姓が異なる母親に育てられた私が、家族について思うこと
「家族で同じ姓を共有しないことは、家族のつながりを希薄にさせ、孤独感を強め、絆をズタズタにする」
――と、いうことのようです。なんだか、お偉い先生達のお言葉によると。
九歳の頃に両親が離婚して以来、私は経済的にはあまり裕福、どころか人並みとも言い難い母子家庭で育ったのですが、両親のあいだにちょっと複雑な事情が色々重なったこともあり、その結果として子供達は全員父の姓を名乗ったまま母だけが旧姓に戻ったため、母子家庭でありながら親と子で姓が異なるという環境でした。
当然、こういったことは様々な場面で指摘を受けたり、理由を尋ねられたりするのですが、特に学校関係において教師などから説明を求められることが多く、こうなるとわかっていたとはいえ母も私もどう話したらいいものかと考えながら、色々と適当な理由を述べてみたりしたものです。
デリケートな時期などはそういった「周囲と異なる自分達の環境」に対し、それも姓という家族で共有するようなものだったりすると、きっと何かしらのネガティブな感情を抱いたり、後ろ向きな考えを巡らせたりすることもあるのかもしれませんが、私は昔からいささか感性の鈍い人間だったためか、母と姓が異なるということを嫌だともおかしいだとも、ましてやそれが家族の関係性に何かしらの影響を及ぼしているなどとは考えたことはただの一度だってありませんでした。姓は違っていても母は子供達のために朝も夜もなく働いていて、子供達は母の負担を減らすため家事に勤しみ、記念日にはみんなで普段よりちょっといいものを食べたりします。
一度だけ、母から子供達に対し「もしもどうしてもと言うんであったら、お前たち全員、これからお母さんの姓を名乗ってもいいよ」と口にしたことがあり、それは名前というものと付き合っていくうえで子供達の自主性を重んじた発言だったのか、子供達と自分の姓が異なることに寂しさを感じたゆえの言葉だったのか、そのときの母の胸のうちを図ることはできないのですが、当時の私は「今さら姓を変えて対応していくのはめんどくさいな……」くらいのノリで父の姓を使い続けることにして、そして現在。姓の異なる母親に育てられた子供達は家族関係が著しく壊れることも誰ひとりとてグレることも人の道を踏み外すこともなく、大人になってそこそこ社会に適応して生きることができています。
この間、数年ぶりに兄と二人で食事をしたとき、姓の話になりました。もう今さら、姓を変えてどうこうしたいという思いはお互いになく、「万が一、俺が姓を変えたら、お前は俺のこと嫌いになるか? 家族の縁を切りたいとか思うか?」と尋ねる兄に対し、私が「名札を変えてどうにかできるほど、家族っていうものが簡単なものだったら、誰も苦労はしてないんだよね」と返すと、兄は「確かに」と言って小さく笑いました。
家族というものは、簡単じゃない
家族というものは、簡単じゃない……私の家族も、一切の衝突も疑心暗鬼もなく何もかもが順風満帆で、波風ひとつ立てずに「家族」が成立してきたわけではありません。人並みのすれ違いもあり、人並み以上の事件もあり、人並み以下のささいなことで揉めることもあり、そもそも人並みの基準とは一体何なのか、未だに答えが見えてなかったりすることもあります。そんなことがあっても、「こんなことが起きたのは姓が違うから」なんて素っ頓狂な因果の結びつけ方をしたことはありません。
逆に同じ姓を持っていても、憎しみを抱きあう家族もあれば、離れたくて仕方ないのに、家族とは必ずや愛さなくてはならない、繋がりを保ち続けなくてはならないものだという言説に脅かされ、姓というもので自分を縛り続けている家族もあって……それらの悲しい環境を招く問題の根が姓というラベル程度で解決しているのであれば、世界は今より少しだけ平和になっています。相手の距離が近ければ近いほど、愛しあうことも憎しみ合うことも、姓に結びつけて容易くカタをつけられる話ではないのは、人間同士なのですから当然のことです。
現在、私の家族は皆、それぞれに違う土地で各々の暮らしを生きています。それでも、幼い時分より病弱な私が体調を崩しやすい季節の変わり目や、私の住む土地に雪が降った日などには、母から身体を気遣うメールが届いたり、それぞれの誕生日や正月などには、メールや電話でお祝いの言葉を交わしたりしています。それらが特別なことだとか、それくらいしなくちゃ家族じゃないなど誰かや何かに囃し立てられるように行っていることだとは、おそらく家族の誰も思っていないでしょう。
私が家族と呼ぶ存在に与えられるもの、与えていきたいもの
紆余曲折があっても私が今、家族を愛していられるのは、各々の努力も手伝ったからというのも充分にありますが、巡り合わせがよかった、というのも相当大きいのかもしれません。愛せる家族、愛してくれる家族を手に入れられた運のよさというものは、「姓が同じ」程度じゃ招くことができません。「姓が同じじゃない子供は愛したくない!」という親がいたとして、子供が愛されなかった理由を「姓が異なることが諸悪の根源」だと唱える人がいるならば、インチキ占い師にでもなったほうがいいかもしれません。それは姓ではなく、親が悪いからです。
以前、ツイッターで「私と母は姓が違うけれど、ただそれだけの理由によって私の母の愛情が足りてなかったと唱える者がいたら、私は母の愛を侮辱された息子としてそれを許さない」といった意味合いのツイートをしたら、見知らぬ人から「そうやって怒ること自体、姓が異なると愛が足りなくなる証拠なのだ」という返事が飛んできたことがあります。逆に言うと、愛する親をどれだけ侮辱されても怒らない子供というのが、「姓を同じくすることによって与えられるらしい、親からの満たされた愛を受けた結果」なのだそうです。なるほど、ってそんなわけあるかーい。
私はまだ独り身なのですが、それでもいつかは誰かを自分の姓にするのかもしれないし、自分が誰かの姓になるのかもしれないし、私もその誰かも相手の姓にならないかもしれないし、そんなことは誰にもわかりません。巡り合わせが呼んだ結果に、不服がなければ受け入れるだけなのかもしれません。
ですが、どの結果が私を待ち受けていたとしても、私が家族と呼ぶ存在に与えられるもの、与えていきたいものは、それが良いものであっても悪いものであっても、名札やラベルなんかよりはるかに強い意味が備わっているものなのだと、私は断言するでしょう。それが、姓の異なる母に育てられて、私が育んだ家族観です。
著者プロフィール
星井七億
会社員兼ブロガー。小説ブログ『ナナオクプリーズ』で「桃太郎」や「走れメロス」などを面白おかしくいじった記事を書き続け、ちょっとだけ話題になる。
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