北区滝野川にある、近藤勇墓所を訪問してきました。
近藤勇といえば新撰組の局長であり、新撰組といえば日本国民で知らないものはいないと思われるほどの幕末の超有名剣客団体です。
そんな有名な人の墓が北区にあったとは今まで知りませんでしたが、よく考えるとここは住所的には滝野川ですが板橋駅東口から徒歩一分の位置にあり、ほぼ板橋領といえるでしょう。
板橋駅直近なのに滝野川とは何故? と思いますが、板橋駅自体が板橋区と北区、豊島区にまたがる駅です。
近藤勇墓所とされていますが、新撰組局長の近藤勇がここに葬られているわけではありません。
この場所は流山で捕縛され斬首された近藤勇が最期を迎えた板橋刑場の近くであり、その縁で近藤勇と戊辰戦争で殉死した新撰組隊士の供養塔が建てられた寿福寺の境外墓地です。
近藤勇と新撰組隊士の供養塔は、歴史的に価値あるものとして北区の指定文化財となっています。
墓所内にある永倉新八の墓。
この近藤勇墓所は明治9年、新撰組一の剣豪だったともいわれる永倉新八が発起人となって、幕末の動乱の中で散った近藤勇・土方歳三を始めとする新撰組隊士の供養のために建立されました。
永倉新八は鳥羽伏見の戦い後、戦術的な意見のすれ違いから近藤以下新撰組と袂を分かつことになるが、戊辰戦争後は数少ない新撰組の生き残りとして隊の顕彰に努めたという。
斬首された近藤勇の胴体が埋葬された際に置かれたという埋葬当初の墓石。
処刑後、近藤勇の首級は京都三条河原で晒されているが、胴体はここ滝野川の無縁塚に葬られたという。
しかし首、胴体ともにその後は行方がわからなくなっており、京都や愛知、三鷹市など各地に近藤勇の墓所が存在する。
箱根で見た多田満仲の墓もそうでしたが、歴史上一人しかいないはずの人物の墓があちこちにあるのはよくあることですね。
近藤勇埋葬当初の墓石と近藤勇像の中間に、灯籠が置いてありました。
像に隠れるようにして設置されてあるため見落としがちですが、よく見ると中には照明でなくノートがぎっしりと詰まっていました。
はて、これはなんでしょうか。
開くのかなこれ………
おそるおそる小窓に手をかけてみると、鍵もかかっておらず普通に開きました。
中には大量のノートと、鉛筆などの文房具。
入りきらなかったのか、並んだノートの上に積んであるノートの一冊を出してみます。
むむ、これは……新撰組板橋帳?
ページをペラペラめくってみると、どうも新撰組ファンの交流ノートのようでした。
ネットでいうところの記念カキコみたいなもののようです。
岐阜県とか福島県とか北海道とか、色んな所から人が来て書いています。
各ノートに書かれた日付などから、結構昔から現在まで交流が続いているようでした。
このインターネットが発達した時代に、このようなノートが脈々と続いているとは、改めて新撰組のファンの多さ、力強さを目の当たりにした気がしました。
しかも「板橋帳」とか「ちょうふ新撰組フェスタ」とか表紙に書いてあるのを見るに、多分全国各地の新撰組史跡でこのようなノートが設置されているんでしょう。
新撰組ファンの組織力恐るべし!
そのファンを少し第二次世界大戦ファンにも分けてほしいくらいです。
しかし新撰組ファンも、時代の流れとともにその様相がかなり変わってきたと思います。
これは墓所にある新撰組幹部の肖像画。
右から近藤勇、土方歳三、永倉新八。
一番左のおっさんが永倉新八ですが…
これが現在の永倉新八です。
若くてイケメンですな。
「俺は日本のサムライだぜ!」って。
本物のサムライがそんなことを言うか?
いったいどんな客層を狙っているんだこれは。
腐女子向けか。
これを見て、新撰組ファンも一枚岩でなく、きっと路線対立したり内ゲバ的な何かが発生したりするんだろうなあとしみじみ思いました。
妄想路線を現実に持ち出すのはいかがなものかと思ったりもしたが、第二次世界大戦も「艦これ」とかあったりして決して他人事ではない気もする。
近藤勇墓所では近藤の命日に当たる4月25日または直前の日曜日に墓前で供養祭が行われます。
また、地元商店街ではここに近藤の墓があることを活かし、毎年、滝野川新撰組祭りを開催しており、新撰組に扮した人たちによるパレードが行われるという。
パレードは滝野川銀座など、近隣の商店街を練り歩くそうです。
興味のある方はぜひどうぞ。
(訪問月2015年4月)
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