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2016年3月 3日

 記事のカテゴリー : リポート笠間掲載コンテンツ, 学界時評

●明星大学日本文化学科国際シンポジウム「本がつなぐ日本と世界―古典籍と目録・研究の国際化」報告○勝又基(明星大学)【2016.1.11・於明星大学】

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しばらく実験的に、各学会大会等で開催されたシンポジウムのレポートを掲載していきます。
ここに掲載されたテキストは、小社PR誌『リポート笠間』の最新号に再掲載いたします。

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明星大学日本文化学科国際シンポジウム
「本がつなぐ日本と世界―古典籍と目録・研究の国際化」報告

○勝又基(明星大学)

日にち 二〇一六年一月一一日(月祝)
[講演者]
マルラ俊江(UCバークレー校図書館)
洪淑芬(台湾国家図書館)
マシュー・フレーリ(ブランダイス大学)
[代表質問者]
山本嘉孝(東京大学大学院)
定村来人(東京大学大学院)
[司会・コーディネーター]
勝又基(明星大学)

公式サイト
http://www.meisei-u.ac.jp/2015/2015121803.html

 海外での日本文学研究を見ていると、目を見張るものが多い一方で、現代の問題意識に引きずられすぎていたり、考証・調査が不十分に見受けられるものも存する。ただ、だからといって、「あっちはあっち、こっちはこっち」というような閉じた姿勢のままで居続ければ、いずれ日本文学研究はガラパゴス化してゆくのではないか。これは昨年海外で学んでの実感である(本誌第57号「ハーバード大留学おぼえがき」参照)。帰国して以来、この問題意識を国内で共有できる機会を作りたいと考えていたのだが、折よく三菱財団の助成と勤務学科の理解を得てシンポジウムを開催することができた。

 「目録」というキーワードを入れたのは、デジタル化の時代である今こそ、海外に所蔵される古典籍という「現物」が現地の研究者に利用されるべきであり、そのために目録の果たす役割は重いのではないか?と考えたためである。

 当日は、遠くは海外、九州、関西から、近くは沿線の国文学研究資料館から、約五〇名に参集いただいた。

◆マルラ俊江「海外図書館における日本古典籍の整理と利用について―カリフォルニア大学バークレー校所蔵コレクションを中心として」
 氏はまず、欧米の図書館・美術館等で所蔵される日本古典籍コレクションの所在を調べるツールについて注意を促した。CiNiiやWorldCatのような総合目録データベースが一応はあるものの、個々の所蔵館の事情もあって、これらだけで所蔵をきちんと調べることは期待できないという。代わりに、国文学研究資料館HPの「在外日本古典籍所蔵機関ディレクトリ」(http://base1.nijl.ac.jp/~overseas/index-j.html)を手がかりにして、所蔵館の担当者に直接コンタクトする方が確実なのだそうである。

 そして驚かされたのは、UCバークレー校は旧三井文庫の二八〇〇点におよぶ写本群を所蔵しているが、この整理に頭を悩ませている、という発言であった。なぜ驚いたかと言えば、同コレクションには、一九八四年に国文学研究資料館の錚々たる面々によって編まれた目録「カリフォルニア大学バークレー校旧三井文庫写本目録稿」(「調査研究報告」五)がすでに備わるからである。氏の発言はつまり、この目録では現地で資料が活用されるには十分ではない、ということなのだ。ここ三〇年ほど、日本から海外へ赴いて古典籍の目録が数多く作られてきた。もちろん調査時間の制約などさまざまな事情は存しただろうが、そうした中で、現地の研究者・学生への配慮は十分になされて来ただろうか。このことを顧みる段階が来ていると実感させられた。

◆洪淑芬「多国研究者が利用できる日本古典籍目録作成をめざして」
 氏は『国立台湾大学図書館典蔵日本善本解題目録』(二〇〇九年刊 台湾大学)[編集部注=google books]の中心的な編者である。未見の方にはぜひ一覧をおすすめしたい。中国語が分からなくとも、これが他と一線を画するものであることは一目瞭然である。この目録編集における氏の苦労話を聞くことが、そのまま現在の日本古典籍目録の問題点の洗い出しになるのではないか、と考えて登壇を依頼した。

 氏は善本の解題を中国語に対訳しただけでなく、その中に出てくる書誌学用語、文学史用語、歴史用語、地名、人名など一〇種の用語集を選定して日本語で作文し、日本人研究者と連携して内容の正確さを確認しながら、中国語訳も行った。また掲載された善本を日本文学史年表の中に位置付け、中国文学史と対照させた。さらに索引は、日本語・中国語でなんと六種類を備えた。

 印象深かったのは、氏が目録の構想当初から、日本文学史の教科書として読まれることまでも目指していた、ということである。善本選定の段階であらかじめ教科書としての構想を伝え、年代・ジャンルに偏りのない選定を依頼したのだという。

 これらのために氏が費やした時間と手間はどれほどであったか。すべては台湾大学所蔵の日本古典籍が、整理をきっかけに現地の学習者(研究者)に利用されることを願い、その意欲が日本人研究者を動かして成し遂げられたことである。そして逆に言えば、これだけの手間をかけなければ現地では利用されにくい、ということを意味しているのだと、我々は肝に銘じるべきであろう。

◆マシュー・フレーリ「欧米研究者から見た日本学資料の蔵書目録・データベース・デジタル化」
 氏のお話は興味深い体験談から始まった。いま欧米では、参考文献を記すさい、ネットではなく印刷物で読んだものの場合には、わざわざ「print」と記す傾向が生じつつある。それほどまでに書籍の絶対性が揺らぎ、ネットに重心が移りつつあるというのである。

 また、いま四〇代である氏が大学院生であったころ、美術史はともかく日本文学研究の世界では、くずし字を読むべしという風潮はなく、そうした授業もなかった。そこから氏が独学でくずし字をマスターするに至ったのは、早稲田大学「古典籍総合データベース」の登場であったという。そして今や、事情はガラリと変わった。くずし字の基本的な読解は、前近代日本を学ぶ大学院生にとっては必須の技能になり、昨年イェール大での研究集会で国文学研究資料館のデジタル化事業が紹介されたさいには、盛大な歓迎の拍手が起こったという。

 さすが氏だ、と思ったのは、国文学研究資料館HPの「近代書誌・近代画像データベース」(http://base1.nijl.ac.jp/~kindai/)に、「問い合わせ」の機能が欲しいと要望されたことであった。記載の間違いを見つける時があり、恩恵を受けている恩返しの意味も込めてフィードバックしたいのだが、その窓口がないのだという。世界から寄せられるこうした改善の機会を逃しているのは、なるほど勿体ないことである。

◆代表質問・質疑応答
 代表質問者の一人目、山本嘉孝氏からは、日本文化自体には関心がなくても、日本の「書物」や「書物文化」に潜在的な興味を持っている人々は、世界中に数多く存在するはずで、そうした人たちにどうやって訴えかけるのか?というスケールの大きな質問が投げかけられた。たしかに、今我々が関わっているデジタル化は、我々の想像をはるかに越えた広汎な興味を持たれている可能性がある。折しもつい先日、ペンシルバニア大学で「Manuscript Studies」という世界の写本を対象とする研究雑誌の創刊が予告された(http://mss.pennpress.org/home/)。その創刊号の表紙は江戸時代の書籍の書影である(なぜか木版本のようだが)。

 二人目の定村来人氏からは、複数コレクションをつなぐ共通プラットフォームを作ることと、各コレクションの個別性を活かした目録作りとのバランスについて、どのように考えているか?という質問が投げかけられた。マルラ氏はそれこそまさに今悩んでいることだと慨嘆し、フレーリ氏は冊子体目録の価値を認めつつ、その場合はせめて、検索可能な形のPDFファイルを作ってリポジトリに入れて欲しいと訴えた。

 会場との質疑応答も盛んだったが、そのうちマクヴェイ山田久仁子氏(ハーバード大学燕京図書館)からの意見が印象的だった。現在、日本の各大学がデジタル化を独自に行っているが、きわめて見つけにくい。一度に検索できるようなポータルサイトができないか、というものである。これについては登壇者に代わって国文学研究資料館の山本和明氏から、いま二〇の大学とそうした試みを始めているところだ、との回答があった。ただし英語対応については今後の検討課題だとのことで、まだまだ国内向けとの印象が残った。

 シンポジウムを終えて実感したのは、昨今の日本古典籍のデジタル化が、きわめて国際的な問題なのだということである。世界中の多様な人々が、多様な興味にもとづいて、それを見守っている。日本の大学や研究機関は、世界からの興味に応えるデータを提供できるのかだろうか。そして日本の研究者は、多方面からの興味と切り結ぶ研究ができるのだろうか。こうしたことが今、問われているのである。