を考えるための知的材料を提供する「多様な言論の広場(プラットフォーム)」です。「民主主義をつくる」というテーマのもと、デモクラシーをめぐる対談やインタビューなどの様々な原稿とともに、「女性の『自分らしさ』と『生きやすさ』を考える」イベントも展開していきます。
「民主主義をつくる」は、
①巻頭論文
②「自由って何だ? SEALDsとの対話」 1 2 3(本記事)
③五百旗頭真・熊本県立大理事長インタビュー
の三つで構成しています。
語り合う齋藤純一さん(左から2人目)とSEALDsのメンバー
◆SEALDsからの出席者 千葉泰真(ちば・やすまさ)/元山仁士郎(もとやま・じんしろう)/今村幸子(いまむら・さちこ)/是恒香琳(これつね・かりん)/安部さくら(あべ・さくら)/大高 優歩(おおたか・ゆうほ)山本雅昭(やまもと・まさあき)
◆齋藤純一/早稲田大学政経学部教授(政治理論・政治思想史専攻)
◆司会 松本一弥/朝日新聞WEBRONZA編集長(末尾に参加者の略歴を掲載)
「自分と違う意見に出会うのは大事だけど......」
松本 前回は、「他者との交わりの中にこそ自由があるのではないか」という話が出ました。その中で、他者の話に耳を傾けることの大切さも指摘されましたね。
是恒 他者の意見を聞くって、むずかしいことです。齋藤先生の著書「自由」にフィルタリングの話が出ていましたが、フィルタリングという単語で、どうしても私が思い出してしまうのはSEALDsのツイッターで最近起きていた争いのことです。
SEALDsの公式ツイッターアカウントは、フィルタリングをかけているんですね。要は「一斉ブロック」なんですけど。フィルタリングをかけることで、嫌がらせアカウントを排除できるんです。でも、フィルタリングをかけること自体に対して、いろんな方向の人たちから、「排他的だ」という批判がありました。
松本 少し長くなりますが、齋藤さんの「自由」から該当箇所を紹介しておきましょう。(以下、引用)
「今日広汎に看取されるのは、他者から自らを引き離し、他者との交渉それ自体をできるだけ回避しようとする、そのような態度である。他者との交渉の回避を助長している条件として重要なのは、現代の情報テクノロジーのもとでは、そもそも他者に出会わなくても済むような環境を構築することが容易になっているということである」
「自らの欲しない情報を前もって排除する行動は、しばしば『フィルタリング』と呼ばれる。それは、膨大な情報が自らに与える負荷を軽減しようとする点では合理的な行動であり、関心のいたずらな拡散を避け、自らが対応できる問題をある範囲に絞り込むという点では倫理にもとづく行動であるとすら言うこともできる。しかし、他面では、そのように予(あらかじ)めなされる自己排除の行動は、自らの欲しない情報に人びとが受動的に接する機会を減少させ、自らとは境遇や生き方を異にする他者に接する回路を自ら閉ざしていく効果をもつ」
「たしかに他者との出会いは、つねに悦(よろこ)ばしいものとは限らず、自らの生に負荷をかけるものでもある。私たちは、他者のおかれている状況を眼にすることによって、彼/彼女たちがかかえている困難とそこから(潜在的には自らに向けて)発せられている必要や要求に曝(さら)されるし、自らとは相反する価値や利害をもつ他者に接することになるだろう」
「そうした否定的な経験の可能性を『フィルタリング』を用いて予防的に締めだしうるとすれば、それは、たしかに他者の『余計な』干渉に曝されずに済むという点で、自らの自由にとっては非常に有益なことであるように思われるかもしれない。しかしながら、そうしたいわば自己隔離のもとで享受されうる『自由』には大きな損失がともなっている」(引用ここまで)
千葉 あのフィルタリング機能には少し問題があって。すごくヘイトなことをつぶやいているユーザーだけをブロックするんじゃなくて、そのユーザーをフォローしている人もブロックされちゃう。だから、まったくブロックする必要のない人もブロックされてしまうということがあるんです。
僕たちとしては、建設的な反対意見ならちゃんと議論したいんですが、やっぱり現実問題として、無限って言っていいほど寄せられてくる誹謗中傷のメッセージに対してどう対処したらいいかとまどっていて。僕たちも人間だから。ひどい誹謗中傷は見たくないですからね。
松本 誹謗中傷の数はすごく多いですか?
是恒 多いですね。蛆(うじ)まみれの死体画像とか、ひどいセクハラ画像とか、悪意しかない合成画像などが送られてきます。あとは、中身のない暴言も少なくない。たとえば「カスカスカスカス」「頭がおかしい、おかしい」みたいな感じ。ツイッター社に報告しても、新しいアカウントを作って延々と繰り返す。ほかの意見も見られなくなってきて、困っちゃったんです。それで、迷惑メール機能みたいな感じで、導入しました。
違う意見に出会うことは、とても大事です。でも、違う意見と出会うって、どういうことなのかなと。中身のない暴言や誹謗中傷なども、はたして「違う意見との出会い」になり得るのか。
齋藤 それはならないでしょうね。
是恒 本当は、そういう嫌がらせを送ってくる人こそ、こちらと出会いたくなくて、排除しようとしているのだと思います。要は、他者の声を抹殺したい人たちが、抹殺するためにやっているんだと思うんです。フィルタリングに関しても、そんなフィルタリングはやめろという署名活動をやっている人たちがいます。その人たちには、私たちが対話を排除しているように見えている。
でも実際は、死体画像や誹謗中傷がいやというほど送られてきて、こちらもやむにやまれずブロックしている側面もあるわけで。もっと繊細に見てほしいんです。でも、それがなかなか伝わらないのが、日本社会の現状です。
ヘイトスピーチは社会全体を悪くする
齋藤 たぶん、日本社会の問題だけじゃないと思いますけどね。ヘイトスピーチというのは、二つネガティブな面がある。憎悪を投げつける側の者が、自分は表現の自由を享受しているんだけども、相手の表現の自由を奪っているというのが一つ。奪われたほうは本当に傷つくし、表現することに対して臆病になっていく。自分が享受している条件を、相手には否定してしまうわけですから、相互作用もないわけですね。
もう一つは、みすず書房から出ている「ヘイト・スピーチという危害」(ジェレミー・ウォルドロン著)という本に書かれているんですけど、危害や憎悪を与えた相手だけじゃなくて、ヘイトスピーチは社会全体も悪くする。いつなんどき攻撃にさらされるかわからないということになれば、社会全体が安心できない、非常にビクついた関係だけの空間になっていくわけですね。
攻撃されている個人だけが被害を受けるだけでなく、安心してコミュニケーションができるという社会的な公共財産をも同時に壊している。関係を作りだすのではなくて、むしろ関係を閉ざしていくわけですから。
だいたいヘイトスピーチというのは、権力関係の中の発話なんです。要するに、もともと劣位にいる人を、上位の人が「おまえは、劣位にいる人間なんだぞ。ここにいなくてもいいんだぞ、出て行ってもいいんだぞ」と、脅しているわけです。ヘイトスピーチは、そういう権力関係を再生産していくんです。だから、防衛して当然だと思いますよ。いちいち応答しても関係を取り結べませんから。
表現の自由とヘイトスピーチの関係
元山 ヘイトスピーチに対しては法規制のようなものが必要だという議論があるじゃないですか。そのとき、いつも問題になるのが、表現の自由に抵触するんではないかという点。でもいったい、表現の自由っていうのをどのように考えたらいいのかなと思って。
たしかに、何でもいえるというのは、ものすごく表現の自由が擁護されている感じもするんですけど、一方でヘイトスピーチ、さっき齋藤先生がおっしゃったような、他者の発言の自由を阻害する表現だった場合、社会全体をダメにするっていうことになりますよね。そうしたものを法規制することは、はたして表現の自由を規制することになるのか。
表現の自由について、齋藤先生はよく「複数性」という言葉を使われると思うんですけど、表現の自由はその複数性を擁護するためのものと考えたときに、ヘイトスピーチは複数性を減らしていく。だから、表現の自由のもとで、ヘイトスピーチはダメだという議論も成り立つのかなと思っています。
齋藤 それは、うんと大きい問題です。以前、「現れの消去、憎悪表現とフィルタリング」(「表現の〈リミット〉」所収、ナカニシヤ出版)という原稿を書いたのですが、そのなかでも、ヘイトスピーチのひとつの問題は、自分が獲得している条件を、相手には否定するという点にあると書いています。
自分は表現の自由を行使して憎悪表現までしているのに、それを相手が行うことに対しては否定するわけです。これは理不尽ですよね。傷ついた人は本当にしゃべれなくなってしまう。萎縮効果どころではなくて、沈黙させてしまうんです。この点は批判されるべきですね。
松本 「複数性」については注釈が必要ですね。齋藤さんの「自由」から短く紹介しておきましょう。
「アーレントが、複数性(プルーラリティ)を人間の根底的な条件としてとらえたとき、彼女は、たんに価値の多元性一般を擁護したわけではない。彼女のいう複数性は、一人ひとりが他の誰ともー過去・現在・未来の誰ともー異なる、唯一(ユニーク)の存在である、ということを含意する。彼女が強調するのは、一人ひとりがこの世に誕生するたびに、一つひとつの新しい『世界』が私たちの共有する世界(『共通世界』)にもたらされるということである」
「聞く」ことはむずかしい
齋藤 「複数性」についてですが、以前に「他者の声を聞くことが民主主義だ」という話が出ましたよね。しかし、そもそも「聞く」という行為はほんとうにむずかしいことです。自分に利害関係がない場合はとくにむずかしいと思います。
例えば、沖縄の問題。沖縄の基地問題などについては、おそらく10万回以上耳にしているはずなのに、他県の人たちにとっては、自分に関わる問題として受け止められないということがずっと続いている。アイリス・マリオン・ヤングというアメリカの政治哲学者が「100万回いってもわからない」と発言していますが、やっぱりそういうことなんだと思うんです。
ヤングは、集団代表ということを述べています。つまり、少数者に議席を与えて発言させるということです。少数者による批判に対して、アカウンタビリティー(説明責任)をとらせるわけですね。
アカウンタビリティーというのは、一通りの説明を与えることではなく、自分でこの法案を通します、ということの正当化理由を提起する。それについて議論が喚起されて、理由を挙げた異論が返ってくる。その異論に対して、理由を挙げて答えていくというのがアカウンタビリティーなんです。
結局、少数者というのは数の力がない、お金の力もない。となると、何が交渉力になるのかというと、やっぱり、なぜ反対するのかという「理由」しか交渉力がない。だけど、理由だけでは太刀打ちできないから、まわりの人が応答したりメディアが取り上げたりして、声を拡張するなかでしか闘えないわけですよね。
表現の自由に対してはやはりできるだけ寛容でなければならない、規制を加えてはいけないと思います。それがベースなんだけど、ヘイトスピーチのような声に対しては、ちょっとキツイというか、uncivil(不作法)な方法をとることも時にはありえる。相手との関係を壊そうとするようなヘイト的な発言に対してこちらが消耗戦でずっと闘うということはムリだと思います。
マイノリティーの言葉を引き出すサポートが必要
元山 一方で、齋藤先生が「公共性」(岩波書店)に書かれていたように、そういったマイノリティーの人たちが、どの程度うまく自分たちの置かれている現状を言葉にできるかという問題もあるように思えます。たとえば、その現状を議会で問題として俎上(そじょう)にのせるときにうまくいくかどうかは、現状ではかなりむずかしい。つまりマジョリティの人たちと手を組んだりすることが必要になるように思うんです。
でもそういうときに、マジョリティーの人たちはマジョリティーの人たちで、彼らの利害関係にかかわることを、ある種、代表することが求められる。このことについて、さっきのお話、たとえばSEALDsは誰を代表しているか、していないのかにも関わるかなと思ったんですけど。その点はどう考えればいいでしょうか。
齋藤 どう考えればいいでしょうね。実際にいちばん問題に直面していて、そうした資源がない人々、社会関係資本もなければ、孤立している、それこそアーレントの言葉でいえば「フェアラッセンハイト」(見捨てられた状態の孤立)、あらゆる関係の中から遠ざかってしまっているところに置かれている人々が、どうやって自分の意見なり観点を代表ルートに乗せていけるか。
それは独力ではもちろんむずかしいわけですよね。自分で言葉を獲得して、というとかっこいいけども。それは周りの人のアクセスがあって、その人の言葉を少しずつ引き出していくという長いプロセスが必要なんだと思います。
実際に、従軍慰安婦の人たちが、カミングアウトして語り出すためには、かなり時間をかけたサポートが必要だったわけで、ここで語っても大丈夫、ここでは安心して語ることができるという空間を作っていったわけです。
それはひとつの公共圏だと思うんですけど、予備的な公共圏というか。それがないと、実際にマイノリティーの観点が代表されるとか、その言葉に耳が傾けられるチャンスが作られるかというと、それはなかなかむずかしい。やっぱり周囲から働きかけてバックアップするというか、マイノリティーの人たちの声に耳を傾けられる空間を作っていかないといけない。
ヘイトスピーチはマイノリティーの言論を封鎖する
安部 私もヘイトスピーチのデモの現場に行ったことがあるんですけど、心がめっちゃ疲れました。自分がヘイトスピーチの対象になっていなかったとしても、すごく嫌な気持ちになる。社会を悪くするっていうのは、本当にその通りだなと思いました。
だから、ヘイトスピーチの現場を見て、それに触れたときに、マイノリティーの人がかわいそうだから声をあげるとか、そういうことじゃなくて、自分がいやだから、こんな社会が許されているのがイヤだから声をあげるんです。一個人としてこの状況が許されないと思う人が増えてほしいし、これおかしいだろって言える人が増えないとダメだなって思うんですよね。
齋藤 そうですね。
大高 僕も何度か、ヘイトスピーチのデモに参加したことがあって。
是恒 カウンター側(ヘイトスピーチに反対・対抗する側)だよね?
大高 もちろん、カウンターで(笑)。もちろん、もちろん!
一同 (爆笑)
大高 ヘイトスピーチはやっぱり暴力に近いわけですよ。そういったものは弱者を追いつめている。弱者を、より弱者にしてしまう原因だと思うんですよ。なぜ弱者の意見を求めているかというと、その人たちの意見が正しいこともあるからですよね。もちろん、マイノリティーだから正しいわけではないし、マジョリティーが正しいこともあるだろうし。
ただ、マイノリティーの意見を引き出すのは、すごく努力をしないと、なかなか拾いづらい。そうした声を拾おうと努力していても、ヘイトスピーチのような暴力が存在すると、とたんにふりだしに戻ってしまう。今までの努力が水の泡になってしまうような気がするんです。
ヘイトスピーチを規制したり、撲滅したりすることが言論の自由に反しているという人もいるけど、じゃあ彼らは、マイノリティーの言論の自由を侵害していないのか、といったら侵害している、というふうに感じます。
齋藤 さっきの話と関係するんですけど、アメリカはたしかに自由を重んじる側面もあって、クー・クラックス・クラン(白人至上主義団体)な表現の自由すら認めている。ある意味、原理主義的な表現の自由ですけどね。一方でドイツなどは、ご存じのように表現の自由に対して規制をかけています。
私も、表現の自由に規制をかけていいと思うんだけども、京都で行われた在特会に対する判決(注)を見ていると、結局、これは許されない表現、これは人格権を傷つける表現、これはちがう、といのが司法の判断にゆだねられることになるんですね。
(注):京都朝鮮第一初級学校(現・京都朝鮮初級学校)を運営する京都朝鮮学園が「在日特権を許さない市民の会」(在特会)と会員ら9人を相手取り、学校周辺での街宣活動の禁止や計3千万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が2013年10月、京都地裁であった。
裁判長は、街宣活動について「著しく侮辱的、差別的で人種差別に該当し、名誉を毀損(きそん)する」として計1226万円の賠償を命じた。また、同学校の移転後の新校舎付近で、新たな街宣活動を差し止める異例の判断も示した。
これに対し、在特会と会員らは大阪高裁に控訴したが、大阪高裁は2014年7月、在特会側の控訴を棄却し、一審・京都地裁判決を維持した。また、最高裁第三小法廷は14年12月、在特会側の上告を退け、大阪高裁判決が確定した。
齋藤 アメリカのフェミニストでジュディス・バトラーという人がいるんですが、彼女は司法判断ではなくて、もっと政治的に戦っていく必要があると言っています。これは憎悪的な表現だ、暴力的な表現だと思ったら、そういう表現をする人たちに対して「これは、おかしい」と発言していく。
そういう政治的な闘いで同時に対応していかないと、司法判断だけに頼ると、検閲権を強めることになってしまう。それはやっぱり、長期的に見ると、社会の萎縮効果を生みます。こういうことを言うと人格権を否定することになってしまうかな、みたいなね。それで、あまり不作法なことは言えなくなってくるんです。そういう状況は、よろしくない、と。
法の力以前に、市民の力で変える
是恒 ヘイトスピーチに関しては、私の自由の問題じゃないし、どうでもいいやって思っちゃっている人は多いと思います。
あと、マイノリティーの方々の代弁という問題。いわゆるカウンターっていうのは、代弁者というより、目の前で行われている暴力に対して、「暴力はダメでしょ」っていうあたり前の反応を示すということなのかなって。べつに誰かの代弁者なんじゃなくて、目の前で誰かを殴っている人がいるから。ある意味、ヘイトスピーチは言葉で相手を殴っているんですよね、そういう暴力行為に対して、「この社会では許されませんよ」と声を上げる。そういうことなのかなと思っているんです。
誰かの代弁者として問題を引き受けたというよりは、代弁ではなくて自分自身の自由のため、というか。自分が突然、そういう理不尽な暴力をふるわれたら嫌だから。たとえば、「女なんだから、だまっていろ」というヘイトスピーチを自分が受けたとするじゃないですか。それをやられたらいやだから、そういう暴力はとにかくやめましょうという、ごく単純なこと。
初期の段階で、カウンターに対して「私たちのことなんてわかってないくせになんだ」という批判があった。たしかにあなたの代弁者にはなれない。でも、あなた自身のことがわかっているとかわかっていないとか、そういうことでもない。これは私自身の問題なんだ、と。今では、そういうカウンターの立場が伝わり始めていると思うんですけど、いまだに伝わってない人には、伝わっていないのかもしれません。
松本 みなさんは弁護士の師岡康子さんが書かれた『ヘイトスピーチとは何か』(岩波新書)という本を読みましたか? 師岡さんはこう書かれています。
「ヘイトスピーチとは差別であり、まず、そして何より考えるべきは、差別によりもたらされるマイノリティ被害者の自死を選ぶほどの苦しみをどう止めるかということではないだろうか。未だ多くの議論が差別の実態を離れた机上の空論になりがちである現状に対しては、要点がずれていると言わざるをえない」
「筆者も表現の自由は、歴史的にも現在も、差別のない社会を作るために極めて重要であると考えている。しかし、そもそも人権は、すべての人が人間として平等であることを前提としている。自由は、平等がなく、特定の人にだけ認められている場合には、人権ではなく特権である」
また、私は憲法学者の奥平康弘さんがお亡くなりになる前にインタビューをしたのですが(月刊「Journalism」2013年11月号、朝日新聞社)、その中で奥平さんは、国家権力が出てきて規制をすることに対して否定はしないんだけど、その前に市民社会がやるべきことがあるんじゃないか、と。そこに賭けないでどうするんですかという意見でした。(以下は一部を引用)
松本「『今の状態を打開するためにも、何らかの対応策が必要だ』という指摘をよく聞きますが」
奥平「ただ、ではどうしたいいのかという問題ですが、便利な言葉で、それ自体が多義的な言葉ではあるけれども、やはり『文化力』の問題が問われる段階なのではないかと僕は思います。つまり、僕たち市民の側に任されている問題であり、市民が取り組むべき課題だということです。(中略)
ここでいう『文化』の中には、権力にかかわる法律のありようや、法適用のありようというものも当然入らざるを得ないわけで、およそ国家が前面に出てくるのはおかしいとか、彼らの行動を抑制してはならないということではありません。国家が、あるいは地方公共団体が、端的にいうと警察が出る幕というのは、将来的にはないことはないかもしれないという気はします。彼らを見れば、その行動は何らかの形で抑制されるべきではないかと僕も考えてはいるのですが、ただ法的規制に頼る前に、やれることがまだあるのではないでしょうか」(引用ここまで)
松本 つまり、広い意味での「文化力」で踏ん張ることなく、法規制で一気に取り締まっていく、というのは別の意味で危ういのではないかという問題意識であり、危機意識ですね。
権力を持たない者の言論を守る
元山 SEALDsと在特会が並べられて報じられたことがあるんです、新聞記事で。SEALDsがやっていることも、もちろん表現の自由だということで、恩恵を享受してやっていることだから、僕らはべつに、安保法制に賛成だという人の言論の自由を奪おうとは思わない。やはり、対話をしていくべきだ、というのはSEALDsのウェブサイトに掲載しているステイトメントにも書いてあります。
表現の自由を自分たちも享受しているんだから、他者にも認めるということは延長線上にあることだと思うんですよね。だからヘイトスピーチに対しては、SEALDsのメンバーの中にも、カウンターとして参加している子も多くいますし、その問題に関してはすごく関心があるんですよね。SEALDsとして、ヘイトスピーチがどうってことを訴えてはいないんですけど。
是恒 ツイッターで、時々、「おまえらがやっていることは安倍首相に対するヘイトスピーチじゃないか」っていうのを見かけるんですよ。
齋藤 どういうこと?
今村 ヘイトスピーチの意味を正しく認識していない人がいて、批判は全部、ヘイトスピーチだと思っている人がいるんですよね。差別を扇動したり、差別意識によってできた表現がいわゆるヘイトスピーチなんですけどね。安倍首相に対して、「この政策、よくないですよ」とかいうのは、べつになんの差別でもないじゃないですか。でも、ヘイトスピーチに対する認識のズレや乱用が、問題をややこしくしていると思います。
元山 それこそ、「忘却の穴」にSEALDsがやっていることを落とし込めようということなんじゃないかなと思いますけど。SEALDsのスピーチもヘイトだということで、ぜんぶ一緒にして。
齋藤 さきほども話したように、弱い側もある程度、不作法にやらないといけない時だってあるわけですね。一緒に対話しましょうとやっても、相手がすでに権力を持っていて、こちらのいうことに耳を傾ける用意はない、対話のテーブルにのってくれるわけではない時のように。
場合によっては、相手、つまり権力者を辱めるような言葉をいったってやむをえないわけで。権力関係のなかで、相手がどういう立場にあるか。それがやっぱり重要なんじゃないでしょうか。
今村 権力関係、という話でいうと、表現の自由は、たとえば政府が上だとして、市民が下だったとしたら、政府から検閲などで封じ込められやすいから、市民の政治に対する批判といった表現の自由は、本当に慎重に守られるべきだということになった。
だから、ヘイトスピーチをしている人たちが表現の自由だからいいだろう、いいだろうというのは、権力関係でとらえていうと、強い立場の人が弱い立場の人に対していっている形になっているので、表現の自由というものが生まれてきた歴史的な意味からもおかしいのかな、と思う。
自由をどこまで認めるか
是恒 抗議行動に、毛沢東の写真を掲げる人が来たことがあって。私、「やめてください」と言ったことがあるんです。
齋藤 それはなんでやめさせたの?
是恒 そこなんです。なんで「看板を下げてください」って私はいったのか。そのことをずっと考えていたんです。
今、現時点での答えというのは、そこに「悪意を感じた」からです。私たちがみんなでいっしょうけんめい〝場〟をつくって声を表そうとしているときに、毛沢東の看板を掲げている人は、あきらかにその表現というものを貶(おとし)めて台無しにしようとしていると思いました。だからあのとき、やめてくださいって言ったのかな、と。
そのころ、ネット空間では「SEALDsは中国の手先」「反日工作員」というデマが盛り上がっていた。本気にしている人もいました。だから、その人も、「デモで毛沢東の写真を掲げているやつがいる。やっぱり工作員だ」と自作自演をしようとしていると思ったんです。
国会前の空間を作るのって大変なんですよ。社会に声を届けるためには、その下準備が必要で、準備にすごい時間がかかっている。みんなが大汗かきながら、トラメガ(拡声機)を運んでいって、場をつくって、っていうその一連の準備段階を経て、はじめてやっと社会に自分たちの声を響かせることができるんです。
松本 具体的にはどんな準備をするんですか?
是恒 具体的には、まず警察や他の団体とのやりとりがあったり。当日はレンタカーに、みんなでヨイショヨイショとトラメガや看板を運んでいって。これが大変なんです。まだ暑かったし。もちろん、看板も作らなきゃいけない。トラメガも10個くらい電池が必要なんですけど、電池がすぐに切れちゃうから、始まる前に一個、一個、確認するんですよ。声が入るかどうか、入らなければ電池を交換するんです。その作業って、すごく時間がかかるんですよね。そういう作業をして、場を作って、はじめて声が響き始める。そういうところに対して......
元山 タダ乗りして......
是恒 タダ乗りっていうか......。その人に、「おまえたちは自由を認めてないのか。こちらだって表現の自由があるんだ」って、その場でいわれたんです。そのときは、一瞬、「そうだよな、悪意のあるなしは別として、毛沢東の看板を掲げたいといっているのに、やめてくださいといっていいのかな。うーん、どうしよう」と悩んだんです。最近は、彼がやろうとしていたことは、人の声をかき消そうとする行為だったからだと思っているんですが。齋藤先生のご意見をうかがいたいです。
齋藤 是恒さんの話の通りなのかなと思う一方で、SEALDsは、問題の投げかけや、問題について考える機会を自ら封じないというならば、マオイスト(毛沢東主義者)でもないのに毛沢東の写真を掲げることで、デモをしているSEALDsを中国人のように見せようとしたんだろうけど、仮に、そういう映像が流れたとして、人々はどういうふうに判断するか、見届けてみるのもありだったかもしれない。
まあ、現場にいると、いろいろ準備をして、ようやくここまでこぎ着けたのに、それを空振りさせようとしているのは許せない、というのはよくわかるんだけども。
(撮影:吉永考宏)
◇出席者の略歴一覧
◆SEALDs
千葉泰真(ちば・やすまさ)
1991年生まれ。宮城県出身。明治学院大学卒業後、現在明治大学大学院博士前期課程に在籍。奥田愛基に誘われSASPLに参加。以来、SEALDsの中心メンバーとして活動。
元山仁士郎(もとやま・じんしろう)
1991年生まれ。沖縄県出身。国際基督教大学教養学部4年生。立憲主義と日米地位協定について学んでいる。SEALDsやSEALDs RYUKYUの中心メンバーとして活動。
今村幸子(いまむら・さちこ)
1993年生まれ。日本大学文芸学科3年。現代詩や小説の創作を専攻。SEALDsではサロンの企画、広報、『SEALDs 民主主義ってこれだ!』本の作成、選書などをしている。
是恒香琳(これつね・かりん)
1991年生まれ。日本女子大学文学研究科史学専攻修士二年。1991年生まれ。東京都出身。6月からSEALDsに参加。デモ班、メール対応、SEALDs選書プロジェクトなどに所属。
安部さくら(あべ・さくら)
1994年生まれ。東京都出身。明治学院大学国際学部3年。SEALDsでは出版班、写真班、広報班、サロン班に所属。
大高優歩(おおたか・ゆうほ)
1994年生まれ。千葉県出身。専門学校3年。SEALDsでは、コール、デモ等に使う機材の管理、運搬、交通整理、車輌の運転を担当。
山本雅昭(やまもと・まさあき)
1989年生まれ。東京都出身。獨協大学卒。SEALDsの前身、SASPLで、全体の統括、デモ現場の責任者などを担当。
◆齋藤純一(さいとう・じゅんいち)/早稲田大学政経学部教授(政治理論・政治思想史専攻)
1958年生まれ。早稲田大学政経学部卒。横浜国立大学経済学部教授を経て現職。著書に『自由』、『公共性』、『政治と複数性――民主的な公共性にむけて』(岩波書店)、編著に『親密圏のポリティクス』(ナカニシヤ出版)、訳書(共訳)にハンナ・アーレント『過去と未来の間』(みすず書房)、『アーレント政治思想集成』全2冊(みすず書房)など。
◆松本一弥(まつもと・かずや)/朝日新聞WEBRONZA編集長
1959年生まれ。早稲田大学法学部卒。月刊「論座」副編集長、オピニオン編集グループ次長、月刊「Journalism」編集長などを経て現職。満州事変以降のメディアの戦争責任を、朝日新聞を中心に検証したプロジェクト「新聞と戦争」では総括デスクを務めた。著書に『55人が語るイラク戦争―9・11後の世界を生きる』(岩波書店)、共著に『新聞と戦争』(上・下、朝日文庫)
WEBRONZAは、特定の立場やイデオロギーにもたれかかった声高な論調を排し、落ち着いてじっくり考える人々のための「開かれた広場」でありたいと願っています。
ネットメディアならではの「瞬発力」を活かしつつ、政治や国際情勢、経済、社会、文化、スポーツ、エンタメまでを幅広く扱いながら、それぞれのジャンルで奥行きと深みのある論考を集めた「論の饗宴」を目指します。
また、記者クラブ発のニュースに依拠せず、現場の意見や地域に暮らす人々の声に積極的に耳を傾ける「シビック・ジャーナリズム」の一翼を担いたいとも考えています。
歴史家のE・H・カーは「歴史は現在と過去との対話」であるといいました。報道はともすれば日々新たな事象に目を奪われがちですが、ジャーナリズムのもう一つの仕事は「歴史との絶えざる対話」です。そのことを戦後71年目の今、改めて強く意識したいと思います。
過去の歴史から貴重な教訓を学びつつ、「多様な言論」を実践する取り組みを通して「過去・現在・未来を照らす言論サイト」になることに挑戦するとともに、ジャーナリズムの新たなあり方を模索していきます。