母国を想う朝河は、苦しんでいた。
「日本とアメリカの戦争だけは絶対に避けなければならない。今まで大隈先生、金子健太郎等、日本に手紙を送っても、何の効果もない。むしろ悪化していくばかりだ」
朝河は更に思索を続ける。
「武力を否定するのではない。二本松も会津藩も、自衛のために武器を取った。しかし、こちらが侵略するのはまずい」
苦悩する彼は、友人であるハーバード大学のラングドン・ウォーナー博士を訪ねた。
ウォーナーは、朝河の良き話し相手として肝胆相照らす中だった。
「日本がダメになる。母国の要人を通して、再三にわたり話したが、殆ど聞き入れられない。かくなる上は、天皇陛下の勅命を待つしかない。それしか日本を、戦禍から救う途は、残されていない」
堰を切ったように朝河は、ウォーナーに訴えかけた。
「天皇への直訴」…その思いは常に朝河の脳裏にあったことだが、宮中の天皇に書簡を送ることは不可能だ。ヒトを介しても、厳しい検閲に遇って、まず届く可能性は皆無と言って良かった。
ウォーナーは優しく答えた。
「何もキミ一人だけで苦しむ必要はない。こうなったら我々の大統領にひと肌、脱いでもらおう。ここはルーズベルトの出番だ。戦争になったら、アメリカも日本もない。双方がダメージを受けるのは自明の理だ。やれるだけのことをやってみよう」
そのウォーナーの言葉で、悶々と苦しむ朝河に一筋の光が差した。
1941年11月、朝河の一世一代の戦いが始まった。武器はペンとタイプである。
不休不眠で、「大統領から天皇への親書」その草案を作り上げた。朝河程の天才でも、その草案作成に三週間も要したのである。
A5判10枚に亘る原稿なのだが、無理を承知で要約すると
「戦争だけは避けよう。日本は世界の中で孤立しているかもしれないが、再び国際社会の中で、繁栄し、発展していこう。そのための案内役をアメリカは務める。
だから、これ以上、侵略的な行為を止めてほしい。
内政干渉と思えるような私の言葉を許してほしい。
そして、天皇陛下よ、大統領である私を信じてほしい。陛下の許可さえあれば、この手紙を全世界に発表してもいい」
というものだ。
アメリカ建国以来、大統領から他国の元首へ実質的な(つまり、儀礼では無い)「親書」が出されたのは、後にも先にも無い。この親書だけだ。
そして最終的に、ルーズベルト親書が昭和天皇の宮中に向かっていた1941年12月8日まさに丁度その時、同日の未明、日本海軍機動部隊の空母「赤城」、「加賀」ほか主力空母から、真珠湾に向けて183機が第一次攻撃隊として発進した。
朝河が心血注いで原案を作成した「大統領親書」は、奇しくも日米開戦の日、それも真珠湾攻撃開始と時を同じくして、逆説的な意味での「奇跡的」と言っていいほどに擦れ違ってしまったのである。
(「大統領親書」が開戦に間に合ったとしたら、歴史の女神はどのような結末を用意するだろうか? 「間に合ったとしても変わらない」という否定的な意見も多い。しかし、どんな結果になったか…その答えの全ては昔の霧の中にある)
日本の真珠湾攻撃から一夜開けた12月9日、コロンビア大学4年生だったドナルドキーンは、いつものように角田柳作の講義を受けようと教室に向かったが、それは叶わなかった。
なぜならその日、角田は敵性外国人として身柄を拘束され、ニューヨークのエリス島にある収容所に身柄を移されてしまったからだ(もっとも、角田はその功績を認められ、3箇月後に釈放された)。
開戦と同時に、12万人の日本人の資産が凍結され、身柄を拘束され、その殆どが収容所送りとなった。
アメリカ軍は「全ての在米日本人を収容所に入れろ。一人残らず、全てだ」との命令を一斉に発信し、在米日本人は有無も言わさず、身柄を拘束された。
たった一人の例外を除いては…
真珠湾攻撃により日米開戦の火ぶたを切った当日、移民局の係官は「収容対象日本人リスト」を一斉に全米各地に通達した。
陸軍を中心とした収容担当官は当該リストに基づき、粛々と日本人を指定施設に収容することになる。
その時、収容責任者はある日本人の名前を目にし、部下に訊いた。
「このリストは収容対象者リストだよな」
部下は「何を当たり前のことを訊くんだろう…」と訝しげに思いながら、
「はい。今から収容作業に入ります」と答えた。
責任者は血相を変えて
「ちょっと待て!このヒトだけはuntouchableだ!もし収容したなら、俺達のクビが飛ぶ!」
責任者がリストの中で指差したのは、朝河貫一だったのだ。
「ダートマスの至宝、ルーズベルトを動かすヒトだぞ。そんな朝河博士を収容したら、我がアメリカは」…責任者は振り絞るように付け加えた。
「全世界の笑いものになる」
こうして朝河貫一だけは、一切身柄の拘束はなされず、学問の自由と行動の自由が保証されたのだ。彼が身柄の拘束対象外の「唯一の日本人」だったのだ。
日米開戦、朝河は、身を引き裂かれそうな思いでそのニュースを聞いた。
「私は日本の役には立てなかった…」
彼の絶望を表現する言葉を、誰も知らないだろう。
1942年、失意の内に朝河はイエール大学教授を定年退官となった。
太平洋戦争中に、ウォーナー報告と呼ばれるドキュメントが作成された。
その書類は、朝河に「大統領を利用して天皇への手紙を届ける」方法を授けたあのラングドン・ウォーナーの名をとったドキュメントで、朝河寛一、角田柳作らの協力のもと、ウォーナーが作成した文化財のリストと地図からなるものだ。
このウォーナー報告により、京都、奈良の文化財は戦火を免れた。
1946年、ドナルド・キーンは海軍を除隊になると飛ぶようにしてコロンビア大学に戻ってきた。恩師の角田柳作の講義を受けるためだ。
そして翌1947年、キーンは角田の退官を記念する本への論文掲載を依頼するため、かねてから尊敬して止まない、そして恩師の角田からその人柄の高潔さを嫌と言う程に聞かされた朝河貫一に、「ダメモト」で会いに行った。
当時朝河は、名誉教授としてイエール大学の大学院塔9階の研究室で、相変わらず研究活動に余念がなかったのだ。
キーンは恐る恐る、朝河の研究室のドアノブに手をかけると、鍵が掛かっていない。
そっとドアを押すと、木製の机に向かっていた白髪の紳士がこちらを振り返り、微笑みながら近づいてきた。
学内外の関係者が「無理無理、オマエ程度の若造に会ってもらえるわけがない」と言われていた朝河貫一博士に間違いない。
キーンは緊張と喜びで胸をいっぱいにしながら尋ねた。
「私は、コロンビア大学の角田先生の教え子のドナルド・キーンと申します。朝河先生でしょうか」
キーンによれば、朝河博士は、山のような研究資料と格闘中であるにもかかわらず、柔らかな物腰で応対していただき、研究内容について意見交換を行ったとのことである。
それ以降、朝河はイエール大学構内でキーンを認めると、変わらない微笑みで、軽く会釈をするようになった。
「朝河先生とまたお話をしたい」
キーンは思い切って、再び朝河の研究室を訪ねようと思った。しかし、叶わなかった。
その間もなく、朝河は心臓発作のため他界したからだ。
…朝河の母校である、福島の名門、安積高校に「朝河桜」と命名されたソメイヨシノの木がある。
朝河が学生時代、寸暇を惜しんで勉強し、英語の辞書を毎日2ページずつ暗記し、最後に残った辞書のカバーをその桜の根元に埋めたことが、その名の由来だ。
現在も毎年、朝河桜は、春に満開となり、志を抱いて入学してくる安積高校の俊英を優しく迎えてくれる。
それは、あたかも朝河貫一が、学び舎に集う後輩たちに、あの時キーンに対してしたように、微笑みかけているかのようだ。
(二日間に亘り読んでいただきありがとうございます。それと、俺の筆力では朝河貫一博士の素晴らしさを伝えることはできなかった…朝河先生、許してケロ(;´Д`))
前回の続きを書く。
年が明けてからは共通一次、2月に入って二次試験やら、私立大学の試験が目白押しとなる。
「来年の今頃は、この俺も、受験戦線真っ只中だな」
と気持ちを引き締めた。
当時は、おおらかだったのかな。地方紙やラジオで、大学毎の合格者名と所属高校名が載ったり、発表されたりした時代だった。
続々と元同級生の合格大学が発表される。
「ほぉ~!そんな大学に合格したっていうか…そんな大学を受験したんだ~」
中学校時代、「勉強できるな~」と感心しきりの同級生達の進路は、意外にも、三流大学とは言わないものの、イマイチな大学に合格するというパターンが多かった。
「彼らでも苦戦するのか…これは心してかからなければならないな」
敵さんは相当手強いみたいだ。
オニヤンマだが、早稲田の政経に果敢にもアタックしたが、撃沈!
結局、日本大学経済学部に進学することとなった。
オニヤンマからすれば不本意だろうな。でも、実際に早稲田の政経を受けた時に、きっと彼はこう思ったはず。
「こんな難しい問題、浪人したとしても、多分、ムリっ!」
彼とは一回も会話したことが無いけど、そう思わなければ、早稲田→日大への進学の理由がつかない。
もっとも、バカ高校を基準にすれば、一般入試で日大に合格したんだから、大したものだ。
確か、昼間に校内放送で「〇〇クン(オニヤンマの苗字)が見事、日本大学経済学部に現役合格しました」と流れた位だから、大ニュースなんだろうな…
でも、オニヤンマには悪いけど、総合点で上回った彼を基準に考えれば、少なくとも俺は、日大の経済に入れる位の学力はあるっていうことかな。
それなら、どこの大学までなら入れるのかな?
全国的にみて、自分の力がどれ位なのか?
それが皆目、判らなかった。
「高校3年への進級時早々に行われる、旺文社の模擬試験、受けてみよう」
その時に、自分の勉強が正しかったのか、修正点があるのか、きっと判るはず。
季節は春、高校2年の3月も終わろうとしていた。