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【 一 】
死者の恨み、怒りが、潮水の中に満ちているのを感じる。
昨晩は風が暴れ、今朝もその名残で浪が高かった。ザン、ザン、と砂浜を駆け上がる海の裳裾は、まるでそこに佇む娘を呑み込もうとしているようだ。
けれど怖くない。死者は死者。
彼女が冷たい墳墓の中に埋め去った。
彼の手がここまで届くことはないのだから。
荒い浪が打ち寄せる浜辺に佇み、垂は対岸に聳える神なる連峰を見晴るかしていた。
最後に空を見たのは、まだ雪が舞う日のこと。しかし天の零した名残雪はすっかり消え果て、はや桜の蕾がほころぶ季節。まだ冷たい潮風が耳の上に挿した桜の小枝の挿頭を揺する。春を告げる魚霊が飛沫の合間を跳ねる様を眺めながら、垂はほくそ笑んだ。
――これでこの海はわたしのもの。
勝ち誇った顔で死者の魂が向かうという神なる連峰を見つめる。そこへ送った夫の魂に少しの後ろめたさを感じつつ、しかし彼女の胸を満たしているのは喪失の悲しみよりも解放と始まりの喜びだった。
ここは『布瀬の水辺』。神なる連峰に抱かれた大きな弓形の湾を望み、巨大な潟湖が良港となり、外海へと突き出した半島を伝って数多の珍しき品々がやって来る土地。
治めていたのは、垂の夫だ。
その夫が肌を黒く染め亡くなったのはふた月前のことだった。垂は夫の蘇生を願う祭祀をひと月行い、黄泉がえりが叶わぬとみるや、昨年から建造が始まっていた御陵に夫を葬った。そしてさらにひと月、彼の魂を慰めるため棺の傍で過ごし、今日ようやく殯を明けたのだった。
久方ぶりに着る色のついた絹の衣を翻し、垂は肩巾を絡めた両腕を広げくるりと回った。瑞々しい黒髪が潮風をはらんで広がり、ほんのりと薄紅色に染まる頬を金の耳飾りが撫でる。それは陽光を弾きながら、ちりりりんと楽しげに鳴った。
そんな彼女の舞は唐突に終わる。
背後に砂を踏む音を聞いていたので、振り返った先で幼馴染みの若者が渋い顔をして待っていても垂は驚かなかった。
「布瀬の族長になった気分はどんなものだ? 垂媛」
「分からないわ。まだどの邑長の挨拶も受けていないもの。お前の父上はわたしを認めてくれるかしらね? 国久流」
腰に佩いた舶来の大刀の柄を撫で、若者――国久流はいっそう眉根を寄せる。
「父上は疑っているぞ。韓から取り寄せた鴆毒をどこへやったのかとな。誰に売ったのか聞かせて貰いたいと仰っている」
「鴆毒? さあ。商いのことを取り仕切っていたのは田勢比古さまだから、わたしには分からないわ。鴆毒は韓から買い付けるものなの? どういった毒なの? 効き目が確かなら、大和や河内にも高値で売れるでしょうね」
垂は冷ややかな笑みを浮かべ、紅をつけた唇に艶然と指を這わせる。惚ける彼女から目を逸らし、国久流は大きく舌打ちをした。
「知らんぞ。田勢比古さまを殺したのがお前だなどと明るみに出てみろ。布瀬の水辺だけの騒ぎでは収まらない」
「身に覚えのないことを責められても困るわ。けれどなんであれ田勢比古さまはお隠れになってしまったの。跡を継いだわたしが、布瀬の水辺の族長として湖畔と海辺をつつがなく治めていけるよう、お前は手伝ってくれるのでしょう? 海辺の邑長達とわたしの間を取り持てるのは、亡き田勢比古さまの義弟であったお前の父上と、お前だけよ。頼りにしているわ」
さくさくと砂を踏み、垂は国久流に歩み寄った。そして垂の唇をなぞっていた指で顎を撫でると、彼はとたんに赤くなる。そしてそれを誤魔化すように顔を顰め、そっぽを向いて垂の手を払った。
垂が布瀬の水辺の族長・田勢比古の妻になったのはもう七、八年も昔の話だが、ともに大人になった国久流に妻が出来たという話は一度もなかった。
幼い頃から彼女に惚れ込み、未だ一人の女も娶らないこの若者は、〝垂だけ〟と心に決めているそうだ。それゆえ「海辺の邑長を束ねる豪傑・田津比古殿の倅が、なんと純情なことよ」と影で揶揄されていたりする。
とはいえ国久流は、布瀬の水辺の誰もが認める田津比古の跡目だった。それは彼が韓の言葉さえ操り、訳語人を介さずに韓の物売りと直接取引が出来るからだ。
垂もそんな国久流の教養を買っていた。垂が布瀬の水辺を治めるにあたって、国久流は間違いなく必要な友である。もっとも、夫を喪った垂にとって、国久流がいつまで友でいてくれるつもりかは分からないものだが。
「まずは邑長達の機嫌をとってみてから言うんだな。早く戻って支度をしろ。女達が捜していた」
「あら、おかしいわね。海を見てくると茜に伝えてきたのに」
「あの鈍くさい小娘が覚えているとは思えないがな」
「すぐに戻るわ。でも待って、あの岩場に何か引っかかっているのよ。人に見えるの」
垂は砂浜の途切れた先、海神の社を据えた岬の足許を指差した。そこには巨岩がごろごろと転がり、弧を描いて沖へ二十丈も続く岩垣となっている。天然の防波堤は砂浜へ打ち寄せる浪を穏やかにしているのだが、それでも今日は高い飛沫が上がっていた。
「人だと?」
昨日から浪が高かったので、このあたりで漁に出た者はいないはずだ。しかし海沿いの遠くの邑ではどうだか分からない。岩場に引っかかっているのが転覆した舟から投げ出された者だとしたら、引き上げてやらねばならなかった。生きていようと、死んでいようと。
「岬のすぐ下よ。あの大岩と大岩の間に。見えない?」
「確かめてくる。お前は先に戻れ」
「場所が分からないのなら一緒に行くわ。浪が荒いもの。国久流まで攫われてしまったら大変」
国久流は面白くなさそうな顔をしたが、それ以上は反論してこなかった。垂の言う人のようなものがどこにあるのか、本当に分からないらしい。
流木が垂の目には人のように見えているだけかも知れないし、あるいは徒人の国久流には見えない死にかけた魚霊かも知れない。どちらにしろ人でなければいいのだが……と思いつつ、垂は岩場へ向かう国久流について行った。
しかしふた月も殯の宮に籠もっていた垂の脚では、その間も働き続けていた国久流の脚に追いつけない。あっという間に引き離されてしまう。
「どこだ?」
「このあたりよ」
先に岩場にたどり着きあたりを見回していた国久流に追いつくと、垂は息を切らしながら巨岩と巨岩の狭間を指差した。
国久流は器用にその中へ降りていく。
ここはまだ海岸に近く、岩と岩の間には砂が溜まって底が浅くなっている。砂浜からこの岩場を見た時、そんな浅瀬の一角に白い衣が揺れているように見えたのだが……。
浪飛沫が顔にかかり、垂は渋い顔で国久流が何か見つけるのを待った。潮風が冷たい。幼馴染みが心配で一緒に来てしまったが、やはり彼のすすめに従って戻っておけばよかった。
「おい!」
そう思った時、巨岩の狭間から聞こえた切羽詰まった声。
垂は自分の衣を踏んで滑り落ちないよう気をつけながら、そっと巨岩の狭間を覗き込んだ。
「おい、しっかりしろ!」
濡れるのも厭わず、国久流が砂の溜まった浅い海の中に屈み込んでいるのが見えた。
「何か見つけたの?」
問いかけると、ちゃぷちゃぷという冷たい浪音の中に垂の声が反響した。国久流は何かを抱えて後退りながら狭間の奥へと戻ってくる。
「お前は目がいいな。くそ、生きてはいるが……」
国久流は抱えてきたものを岩にもたせかける。白い衣。やはり垂の見間違えではなかったらしい。
いつからそこに浮いていたのか知らないが、春先の海はまだ冷たく無慈悲だ。人が長く浸かっていては命が危うい。
「持ち上げられそう?」
「無茶を言うな。一人で抱えて行けるか」
巨岩の狭間は国久流とその者が二人でやっと並べるほどの狭さで、垂が上から見てもそれ以上身動きがとれないことが分かった。
国久流は一人岩を伝って垂のところまで戻ってきた。
「人手を連れてくる。大丈夫だとは思うが、あいつが流されないように見ていろ」
「流されそうになったら?」
「なんとかしろ」
「なんとかって……」
垂はひらりと両手を広げた。華奢な腕に絡まる肩巾、たっぷりと襞のある裳。麻ではなく上等な絹で出来ているということ以外、特に珍しくもない女の衣裳。
「降りられると思う?」
そうして小首を傾げると、垂の愛らしい仕草に国久流は狼狽える。
「いい、とにかく見ていろ。お前まで落ちるなよ」
頬に朱が差すのを見られる前にといわんばかり、国久流は踵を返して駆けていった。昔から駆けるのが早かった彼はあっという間に豆粒のようになり、やがて防砂林の中に消えた。
一人になった垂は再び潮風の冷たさを思い出し、肩をさすりながら改めて巨岩の狭間を覗き込んだ。
国久流の背丈の倍はあろうかという深さだ。大人が両腕を広げきれないほどの幅で、内海に向けて鉤爪のように曲がっている。そこに溜まった砂の上、一尺ちょっとの深さで潮水がゆらゆらと浪打っていた。
その浪にゆっくりと揺すられながら気を失っているのは、細身の男だった。生成りの衣に倭文の帯を締めている。もとの身なりは良さそうだ。しかし髪は解け、海藻のように彼の顔や肩に貼りついて人相を覗うことは出来ない。そして驚くことに、その髪は淡い茶色だった。
(韓より西には赤い髪の人間もいると聞いたことがあるけれど……)
海の向こうの物売りがやって来る布瀬の水辺においても、垂は黒髪以外を見たことがなかった。珍しい色を持つその男を、彼女はしげしげと観察した。
どこか外つ国からやって来た客人が、舟から投げ出されこの浜へ流れ着いたのだろうか――答えの返ってこない疑問を抱きつつ、垂は寒さに震えて国久流が戻るのを待った。
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