徘徊(はいかい)中に起きた認知症男性の列車事故の損害賠償責任を家族は負わない−。こんな最高裁の初判断が出た。安心して介護できる社会でありたい。
ひとごとでは済まない問題だ。認知症の人をどのレベルまで監視・監督せねばならないのか。事故などトラブルを起こした場合、どの程度の損害を家族が負担せねばならないのか−。さまざまなことを考えさせる裁判だった。
問題の事故が起きたのは二〇〇七年だった。愛知県大府市で九十一歳の男性が家を出て、徘徊の末に、駅で線路に下りて、列車にはねられ死亡してしまった。
◆一、二審の大きな衝撃
JR東海は計約七百二十万円の損害賠償を遺族に求めた。他社へ振り替えた運賃や事故に対応した職員の人件費、払戻金…、それらを積み重ねた金額だった。
一審の名古屋地裁は「注意義務を怠った」として、同額の支払いを男性の妻と長男に命じた。二審の名古屋高裁は妻に対してのみ、半額の約三百六十万円の賠償を命じた。妻は民法上の監督義務者であると断じたのだ。
長男は二十年以上も別居していて「監督義務者に当たらない」と判断された。JR側に対しても、駅での利用者への監視が不十分で、ホームのフェンスの扉が施錠されていれば、事故を防げた可能性を指摘していた。
「在宅介護は崩壊する」「認知症の高齢者は監禁しておけというのか」「家族に介護を押しつけている」−。確かに介護現場には大きな衝撃となった。
行動予測が難しい相手を、一瞬たりとも目を離さずに監視することなど、およそ不可能だからだ。尊厳のある人である限り、認知症であっても、できるだけ自由であることも要請される。
◆「監督義務者ではない」
今回の訴訟となったケースでは、夕刻、妻がまどろんで目を閉じているすきに、男性は外出してしまった。門扉に施錠したこともあったが、男性がいらだって門扉を激しく揺らし、危険であったから、施錠は中止していた。玄関ドアにはセンサーを設置してあったが、男性は別の出入り口から外へ出てしまった事情もある。
長男は横浜に住んでいて、その妻を認知症の父親の家の近所に転居させ、介護にあたってもいた。長男自身も月に三回程度、家に帰って介護していた。
一般的には十分に介護の努力が行われていたとみるべきだろう。最高裁は「夫婦の一方が法定の監督義務者であるとする根拠は見当たらない」と述べ、男性の妻の責任を退けた。
民法では夫婦の協力や扶助の義務を規定しているが、「相互に負う義務であって、第三者(この場合はJR)との関係で夫婦の一方に何らかの作為義務を課するものではない」とした。
「精神障害者の配偶者だからといって、『責任無能力者を監督する法定の義務を負う者』に当たらない」とも述べた。損害賠償を求めていたJR側は敗訴した。
監督義務者として配偶者の責任は免れないという一、二審の考え方を排した画期的判決である。もし配偶者というだけで常に重い責任を負わされるなら、追い詰められる結果になってしまう。
この初判断は広がりを持つことにもなる。認知症の高齢者が大きく増えるからだ。
厚生労働省の推計によれば、一二年時点で四百六十二万人だった認知症の高齢者数は、団塊の世代が七十五歳以上となる二五年には約七百万人にも膨れ上がる。六十五歳以上の五人に一人に当たる。
この推計は福岡県久山町の住民を対象にした長期間の追跡調査をベースに同省の研究班がまとめた。認知症患者の割合は糖尿病の有無で変動するとしており、最大で二五年は七百三十万人、四〇年は九百五十三万人、六〇年には高齢者の三人に一人に当たる千百五十四万人に達する可能性があるとも指摘している。
高齢者が高齢者を介護する「老老介護」は今や逃れられない現実となっている。
推計のような事態になれば、家族だけでは到底、十分な介護はできまい。特別養護老人ホームなどの施設介護にも限界がある。遠方に住む息子や娘に頼ることにもむろん限界があろう。
◆「自分の将来」の自覚を
新しい施策が必要だ。自治体などの取り組みや、地域社会の役割にも期待する。認知症患者を地域で見守るのは、必然的な現代社会の流れでもある。
高齢者の五人に一人が認知症という未来図を前に、社会全体が自分の将来なのだという自覚を持つべきである。そんな時代にもう足を踏み入れている。
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