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シロクマの屑籠

はてなダイアリーから引っ越してきた、はてな村の精神科医のブログです。

社会も、理想も、一代限りで食いつぶしてはいけない

本家アブストラクト

  


 
 
 
 あなたは、死後の世界についてどういう考えを持っているだろうか?
 
 これは、「死後の魂はどうなるのか」的なクエスチョンではない。「自分自身が死んだ後の、これまで生きていた世界(=この世)に対してどのような考えを持っているのか」についての問いである。
 
 この問いには、大きく分けて二つの答え方があると思う。
 
 ひとつは、1.「私が死んでも、家族や知人も含めて、世界は続いていく」という考え方。もう一つは2.「私が死ねば、それで世界は終わったも同然だ」「自分が死んだ後の世界のことを考える必要は無い」という考え方だ。
 
 「私が死んでも、家族や知人も含めて、世界は続いていく」と考える人は、自分自身の代だけでなく、子々孫々がどうにか暮らしていけることを望み、そのことを考慮する。自分自身の代でどれだけ幸福でも、残される世代が塗炭の苦しみを味わうような選択はなるべく望むまい。
 
 だが「私が死ねば、それで世界は終わったも同然だ」と考える人にとって、自分の死後の世界に思いを馳せる意味は無い。自分が生きている間だけが考慮に値する。今、そういう風に考える人々が増えているとすれば、そのような人々は自分が生きている間が最高の状態になるように行動するだろうし、そのためなら、死後の世界が荒廃しようが、死後も生き続けなければならない人が苦労しようが、いっこうに構わないだろう。
 
 現代社会は、個人主義を良しとしているので、みんなが1.に基づいて生きるのか、2.に基づいて生きるのかは基本的に自由である。だが、この二つの考え方のどちらに基づいて生きているのかによって、社会の方向性や世論は大きく違ってくるし、たぶん、個人主義という体裁の内実は天と地ほどにも違ってくるだろう。
 
 そして、現代社会においては、「私が死ねば、それで世界は終わったも同然だ。後は知らん」という人が増えているのではないだろうか。
 
 社会の大勢が「個人としての私の死」をもって世界の終わりとみなす価値観で生きるようになれば、死後に残される人間のこと、自分より長く生きる人間のことを考える人は少なくならざるを得ない。自分が生きている間のことだけが論議の対象となり、考慮される。そのような価値観が少数派だった頃は、そういう人間がいるということ自体は、単なる個人の自由の問題として片づけて構わなかったかもしれず、そういうライフスタイルを是としたからといって、どうこうなるものでもなかった。だが、そのような価値観が多数派と言って良い状況になってくると、その社会は現在ばかり見つめるようになり、未来を蔑ろにするようにならざるを得ない。
 
 端的に言って、「自分が生きている間のことしか考えない人間ばかりで構成された社会」は続かない。まして、そのように考える年長者が多数派となり、世論や民意に刹那的な価値観を反映させ続ける社会は、必然的に「私達の命が終われば、それで世界は終わったも同然」とみなす方向へと流されざるを得ない。人類が世代をまたいで社会を受け継いできたという基本に立ち返って考えるなら、これは、社会という名の蛸が自分の足を食っているも同然である。
 
 従来の社会では、イエや血縁や地縁に伴う世代と世代の連なりによって「私が死んでも、家族や知人も含めて、世界は続いていく」という価値観が半強制的にインストールされていた。それは、政治的正しさの観点からすればやっつけて然るべき状況だった。
 
 だが、個人がイエや血縁や地縁のしがらみから自由になり、と同時に、世代と世代の連なりが“義務”から“個人の選択”になるにつれて、「私が死んでも、家族や知人も含めて、世界は続いていく」という価値観を持つかどうかも“個人の選択”次第になってしまった。
 
 「価値観は多様で構わない」と人は言う。
 それはそうだ。
 
 だが、多様な価値観というお題目に基づいて皆が自由な生活を追求し、そればかり考えてきた結果、大多数が後発世代の都合を考えず、自分が生きている間のことしか意識しなくなった社会は、ほんとうに立派な社会と言えるのだろうか? また、かりに立派な社会だとして、その立派さは子々孫々の世代にまで受け継がれ得るものだろうか?
 
 この文章を書いている最中に、やまもといちろうさんが、以下のような文章をブログに投稿していた。
 
 やまもといちろう 公式ブログ - 保守は「こづかいないんだから我慢しろ」と言い、左翼は「こづかいがないのはおかしい」と言う - Powered by LINE
 
 社会保守派が現実的で、左派が理想的と言わんばかりの論調は、なんだかよくわからないし、「こづかい」という比喩がどこまで適切だったかは、ツッコミどころの残る文章ではある*1
 
 だが、ともあれ、「医療かくあるべき」「地方行政かくあるべき」「インフラかくあるべき」というシュプレヒコールをあげて運動する人は党派を問わずたくさんいる。だが、そうした沢山の「かくあるべき」、特に年長者が叫び続けている「かくあるべき」を聞いていて、私は白けてしまうことも多い。
 
 “あなた達の「かくあるべき」って、あなた達が死ぬまでの「かくあるべき」で、私達が受け継ぐ社会の「かくあるべき」じゃないんじゃないですか?
 
 「医療サービスは今までどおりであるべきだ。」「水道や電気といったインフラは今までどおりであるべきだ。」「民家がポツリポツリと残っているような過疎地の生活は死守されるべきだ。」――そういった「かくあるべき」を、私はそこらじゅうで耳にしてきた。せいぜい現実維持の話じゃないか、と言う人もいるかもしれないが、経済的斜陽に直面し、少子高齢化が進む日本社会においては、現実維持自体が既に理想論である。
 
 いや、理想論を語ること自体は悪いことではない。理想に向かって邁進するのも大切なことだ。
 
 今、この世代の理想だけを考えるなら、医療サービスも、生活インフラも、無限のコストを賭けて守るのが「かくあるべき」に沿った理想の選択だろう。だが、その理想は、一体誰にとっての理想で、どれぐらいで消えてしまう理想だろうか?
 
 ある時代・ある世代にとっての「かくあるべき」を徹底的に推し進めた結果、次の時代・次の世代の「かくあるべき」が徹底的に阻害されるような事態は往々にしてあり得る。たとえば、少子高齢化と過疎化が進むなかで現在の医療サービスや生活インフラを維持しようとすれば、財政的にもマンパワー的にも破局は免れない。結果、今の世代にとっての「かくあるべし」は守られるかもしれないが、数十年先の世代は先行世代を呪いながら生きていくことになるだろう。
 
 極論を言えば、医療サービスも生活インフラも、1960年代ぐらいの水準まで逆行しても誰も困らないし悲しまないなら、それを国民が選択するのもいいのかもしれない。だが、ここには思考の落とし穴があって、数十年先の医療サービスや生活インフラの水準を選択するのは、数十年先の日本国民ではなく、むしろ現在の私達の振る舞いようである、という点だ。私達が目先の「かくあるべし」にリソースをジャンジャカ費やし、未来の「かくあるべし」を放っておくほど、数十年先の日本国民の選択の余地は狭くなり、その頃に語られる「かくあるべし」はしょっぱいものにならざるを得ないだろう。
 
 現実問題としては、「現行世代の受益を100%にすべし」という主張は、「そのためなら後発世代が受け取ってしかるべき受益をどれだけ損なっても構わないのか?」という問いに答えられるものでなければならないと思う。もし、現行世代の理想や生活のために後発世代の理想や生活が犠牲になってしまう可能性を考慮していないなら見識が足りないと言わざるを得ない。そうした可能性を知っているにもかかわらず現行世代の理想や生活のことばかり主張するのは良識が足りないと言わざるを得ない。なんにしても、ロクなもんじゃない。
 
 だから私は、「私(達)が死ねば、世界の終わりとイコールだから、後は知らん」という考え方が透けてみえる「かくあるべし」や理想論には嫌悪を感じる。あんたら、見識か良識、あるいは両方が足りてないんじゃないか、と問いたくなる。
 
 社会は私達の世代だけのものではない。理想も、「かくあるべし」もそうである。どれも、一代限りで食いつぶして構わないものではない。
 

*1:ただ、地方の財政や道路は中央からの補助金のたぐいで成立しているところが多々あるので、ある面では、「こづかい」という比喩がしっくり来る部分もある。