「奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~。「特殊婦人・二日市保養所」とは 後半 【NNNドキュメント'16】
日本が35年間植民地として支配した朝鮮半島に、小林さん一家は暮らしていました。
性暴力の被害を何度も目にした小林さんの記憶は自分達が被害者であるという事に留まりません。
「
朝鮮の方っていうのは植民地になった為、日本人は第一等皇民って言ったんですよね、ほいで朝鮮の人は第二皇民であると。であとの国民は第三等皇民って言ってね、もう虫けらみたいな扱いだったんですよね。」
多くの差別がありました。配給制度では一等皇民の日本人には米が、二等皇民の朝鮮人には米と雑穀のコーリャンが半々、三等とされた満州人などにはコーリャンだけだったと言います。
日本語を教育するなど現地の人々を日本人化する為に皇民化政策も進められました。そして敗戦。支配する側に立っていた小林さんは、
「棒で叩くんですよ、日本人ちゅうのが分かったら。ちょっと恥ずかしいですけどね、頭叩かれて、、(陥没した所を触らせる)随分叩かれたんですよ、日本人の為に僕らこんな苦労しているこんな貧乏せないけんちゅう事で、殺されるんじゃないかと思うほどね、殴られるんですよ。」
頭の形が変わるほど顔中に傷跡が残るほど、現地の子供から度重なる暴力を受けました。しかしそこで初めて日本がしてきた支配とはどういう事なのか、子供心に考えたのでした。
「それはね、僕らが悪い事したんだなってそういう理解ができたんですよ、殴られて初めて。叩かれて初めて。」
国内最大の引き上げ港、博多。ここにも139万人が上陸しました。
博多港では多くの特殊婦人達が本土上陸を目の前にして命を絶ちました。
金谷美沙子氏「あの、若い女性の方たちがね、海に飛び込んだって話をね、やっとこさ故郷に帰った。でも自分が望んでいない子が宿ってる、、」
望まれなかった小さな命。その命も程なくこの世の中から消えて行きました。
博多から20キロ程離れた二日市では毎年水子供養祭が行われます。法的には許されていない堕胎・中絶が極秘に行われていたのです。
二日市保養所
人道的立場から女性達を救う為、終戦の翌年、引き揚げ援護をする医師や関係者によって自発的につくられました。
堕胎は違法行為でしたが、国も黙認し協力していました。手術にあたったのは2人の医師と10人の看護婦達です。
報告書によると望まぬ子を宿した妊娠に不法妊娠とし、堕胎は妊娠後期の8か月や9ヶ月になっても行われていました。
手術に立ち会った看護婦の1人に話を聞く事が出来ました。
青坂寿子さん(90歳)。人助けが信条で72歳まで看護婦を続けました。二日市保養所の堕胎の仕事は本当は断りたかったという青坂さん。これまで多くを語りませんでしたが、90を過ぎた今、これ私の役目と重い口を開いてくれました。
「私達は仕事だからあれだけど、やっぱり引き揚げた人達は強姦されてね、辛い思いして帰ってきた人が、やっぱり故郷にも帰られんで海に飛び込んで死んだ人もおるんですよ。
だけども上陸してね、療養所に運ばれてきた人にね、1日も早く体をきれいにしてね、故郷に帰してあげたい。やっぱり身奇麗になった人達はね、もう喜んでね・・・病院から振り向かずに帰って行ったんですよ。お産もね、臨月に足らない人堕すんだからやっぱり大変だったです。当時は道具もあまりないしね。」
麻酔なしの手術にみな声も出さず耐えていた。
赤ん坊の泣き声を聞くと母性本能が目覚めるので、声を聞かせないよう幼い命を始末したが、バケツの中で息を吹き返し、泣き声を上げることもあった。
堕胎の様子をこう証言したのは看護婦の村石正子さんです。
この隠された事実を語り継ぐ活動を続けてきましたが、去年春に亡くなりました。また1人語れる人がいなくなりました。
二日市の水子供養祭に、毎年欠かさず参列する女性がいます、山本千恵子さん(78歳)。
山本さんが暮らしていたのは北朝鮮北部の町・羅南。
敗戦が色濃くなると本土へ向けて母親は子供4人を連れて引き揚げ始めました。
しかしソ連兵に捕らえられ引き揚げは途中で断念。ソ連軍の監視下にある収容所での生活が始まりました。その収容所でも・・
「マダムダワイって言って入ってくるんですよ、、犯されないように用意をしているんですけど収容所の中にバッと冷たい空気が走ってお姉ちゃん達は奥に走るし、みんなで知らないふりをして庇いながら奥に行って奥の畳を一枚はいでお姉ちゃん達は床下に隠れるわけです。」
収容所の生活は性暴力のみならず飢えや病気寒さとの戦いでもありました。
山本さんの母・ふみさんは当時身重でした。その上、収容所の環境は劣悪で疫病が流行り始めます。何よりも食糧不足が深刻でした。
当時8歳の山本さんはソ連兵の宿舎に潜り込み、ごみ箱からじゃが芋の皮を拾い集め、下水溝から流れ落ちる米粒を拾いなんとか飢えを凌いだのでした。
最初に2歳の弟が亡くなりました。更に母親が死産。その母も3日後に亡くなり子供3人だけが残されたのでした。
「雪の舞う中を、山の、それこそ死者の為に掘られた穴の中に母を葬りに行きました。もうその時はね、涙なんか出ません。当時は本当に極限状態で、弟の時は泣いたんだけど、母の時は泣かなかったなぁと思い出しますねぇ。」
「その頃ってのは内地に辿り着くまではもうあの当時で2歳以下、それから65過ぎ・・ってのは皆死んだよ。食べ物も、病気になっても薬もないしね」
母親が性暴力の被害にあった枌谷さん。敗戦翌年の夏、もう二度目の冬は越せないと一家は町を脱出しました。道端の草や泥鮒を食べ逃げるように大陸を彷徨いました。
数ヵ月後、満州の首都・新京へ。遂に母親が動けなくなってしまったのです。子供達を守る為にソ連兵の言いなりになるしかなかった母。引き揚げる間も少ない食料を5人の子供に分け与え自分は衰弱していきました。
「お袋は着物をたくさん持って逃げたから、それを中国人に物々交換、食料と衣類と・・新京で生き延びたんですよね、でもその時にはお袋は・・新京で栄養失調でなくなったんですよ。・・当時39歳」
枌谷さんは幼い頃の自分を抱いた母の写真を二つに折り畳み、靴底に隠して持ち帰りました。今も母の夢を見ます。しかし元気だった頃ではなく亡くなる直前の姿なのです。
「初めは骨と皮に痩せる・・そしたら次は太るんじゃなくて腹水が溜まるんです。・・・体験っていうのは酷いもんですね。根性まで変えてしまう。だから忘れる為に極力明るく明るく振舞ってきた・・・」.
小林さんは家族に手記を読ませた後、直接自分の口からもう一度伝えました。これでいつの日かこのひ孫にも伝わるだろうと、胸をなでおろしています。
北朝鮮で母親を亡くした山本さん。戦時中母は敵国語である英語を勉強していました。戦争が終わったら世界中を飛び回る事が亡き母の夢でした。
山本さんも同じように英語を学び中学校の英語教師を35年間勤め上げました。いま朝鮮語を勉強しています。いつの日か母が眠る北朝鮮の地に手をあわせに行きたいのです。
「母が色んな夢を持っていたのを分かって来る度に辛い思いをして、どんなにか無念だっただろうと。母だけじゃなくて戦争で亡くなられた方みんながね、本当に夢を断たれどんなにか無念な思い出なくなられただろうと思うと、もう堪らないですねぇ。」
「笑って生きよう」目の前で妻を連れて行かれた父親の教えです。引き揚げの後、父は貧しくも男手一つで枌谷さんを育て上げてくれました。残りの人生も笑って生きたいと枌谷さんは胸を張ります。
この先も語らない人、語らずに亡くなってくなっていく人、きっと大勢いることでしょう。戦争というものが生み出す奥底の悲しみ、その深さを私達はまだ知りません。
以上
このような悲劇は語り継がなければいけないと思います。
こういう悲劇の上に今の日本の平和があり、全ての先人に感謝しなければいけません。
関係者の高齢化が進んでいるので、こういう証言を元にして取材した番組は凄く良いと思いました。
で、少し 気になったのが小林茂さんの証言。やはり朝鮮半島の事情って、相当濃淡があると思いました。
というのも、6年ほど前、京城帝国大学(ソウル大学の前身)の医学生たちの証言をでは、京城帝国大学はそんな支配的な事は一切なかった様子だったので。
《衝撃の医学生戦争証言(京城帝国大学編) 前編 【NHK・戦争証言】 》2010年4月26日
・・当時、京城帝国大学は、
朝鮮半島から旧満州、中国へといたる東アジア地域の教育研究の一大拠点を目指していました。
医学部では、朝鮮半島や大陸の風土病について最先端の教育が行われ、
その附属病院は最新の医療設備が整えられていました。
.
(中略)
大村氏「それはもう日本人も朝鮮人も全然区別はないよ。
あのー、教授から見ればね、先生から見れば。
成績の悪いやつは朝鮮人であろうが日本人であろうが落ちとった(落第)からね。
だいたい、日本人の方が落ち取ったよ、たくさん。(笑)
優秀だから、エリートが入って入ってきとるから(笑)」
.
.
キム氏「当時、専門学校生は戦闘帽をかぶり、ゲートルを巻いていた。
しかし、私達の大学では(そのような格好を)しなかった。
戦闘服を着ず、戦闘帽もかぶらず、ゲートルも巻かずに通学していたので、
少し自由がありました。」(韓国語)
.
.
医学部を卒業し、戦後アメリカに移住したイ・クワンホウさんです。
イさんは卒業後に日本軍の軍医になる事を条件に大学の授業料が免除されていました。
イ氏「日本政府が授業料などを払ってくれたので、
私は家のお金を全く使わずに医学部を卒業しました。
(日本人学生に対して)特に良いとも悪いとも感じませんでした。
日本人学生は主にソウル出身でしたが、
日本本土から来た学生もいました。
彼らに問題を感じる事は無く、級友として接しました。
朝鮮人の学生同士のように親しくは付き合いませんでしたが、私の場合、他の人よりも多分、日本人に対して友好的でした。周囲がそれをどう感じたかはわかりません。」(英語)
村石氏「(最初にやって来た女性は)4、5人だったかね。
だからね、あの、それ見たら声が掛けられなかったの。
『お帰んなさい』とか何とかって、なんって言って声を掛けようかと思って、、」.
.
.
吉田氏「犯されて、連れ去られて、もうモノ言えない、、、涙も出ない、、
『何が起こったの、私?! 私、、、これ何?! これ私?!』っていう様な、、、
それぐらいあの、辛い思いして逃げてきたんだなと、、」
.
.
.
二日市保養所で治療を受けた引揚者の日本女性に強姦による妊娠をさせた相手の男性は
朝鮮人28人、ソ連人8人、中国人6人、アメリカ人3人、台湾人・フィリピン人各1人という記録があります。
この際、「衝撃の医学生戦争証言(京城帝国大学編)」も次に再掲します。
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>このような悲劇は語り継がなければいけないと思います。
去年70周年関連でたしか日テレだったと思いますが、満州から命カラガラ朝鮮に逃げた女性が、自身の体験を絵に描いて残そうとしているという話を放送してました。真っ暗闇の中、敵の目を逃れて川を渡ったと話す彼女に、怖くなかったですか?と記者が聞くと、「全然、勇気凛々だった」と答えたのが印象的でした。
メディアは「日本は悪い事をした」という前提に沿ったストーリーを語り過ぎです。NHKが去年夏、広島の特集で原爆投下直前、工場に向う市電を待ってた当時中学生だった男性の声を報じてました。市電が遅れ、待ちくたびれた友人が「アイスクリームを買ってくる」と列を離れ、直後の原爆で帰ってこなかったというもの。敗戦の夏、広島ではアイスクリームを売っていたという話に驚きました。むろん原爆を語るなとは言いませんが、アイスクリームがあったんですか?となぜ聞かないのか不思議です。
投稿: いつも読んでいます | 2016年2月24日 (水) 08時19分
●いつも読んでいます さん
>去年70周年関連でたしか日テレだったと思いますが、満州から命カラガラ朝鮮に逃げた女性が、自身の体験を絵に描いて残そうとしているという話を放送してました。真っ暗闇の中、敵の目を逃れて川を渡ったと話す彼女に、怖くなかったですか?と記者が聞くと、「全然、勇気凛々だった」と答えたのが印象的でした。
ほー、やはり昔の人は肝が据わってますね。
この番組でも、「水商売の女性を差し出した」と証言していますが、現実はそういうもんだと思います。
>メディアは「日本は悪い事をした」という前提に沿ったストーリーを語り過ぎです。NHKが去年夏、広島の特集で原爆投下直前、工場に向う市電を待ってた当時中学生だった男性の声を報じてました。市電が遅れ、待ちくたびれた友人が「アイスクリームを買ってくる」と列を離れ、直後の原爆で帰ってこなかったというもの。敗戦の夏、広島ではアイスクリームを売っていたという話に驚きました。むろん原爆を語るなとは言いませんが、アイスクリームがあったんですか?となぜ聞かないのか不思議です。
はい、現実はメディアの思う筋書きどおりじゃありません。
で、アイスクリームは結構前からあったようだけど、戦中にお店があったとは思えません。
しかも終戦直前なんて、みんな芋のつるとか食べてたのに??
疑問しか残りませんね。
投稿: さくらにゃん | 2016年2月24日 (水) 19時59分
先日、この番組の掲載をリクエストさせていただいた者です。
誰とも分からない者からの、突然の我儘なリクエストに応えていただき、感謝いたします。ありがとうございました。
一人でも多くの人に、この悲しく痛ましい出来事を、覚えておいて欲しいと思います。
投稿: がんばれ日本 | 2016年2月24日 (水) 23時09分
●がんばれ日本 さん
おはようございます。
>先日、この番組の掲載をリクエストさせていただいた者です。
誰とも分からない者からの、突然の我儘なリクエストに応えていただき、感謝いたします。ありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました。
教えていただかないと、うっかり見逃していたかも!
>一人でも多くの人に、この悲しく痛ましい出来事を、覚えておいて欲しいと思います。
はい、と同時に、特に若い人には、当時の朝鮮半島・満州で起こったことにもっと関心を持ち、
自分で掘り下げて調べてほしいと思います。
投稿: さくらにゃん | 2016年2月26日 (金) 07時35分
>で、少し 気になったのが小林茂さんの証言。やはり朝鮮半島の事情って、相当濃淡があると思いました。
今朝、CS日テレでこの番組を流してました。男性が「僕らが悪いことを。。。」と言ってるところから見たのですが、彼の発言直後に保養所のエピソードを持ってきたのは意図した編集なのかと疑ってしまいました。「悪いことをしたから当然の結果」とでも言いたいのかなと。考え過ぎでしょうか。
>この先も語らない人、語らずに亡くなってくなっていく人、きっと大勢いることでしょう。
母親がロシア人の慰み者にされた男性など、父親が存命中は到底話せなかったでしょうし、暴行された女性も絶対に話さない。ただ、戦後日本は、「日本は悪い事をした」と、語る機会を与えてこなかったと思います。「性奴隷」などと半島の嘘に大騒ぎするのに、敗戦国となった自国の女性はどうなったか思いを致すことはなかったですよね。
投稿: いつも読んでいます | 2016年2月28日 (日) 06時59分
● いつも読んでいます さん
>今朝、CS日テレでこの番組を流してました。男性が「僕らが悪いことを。。。」と言ってるところから見たのですが、彼の発言直後に保養所のエピソードを持ってきたのは意図した編集なのかと疑ってしまいました。「悪いことをしたから当然の結果」とでも言いたいのかなと。考え過ぎでしょうか。
当時の朝鮮の状況は様々で、現地の人からしたら私怨がらみの思いもあるでしょう。
それを全部「日本が悪い事をしたから・・」と思うのは、戦後の教育の結果でしょうかね。
>>この先も語らない人、語らずに亡くなってくなっていく人、きっと大勢いることでしょう。
>母親がロシア人の慰み者にされた男性など、父親が存命中は到底話せなかったでしょうし、暴行された女性も絶対に話さない。ただ、戦後日本は、「日本は悪い事をした」と、語る機会を与えてこなかったと思います。「性奴隷」などと半島の嘘に大騒ぎするのに、敗戦国となった自国の女性はどうなったか思いを致すことはなかったですよね。
はい、「日本国」として一番考えないといけないのは、「日本女性の被害」で、
ここまで、尊厳・人権無視の犯罪行為に蓋をしてきたのは本当に由々しきことです。
まぁ、慰安婦問題を見ても、「被害者ヅラ」してギャーギャー騒がないのが日本女性ではありますけどね。
戦後70年以上経ったので、この番組のように「事実」を少しずつ掘っていく事が大事だと思います。
投稿: さくらにゃん | 2016年2月29日 (月) 12時04分