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朝河貫一 唯一の日本人

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ニューヨーク、ハドソン川河口にある「自由の女神像」は言うまでも無く、アメリカのシンボルだ。その造形は誰でも知っている。

しかし、その女神像の「殿堂」に、「世界の偉人」が掲額されているのは意外と知られていない。日本人からは二人が選出されている。

一人は「野口英世」博士、そしてその隣にもう一人、「朝河貫一」博士である。奇しくも二人とも福島県のご出身だ。

朝河の遺影の脇には「世界の為に尽くした偉人」として、彼の業績が記載されている。

 

現在は日本人として生活し、日本文学の英訳本を何百冊も書き続けてきたドナルド・キーンコロンビア大学名誉教授)、彼の存在が無ければ、二人のノーベル文学賞川端康成大江健三郎)は無かった。

そのキーンがしみじみと語った。

「朝河貫一先生の優しい微笑みが印象深い、あんなに強く、気高いヒトを、私は他に知らない」

そうに言って、キーンはあたかも初恋のヒトを想い描くかのような憧憬の表情で、遠くを見つめた。

 

1873年、朝河貫一は、福島県二本松市に産まれた。

朝河家は、当主が二本松藩の砲術指南役を務めた家柄であったが、戊辰戦争において、隣の会津藩同様、朝敵とされ、生活は一変、そんな中で朝河貫一は生を受けたのである。

貫一の父は、剣術、槍術、馬術、砲術にも優れ、とりわけ18歳の時に、小野派一刀流の免許皆伝をとった程の武士であったが、賊軍の士族の殆どがそうであったように、時代の流れに翻弄され、止む無く小学校教員となり、辛うじて一家の生計を支えていた。

朝河貫一は、幼い頃から、戊辰戦争で西軍に蹂躙された二本松藩の悲劇を聞かされていた。

「正義」というのは相対的であり、依って立つその立場で変わる。

会津二本松藩の正義は、徳川幕府の血脈を守ることだっただろうし、薩長を中心とした西軍の正義は、異国に対抗し得る新しい日本を作ることだ。

従って、どちらが正しくて、どちらが間違っている、という単純な構図ではない。

しかし、西軍の中には、河井継之助の意見具申をつっぱねた岩村精一郎のような愚鈍な下級武士が、権力をかさに着て威張り散らしていたのが多かったのも事実だ。

 

父による「もう武力の時代じゃない。だから学問だけは絶対負けるな」との言葉を胸に刻み、貫一は小学校の頃から頭角を現し、学力テストでは二位を大きく引き離してのトップで、「神童」と呼ばれるようになった。

1887年、福島県内唯一の尋常中学校(現在の「福島県安積高校」)に入学してもその神童ぶりは衰えるを知らず、1892年、尋常中学校の卒業式においても、首席の朝河は総代として登壇し、流暢な英語で答辞を述べ、居並ぶ来賓たちを驚かせた程であった。

 朝河は、西軍に踏みにじられた二本松藩を日本に置き換え、このように考えていた。

「日本を欧米列強から守るためには、国力を高めていかなければならない。ならばその欧米列強がどのようにして『列強』たり得たのか、その歴史を現地で知りたい」

そのような想いが朝河を突き動かしたのだ。

しかし、その向学心を支えるための学費の見通しは全くたっていなかった。

朝河は渡米の第一歩として、東京専門学校文学科(現早稲田大学文学部)に入学、翻訳の仕事や原稿料で学費を稼ぎだした。

朝河の優秀さは変わらず、彼の才能に惚れ込んだ横井時雄、坪内逍遥徳富蘇峰大隈重信勝海舟等が朝河を支え、とうとう名門ダートマス大学から「学費と学生寮の費用を免除するからいつでも来い」という回答が得られたものの、渡航資金は依然として整わずにいた。

1895年、朝河は東京専門学校をまたしても首席で卒業する。質素な木綿の普段着で賞状を受け取るその姿が、彼の労苦を語っていた。

卒業後も、資金は思うように貯まらなかったが、ついに、費用の工面ができるようになるに至り、同年12月、朝河は横浜港を出港した。

朝河はデッキに立ち、見送る人々に手を振った。

「みなさんが私のためにしてくれた恩は、決して忘れません。皆さんの気持ちに応えるため、もっともっと努力、精進します。ありがとうございました」

桟橋が見えなくなっても、涙で見えなくなっても、朝河は手を振り続けた。

 

夢にまでみたアメリカでの生活が始まった。

学費と寮費は免除されていたものの、生活費は自ら賄う必要があり、朝川はホテルの給仕や皿洗いをしながら苦学を重ねるも、学問に対する探究心はいささかも揺るがず、英語、ドイツ語の能力はダートマス大学でもトップに踊り出た。

ある日の教授たちの話だ。

「アサカワは日本人だよな」とA教授

「そうだ。彼は日本人だ。しかし、スゴイな」とドイツ語の教授

「キミもそう思うか、アサカワ、あれは天才だな」とA教授

ドイツ語教授はかぶりを振りながら「いや、違うな」とA教授に言った。

「なんだ。アサカワはドイツ語が苦手なのか。ちょっと安心した。アサカワも人間なんだな」とA教授

笑いながらドイツ語教授は答えた。

「いや、アサカワは天才を凌駕している。アイツはバケモノだ。どうしてあんな短期間で、英語圏の人間じゃないのに、ドイツ語をマスターできたのだ。アイツの頭の構造、どうなっているんだ」

もっとも、このように、書くと、朝河がさも、天賦の才能を与えられているようであるが、決してそうではない。

努力することに関して、彼は天才だったのだ。

朝河は「日本人」であることからくる、同級生の好奇の目、無神経な質問に辟易していた。

彼の大学におけるニックネームは「サムライ」だった。

この「サムライ」は、こともあろうに、「厭世的」になってしまうことが多く、そんな気持ちを吹き飛ばすよう、鬼神の如く、勉強を重ねた。目から血が出る位、本を読み漁った。その努力の結果として大学でもトップクラスになったのだ。

 

同級生から「サムライ」と呼ばれる度に、朝河は母国日本を強く意識するようになった。異国の地においても、彼は日本を愛した、否、異国の地にいる故、より強く母国を愛するようになった。

そんな朝河の性格が、学問をする上での大きな収穫となり、彼はやがて日本と欧米各国の法律、制度、社会の生い立ちを比較しながら、歴史を見つめることによって、世界や人類及び国家の役割が、どのようにあるべきかという壮大なスケールの歴史観を持つに至り、朝河はいつしか「ダートマスの至宝」と呼ばれるようになった。

 

そのような朝河を放っておくアメリカ学会ではない。すかさずイエール大学が彼を向かい入れた。無論、学費の給付つきであった。

イエール大学ゴシック様式の建物から構成される創立200年を誇る屈指の名門大学であるが、その生い立ちから(ハーバード大学がリベラルへと「堕落」した対抗から、設立された)、極めて保守的で、マイノリティ(少数民族等)、カラード(有色人種)に対して極めて消極的な態度をとってきた大学だ。

しかし、朝河はそのような大学であっても揺るぎない姿勢で研究を重ね、ついには頭角を現し、助教授、教授として、アメリカの「ベストオブブライテスト」(最も聡明な人たち)に更なる英知を吹き込んでいった。

彼は講義の中で、徹頭徹尾、侵略戦争を否定した。

古来、戦争は自衛の名の元に勃発する側面があるのも歴史の事実だろう。

しかし、少なくとも「利己的な侵略」は自衛たり得ず、このような侵略がどのような結果を招いたのかを古今東西の事例を元に、冷徹なほどに分析し、教示した。

彼の講義はいつしか注目の的となり、聴講生も含めると、入りきれない程の学生が押し寄せることとなった。

「西軍に蹂躙された二本松、会津藩のような悲劇は、絶対に繰り返されてはならない」そんな想いが、朝河を支えていたのだ。

 

朝河の専攻は比較法制史という学域(学問領域)である。

複数の国における法律について、それぞれを探求し、その生い立ち、時代背景、成り立ち、効果を検証するという考えただけで気の遠くなるような学問領域である。

彼はその学域で次々と画期的な研究成果を出していき、比較法制史においては、フランスのマルク・ブロック博士と並び称される世界的な権威としての地位を得るに至った。

そんな朝河はイエール大学のみならず、ダートマス大学はもちろんのこと、ハーバード大学コロンビア大学等でも講義を行う程、引く手あまただったのであるが、その他の大学の著名な学者との交流を深め、特に既述のマルク・ブロック博士、コロンビア大学大学で教鞭をとった角田柳作と親交を深めていった。

 

比較法制史の巨星と呼ばれるに至った朝河であるが、彼の気持ちは晴れなかった。

彼を悩ませていたのは他でもない、母国日本の「迷走」だったのだ。

日露戦争はまだいい(現に朝河は日本擁護の論陣を張り、アメリカ世論を日本に傾けさせた)。問題はそれ以降の軍国主義化であった。

「アメリカの日本に対する視線が極めて厳しい。対日制裁が時間の問題だ」

朝河は研究室で分析する。

「対日制裁は、すなわち日本の滅亡を帰結する」

「何とか日本を救う手立てはないか」

夜も眠れない程の焦燥感が朝河を襲った。

朝河と親交のある各国の学者等からもたらされる世界情勢やアメリカの情報、日本から送られてくる新聞を照らし合わせる日々を重ねる都度、朝河は表情を曇らせた。

悲惨な未来しか日本に見えなかったからだ。

「このままではまずい…」

彼は天を仰ぎながら、呻いた。

(後半へ続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回の続きを書く。

当たり前だが、100点満点で、30点から80点までの+50点のレベルアップは比較的容易だ。

しかし、80点からの+10点は、乾いた雑巾を絞る出すような努力と知識量が必要だ。30点→80点へのレベルアップよりも遥かにコスパが悪い。

高校2年の後半における俺の英語と政治経済がそんな状態だった。

 

そんな俺に、救世主が現れた。

伊藤和夫先生の「英文解釈教室」だ。

今でこそ「名著!」、「ハイスペック過ぎる!」、「学術書!」等色々な評価が下されているメジャーな本であるが、当時はあまり知られていなかった。

むしろ同著者の「英語構文詳解」が有名だったが、2回位回して、「う~ん…イマイチだな…当たり前過ぎる…」と期待外れだった。

しかし、伊藤先生の解説自体はとても判りやすかったので、たまたま本屋で目にした英文解釈教室に飛びついた。

「教室っていう位だから、すぐ読めるだろう」とタカをくくったが、この本はすごかった。読み終えるまで相当時間がかかったが、最強だった。

大学入試で出る英語は、たかが知れている。

この「教室」を精読していけば、どんな英文と遭遇したとて、完璧に対処できるだろうと実感できた。「対処」どころか、お釣りがくる位だ。

大学入試はおろか、英語そのものをマスターするのに、最強じゃないかな…

英文解釈だけでなく、英作文も含めて、英語的思考を教えてくれた本だった。

英語の勉強をしていて、おぼろげながら感じていた違和感や抵抗感、疑問を、まさに痒い所に手が届くような形で読者に「キミが疑問に思っているのはここだろ?」と具体化した上で、「その疑問はね、こういうことなんだよ」と解法を提示してくれる。

そんな著者との会話ができる「神本」だった。

幸いだったのが、「英文標準問題集精講」の読み込みはしたものの、勉強に費やす時間とともに、ちょっぴり物足りなさを感じていたのだが、まさにそういう時に、この本と出会えたというタイミングの良さだった。

多分、初めからこの「教室」に手を出してたら、チンプンカンプンだったろう。

私見であるが、コスパ、内容ともに、「英文解釈教室」を超える英語の参考書は、俺は知らない(もちろん既述の「かずーいさん」のブログで紹介された本には、大いに興味があるが、ちょっと今は読む時間が持てない)。

 

この「教室」との出会いで、英語は一気に得意科目、得点源とすることができ、とうとう秋の学内模擬試験で、総合点においてオニヤンマを上回ることができた。

もちろん、その時はまだ、「教室」は6~7割程度しか読めていなかったが、伊藤先生のお陰て、オニヤンマに勝つことができた。

うろ覚えだが、

俺     英語95点  国語55点  社会85点(俺は政経選択)

オニヤンマ 英語75点  国語65点  社会70点(彼は世界史選択)

こんな感じだった。

 

オニヤンマは「うわ~、下級生にやられた~!」とか言いながら、はしゃいでいたが、彼の眼は笑っていなかった。

多分、彼は「次こそは勝つ!」とか思っていたんじゃないかな?

でも、俺は勝ち逃げを決めていたので、次は無い。

それに多分、次があったとしても、彼には負ける気がしなかった。だって、俺には伊藤先生がついているからだ。

「すまんね、オニヤンマ 遠くからキミが早稲田の政経に合格できるように願っているよ(笑)」

そう思いながら、バカ高校の「大学進学補習」を、自信を持ってリタイアした。