「マイナス」金利世界の「割引率」はマイナスとなるのか。
そんな議論が企業財務の現場で話題となっています。
日本の会計基準をつくる企業会計基準委員会(ASBJ)は、日銀によるマイナス金利導入を受け、退職給付会計の「割引率」の計算にマイナス金利の適用を認めるか検討する。企業は長期国債の利回りを基に割引率を決めるが、利回りがマイナスになった場合の計算法を示していなかった。企業会計の現場で戸惑いが広がっており、ASBJとして方針を示す。
きょうは、ここで何が論点となっているのかを、「割引率」に馴染みのない方にもざっくりと眺められる場を設けられればと思い、エントリにしてみました。
極端な例で恐縮ですが、以下の例でまず1つ考えてみましょう。
(A)1日に1%の金利がつく世界
この世界で、100万円おカネを借りたあなたは、翌日いくら返済すべきでしょうか。*1
返済元本に対して付く金利は
100万円×1%=1万円.
元本と合わせると101万円が明日必要になります。
よく、「100×(1+0.01)=101」のように計算されますね。
(B)1日に-1%の金利がつく世界
この世界で、100万円おカネを借りたあなたは、翌日いくら返済すべきでしょうか。
返済元本に対して付く金利は
100万円×(-1%)=-1万円.
元本と合わせると、100+(-1)=99万円が明日必要になります。
「100×(1-0.01)=99」のように計算されますね。
今回は、退職給付会計についてのお話なので、この時間軸を逆から眺めてみることになります。
すなわち、「明日100万円返すには、今日いくら持っておきたいか」です。
この計算で登場するのが「割引率」のお話です。
その概念の説明は以下、先ほどの(A)、(B)のケースに抱き合わせることにします。
(A)1日に1%の金利がつく世界
この世界で、明日100万円を返さなければならないあなたは、返済日を控えた今、いくら口座に用意しておきたいでしょうか。
明日には100万円を用意しなければなりませんが、幸いなことにこの世界は「1日に1%の金利がつく世界」です。
あなたの預金に対して今日から明日に向けて付く利息も含めて、その金額を用意すれば足ります。
100万円÷(1+0.01)≒99.01万円
99万0100円を用意していると、翌日にはこれに対して1%の利息が付きますので、
990,100×(1+0.01)=1,000,001円
無事に返済することが出来ます。
返済額よりも少ない金額を現在用意しておけばよいのがプラス金利の世界です。
(B)1日に-1%の金利がつく世界
この世界で、明日100万円を返さなければならないあなたは、返済日を控えた今、いくら口座に用意しておきたいでしょうか。
明日には100万円を用意しなければなりませんが、残念なことにこの世界は「1日に-1%の金利がつく世界」です。
あなたの預金に対して今日から明日に向けて付く利息も含めて、その金額を用意しなければなりません。
100万円÷(1-0.01)≒101.0101万円
101万0101円を用意していると、翌日にはこれに対して-1%の利息が付きますので、
1,010,101×(1-0.01)=999,999円
あれ、端数分足りないですね。ということは101万0102円が必要ですか。
返済額よりも多い金額を現在用意しておく必要が出てくるのがマイナス金利の世界です。
これが複数年度に及ぶと計算はもう少し複雑になりますが、差し当たっての理解のためであれば上記で十分かと思います。
このタイミングで「退職給付債務」にふれましょう。
日経の記事にはこのように解説がされています。
▼退職給付債務 企業は将来、従業員に支払わなければならない年金や退職金を用意する必要がある。将来支払う予定の金額を一定の利回り(割引率)で割って、現時点で用意すべき金額に計算し直したものが退職給付債務だ。
割引率は国債など安全性の高い債券の利回りを基準に決める。割引率が下がると退職給付債務が増える。退職給付債務に比べて実際の年金資産が少ない場合、不足分を費用計上しなければならず、企業収益を圧迫する要因となる。
お話としては、いま見てきた議論と近いことを分かっていただけるかもしれません。
先ほどの「明日100万円を返さなければならないあなたは、返済日を控えた今、いくら口座に用意しておきたいでしょうか。」という問いが、「将来支払う予定の金額を一定の利回り(割引率)で割ると、現時点で用意すべき金額はいくらでしょうか。」に置き換わったものだと考えられます。
ということで、ざっくり言えば、金利がマイナスになると「現時点で用意すべき金額(≒退職給付債務)」が増えることを意味します。
企業のバランスシート(貸借対照表)にはこの「退職給付債務」が直接出てくることはありませんが、この額が大きいとそれだけ、会社の資産の中で投資などに回せる額に制約がかかるわけです。
従業員の退職金支払に備えなければならない金額を、設備投資などに回してしまうと問題があるためです。
また、その額は従業員が多いほど、従業員の平均年齢が高いほど大きいものとなります。
したがって、退職給付債務をマイナスの割引率で評価することとなると、その影響は昔ながらの企業であればあるほど、その額が大きなものとなる傾向があります。
以下、このエントリでは単純化のために、先ほどの「利率(利回り)」と「割引率」を同じものとして述べていきます。
これまで、こうした計算をするにあたって、(B)の世界を想定することはありませんでした。
金利はプラスであることが当然ですもの。
しかしながら、現在の日本では金利を人為的に引き下げる政策が採られていることは皆さんもご承知のことと思います。
これを受けて、現在の日本の国債市場はというと…
9~10年までの金利が0%以下となる事態となっています。
そう、日本国債に関して言えば、「1年にマイナスの金利がつく世界」です。
マイナスの金利でなぜ国債が買われるのかという論点については「マイナス金利の国債でも利益が出せるお話。 - すらすら日記。」をご覧ください。
もちろん、国債の利回りだけが割引率の決定に用いられるものではありません。
実際に日経の記事によれば、日銀よりも先に「マイナス金利政策」を実施している欧州では、”割引率の算出に高格付け社債の利回りを使っている。タワーズワトソンの大海太郎社長によると「割引率は低下しているが、マイナスにまでいたった例はない」という。”と記されています。
では、なぜ日本で今回のような「マイナス金利下の割引率」が話題になっているのかといいますと、
そう、すでに残存期間3年程度のファーストリテイリングの社債利回りなどがマイナスとなっているからなんです。
日本の企業会計基準委員会(ASBJ)による「企業会計基準第26号 退職給付に関する会計基準」には以下のような記載があります。
(割引率)
20. 退職給付債務の計算における割引率は、安全性の高い債券の利回りを基礎として決定する(注6)。
(注6)割引率の基礎とする安全性の高い債券の利回りとは、期末における国債、政府機関債及び優良社債の利回りをいう。
ここでの「国債、政府機関債」はもとより、期末における「優良社債の利回り」においても、日銀の今後の追加的な政策により、長めの残存期間のものでもマイナスとなる可能性が高まっています。
それが実現した場合、この会計基準によれば、「割引率」はついにマイナスとなってしまうのでしょうか。
そんな中で、この会計基準の決定にあたり、マイナス金利の世界の到来は十分に考慮されていないのではないかというポイントが、今回の「マイナスの割引率」問題が混乱に至っている理由です。
その混乱について、先ほどの日経記事に戻ると、
ASBJは割引率の計算にマイナス金利の適用を認めるか、そこまで踏み込まずゼロにとどめるのか議論するもよう。3月中旬には結論を出すとみられる。
「ゼロにとどめる」、という論点が出てきています。
たしかにマイナス金利下では、たとえば以下のような行動になるかもしれません。
(B’)1日に-1%の金利がつく世界
この世界で、明日100万円を返さなければならないあなたは、返済日を控えた今、いくら口座に用意しておきたいでしょうか。
明日には100万円を用意しなければなりませんが、残念なことにこの世界は「1日に-1%の金利がつく世界」です。
…。
なので、どこにも預けずに現金で返済予定額を確保しておくことにしました。
ということで、キャッシュに利息はつきませんので、100万円ちょうどを用意しておくことが必要です。
というわけでここに来るまで、皆さんもモヤモヤされていたと思いますが、「マイナス金利なら割引率ゼロで」理論がこうして正当化され得ます。
退職給付債務の算定にあたっては、金利に代表されて紹介されてきたような「時間の価値」を考慮する必要がありますが、「マイナス金利の世界」が来たからといって、その世界の「時間の価値」はマイナスなのか。
おそらくそんなことはないはずですが、現実にそうした世界が迫り来るにあたって、ASBJの議論に関係者の注目が集まっています。
ここまで読んだ皆さんが、割引率がプラスであるか、マイナスであるか、どちらの方が(とりあえず短期的にみて)企業にとって有利と思えるか、検討できるようになっていただけていれば、筆者としては幸いです。
<ご参考>
第1回:退職給付会計とは|わかりやすい解説シリーズ「退職給付」(平成10年会計基準)|新日本有限責任監査法人
*1:0:00でも、23:59に借りても、利息の計算に用いられる期間は同じということにしましょう。