ドイツ宗教改革前夜の民衆の信仰世界

十五世紀末から十六世紀初頭、宗教改革前夜のドイツ社会についてはそれほど明らかになっているわけではないらしい。何せ民衆のほとんどが文字を書くことができず、日記など資料となるものががほとんど残っていないせいだ。それでも活版印刷の普及によってそれ以前の時代よりは遥かに”まし”だという。当時の社会の信仰について宗教改革研究の第一人者スクリブナーは著書「ドイツ宗教改革」で既存の四つの説を比較検討しつつこのように描写している。

『もっとも基本的な信仰は、自然界がその維持と安寧を聖なる力に依存しているというものだった。キリスト教は、神が森羅万象を維持する唯一の超自然的存在であることを強く主張していた。しかし中世の人々は、超自然的力をふるうことができる多数の他の存在が活動していると考えていた。それは悪魔、天使のような霊と悪霊の双方、そして聖なる力を所有していると考えられた数多くの「神聖な」人物たちである。この最後のグループにはキリスト教的伝統の聖人だけではなく、民衆に受けのよい治療師、魔術師、「魔法に知識のある人」、地方的・伝説的な「聖なる人々」も含まれていた。これはすなわち秘蹟的な宗教観であって、そこでは聖なるものが物質世界において、そして物質世界を通じてはっきりと示される。聖なる存在は、共感を通じて他の人、場所、物にその力を伝えることができる。聖なる人物が現れる場所や聖なる人物が触れた物は、それ自体が聖なる存在になる。このことはとくに聖人の遺物や聖人の祀られた場所にあてはまる。』(注1)

キリスト教が浸透していた世界が堕落してこのようになったのではなく、そもそも民衆の信仰はキリスト教化されてすらいなかった。だが、一方でキリスト教信仰は素朴な信仰の根深いところに強い影響を与えてもいた。旧来の説はキリスト教浸透度の高低で価値判断されがちであったが、むしろ『異なる「宗教体験様式」をもった「宗教文化」』(注2)として捉えられている。

カトリック教会はこのような民衆信仰に対して、「キリスト教化」のために二つの方針でアプローチした。「教会だけが聖なる力を独占し、叙階した聖職者を通じてその力を行使するものと主張し」(注3)、民衆信仰のさまざまな聖人や聖遺物、祭儀は教会によって精査され、『教会が受け入れがたいと見なした聖なる力への接近手段は「迷信」あるいは魔術として糾弾』(注4)された。この主張に反対する者たちの取り締まりが行われ、社会から葬り去られていく。

その一方で魔術に変わり『「聖なる状態」あるいは救いが受けられる状態を保障する数多くの手段』(注5)としての秘蹟(サクラメント)を提供する。洗礼、堅信、婚姻、終油など人生の節目ごとに聖別を行うことで信者に聖なる力を与える。あわせて、これまで魔術がその役割をになっていた「嵐を鎮めるための天候祈祷、家畜や穀物、家屋や家庭の保護を嘆願する祈りといった厄払いや祈祷」(注6)など現世的利益に対応した役割の準秘蹟も提供する。ミサのたびに行われる聖餐は準秘蹟の代表的なものだった。

反対者や「迷信」の徹底した排斥と教会による聖性の管理の一方で、教会や聖職者は、その聖なる勤めに対し、法外な金銭を要求する。そして救われるのは聖職者と一部の金持ちのみ。民衆の不満は一気に高まっていった。

『教会は、神に確実に喜ばれると言われる生活、つまり修道院における「宗教的生活」を通じて確実な救いへの道を提供していたが、このことは、明らかに確実に救われる者とそうでない者という二つの階層に人々を分けてしまったように見えた。修道士たちの言動にはしばしば遺憾な点が多かったので、世俗の人々がこうした状況に強く不公平感を印象づけられていたのは驚くにあたらない。反聖職者主義は、修道士と在俗聖職者双方にある聖職者の偽善に対する俗人の怒りの気持ちを表していた。』(注7)

このような中で空前の聖遺物ブームが起こる。「聖遺物とは、イエス・キリストや聖母マリア、そして使徒や教父を含めた聖人など、キリスト教の成立と発展に功労があったひとびとに関する遺物」(注7)で、「所有していたり、拝んだりすると、死後の煉獄の苦しみを免れさせてくれる功徳」(注7)があると信じられていた。この最大のコレクターが後にルターの庇護者となるザクセン選帝侯である。一五〇七年の時点でザクセン公が所有していたのは五千五点、一五一八年には一万七千四百四十三点にのぼっていた。教会の祝日ともなるとこれらは一般公開され、救いを求める多くの人々が殺到したという。

そのザクセンコレクションのリストが残っている。

『イエスが生まれたときに着せられた産着の切れはしが一片、イエスが生まれたベツレヘムの厩に置かれていた飼い葉桶のわらが数本、イエスの誕生を祝ってやってきた東方の三博士たちが持参した金塊の一かけらと薬種が少し、イエスの髪の毛が数本とあごひげが一より、そして肌着と上着とベルトの切れはしがそれぞれ数片、最後の晩餐のときにイエスが食べ残したパンの一切れ、イエスが架けられた木製十字架の破片が三十五と手に打ち込まれた釘が一本、死後にかけられた血染めの顔覆いの切れはし七片、聖母マリアの髪の毛が四本と上着の切れはしが三片、そして少しの母乳、洗礼者ヨハネの衣服の切れはし、聖アウグスティヌスの歯が四本、聖ヒエロニムスの歯が一本など』(注8)

現代の我々から見るとおよそ乾いた笑いしか浮かばないリストだが、当時の人々は熱心にこれらを崇めており、そこに救いを求めていた。それは前述のような民衆信仰の管理と排除という背景がある。救いを求めているのに、それを十分に与えられない苦痛が存在していた点には想像力を働かせておく必要があるだろう。

贖宥状(免罪符)はこれを購入することで罪の償いを免除、軽減する文書である。これまでもたびたび教皇が発行してきたが、十六世紀初頭、ドイツを中心に大々的に発売された。

『免罪符は七聖礼典の告解に関係がある。告解は信者個人の発意によってなされる唯一の聖礼典である。告解には悔悛、告白、許し、刑罰の四段階の手続きがあるが、免罪とは元来この中の刑罰の免除であった。それが次第に拡大解釈されて、免罪符を買うことにより、買った人の刑罰が許されるばかりか、死者が煉獄で科されるべき刑罰も許されると説かれるに至った。』(注9)

だが当時ドイツで売られた贖宥状はさらなるサービスがついていた。

『とりわけ、当時ドイツで販売された贖宥状は、買った当人だけでなく、別のひと、それもすでに死んで、ちょうど今煉獄で苦しんでいるひとにも有効と定められていた。』(注10)

この贖宥状の発行には政治的背景が存在していた。教皇レオ十世が発行したこの贖宥状はカトリック教会の威光を知らしめるためのサン・ピエトロ大聖堂の大改築費用捻出を目的とする。それを進言したのがブランデンブルク選帝侯ヨアヒム一世の弟アルブレヒトである。マクデブルク大司教位とハルバーシュタット司教位をすでに持つアルブレヒトは選帝侯位であるマインツ大司教位を狙っており、その大司教位を獲得するために教皇にサンピエトロ大聖堂改築のための贖宥状発行を働きかけたものであった。アルブレヒトにこの方策を入れ智慧したのが当時神聖ローマ帝国に着々と影響力を確保しつつあった南ドイツの豪商フッガー財閥である。ハプスブルク家とはすでにカール五世が帝位に就くための工作資金を提供するなど懇意であったが、筆頭選帝侯たるマインツ大司教位に都合の良い人物をつけ、さらなる影響力拡大を狙ったものであった。(注11)(注12)

アルブレヒトの意を受けた説教師テッツェルによって売り歩かれたこの贖宥状は売れに売れたという。自身の免罪だけではない。亡くなった父母や家族が煉獄で苦しんでいるかもしれない。今は亡き家族に生前の恩返しをするためなら、多少の金銭を出しても贖宥状を購入したいというのは人情である。人の弱みに付け込んだこの商法によって確かに贖宥状は爆発的に売れ、サンピエトロ大聖堂の建設を大きく進ませたことで教皇を大いに満足させ、またアルブレヒトにマインツ大司教位をもたらしたが、一方でカトリック教会は多くの人々の怨嗟を買うことになった。

人々の間にしずかに広がる教会、教会と癒着する諸侯、目に見えて腐敗しているとしか思えない僧侶たちに対する不満と怒りの声は爆発寸前にまで高まっている・・・宗教改革前夜、「中世の終わりの始まり」がすぐ目の前に迫っていた。

そしてマルティン・ルターが登場し、燎原の火のごとく福音主義運動が広がっていくことになる。

『変化への焦燥感が運動の支配的雰囲気だった。運動が起きたところならどこでもほとんど、それは好戦的行動を生みだし、騒乱を発生させた。焦燥感は直接的行動の形態を通して表現された。新しい理念によって鼓舞された大多数の人々は、単に贖宥状を買うことをやめたり、死者のためのミサに資金を提供することを停止したり、古い宗教的な儀式に出席することをとりやめることでは満足しなかった。彼らは聖職者たちが古い行動をとりつづけることを断固としてやめさせるために行動しなくてはならないと決意した。これには多くの感情的要素があったかもしれない。それは明らかに教会と聖職者に対する積年の不満によって、また、過去に宗教に関して誤った方向へ導かれたことに対する怒りによってかきたてられていた。』(注13)

怒りが怒りを呼び、憎悪が対立を生み、すぐにドイツという領域を超えて人々のプロテストが飛び火する。一世紀以上の長きに渡る宗教戦争の時代が幕を開けた。それは全欧州を巻き込んだ数多の犠牲を伴う殺戮の時代であった。

(注1)R.W. スクリブナー、C.スコット ディクスン著「ドイツ宗教改革 (ヨーロッパ史入門)」P13
(注2) スクリブナーP12
(注3) スクリブナーP13
(注4) スクリブナーP14
(注5) スクリブナーP14
(注6) スクリブナーP15
(注7)永田 諒一著「宗教改革の真実 (講談社現代新書)」P76
(注8)永田P77-78
(注9)小田垣 雅也著「キリスト教の歴史 (講談社学術文庫)」P133
(注10)永田P75
(注11)贖宥状 – Wikipedia
(注12)成瀬 治著「近代ヨーロッパへの道 (講談社学術文庫)」P43,P65
(注13) スクリブナーP29-30

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