2002年、ナイル川の西に広がるエジプトの西方砂漠で8000年前の洞窟遺跡「ワディ・スーラ II(フォギーニ・メスティカウィ)」が発見されたとき、研究者たちはその壁を埋め尽くすたくさんの岩絵に驚かされた。野生動物や人間、頭のない奇妙な生きものなどが描かれていたことから、この場所は「獣の洞窟(Cave of the Beasts)」と呼ばれるようになったが、その他にも何百という数の人間の手形も見られた。サハラ砂漠では、これほど多くの手形が付いた岩絵が発見されたのは初めてだった。
さらに例外的だったのが、13個の小さな手形だ。「ワディ・スーラ II」が発見される前まで、幼い子供の手形や足形はオーストラリアの壁画には見られたものの、サハラ砂漠では1度も見つかっていなかった。中には、大人の大きな手形の内側に、“赤ん坊”の手形がすっぽりと収まっているという、非常に印象的なものもある。(参考記事:「人類はいつアートを発明したか」)
そして今、この岩絵はますます奇妙なことになっている。壁についた小さな手形は、人間のものではないことが判明したのだ。(参考記事:「ボルネオの巨大洞窟:謎の手形」)
「赤ん坊の手よりもはるかに小さく、指がやけに長い」
「ワディ・スーラ II」は、サハラ砂漠にある重要な岩絵遺跡のひとつだが、近くにある「ワディ・スーラ I」、別名「泳ぐ人の洞窟」のような人気の観光地というわけではない。「泳ぐ人の洞窟」は、1933年にハンガリーのラシロ・アルマシー伯爵が発見し、その後、映画『イングリッシュ・ペイシェント』をきっかけに広く知られるようになった。
英ケンブリッジ大学マクドナルド考古学研究所の人類学者エマニュエル・オノレ氏は、2006年に初めて「ワディ・スーラ II」を訪れたとき、その異様に小さな手形に「衝撃を受けた」と語る。「この手形は人間の赤ん坊の手よりもはるかに小さく、指がやけに長いのです」。(参考記事:「最古の洞窟壁画、考古学者に聞く」)
オノレ氏は、岩絵の手形のサイズと、人間の新生児(妊娠期間37〜41週)のそれとを比較してみようと思い立った。岩絵の手形は非常に小さいため、比較対象には早産児(妊娠期間26〜36週)の手形も加えられることになった。
そのためオノレ氏は、フランスの病院の新生児科と協力できる医療研究者のいるチームを新たに結成した。「私が病院に赴いて『岩絵の研究をしている者ですが、協力してもらえる赤ちゃんはいますか』と言ったなら、頭がおかしいと思われて警備員を呼ばれてしまうでしょう」と彼女は笑う。
先日、学術誌「Journal of Archaeological Science」4月号で発表されたばかりの分析結果によると、「獣の洞窟」の“赤ん坊”の手が人間のものである確率は極めて低いという。
誰がなんのために動物の足形を?
手形が人間のものでないとすれば、いったい誰のものなのだろうか。小さな手とその指の形がひとつひとつ異なることから、調査チームは手形のもとは木や粘土のように動かない版ではなく、関節で曲がる手でつけられたものと結論づけた。
オノレ氏は当初サルの手形ではないかと考えたが、こちらも形状が合わないことが判明した。そのとき、パリの自然史博物館で働く同僚から、爬虫類の可能性を検討してみることを勧められたという。
これまでのところ、“赤ん坊”の手に最も近い形状をしているのは、サバクオオトカゲの前肢と、若いワニの足だ(ワニについては今も調査を続行中)。サバクオオトカゲは現在も一帯に生息しており、地元の遊牧民からは守護をもたらす存在と考えられている。(参考記事:「人類最古の聖地 ギョベックリ・テペ遺跡」)
「ワディ・スーラ II」の小さな手形が人間のものですらないと判明したことは、サハラの岩絵の研究者たちにとって大きな驚きだった。「動物の足形をつけるという習慣は、主にオーストラリアや南米のものだと認識されています」とオノレ氏は言う。
「ワディ・スーラ II」の動物の足形は、人間の手形の輪郭の内側につけられているものの他、帯状の装飾模様にも、同じく人間の手形と一緒にあしらわれている。足形はすべてほぼ同じ時期に、同じ顔料を使ってつけられている。しかし、岩絵の作者が生きた動物の足を岩窟の壁に押し付けて形をとったのか、それとも便利さと安全性を優先させて、動物から切り落とした足を使ったのかは判別できない。
オノレ氏は、動物の足形の意味についてはあまり深く追求しないつもりだという。「人間はすでに自然から離れた存在だという現代的な概念を我々は持っています。しかし、この膨大な数の岩絵からは、人間は大きな自然の中の一部に過ぎないという思想が感じられます。我々は当時とはまったく違う文化を持っていますから、その意味を解釈するのは容易ではありません」
フランスの病院で調査に協力した赤ん坊の親たちは今、岩絵について判明した驚きの事実について読むのを心待ちにしている。オノレ氏によると、「彼らは自分たちの子供がこういった形で科学に貢献できることに、たいそう乗り気になってくれた」そうだ。