ぼくは反省させることはもはや悪だとおもってます。
人間は誰でも失敗を侵す。失敗することが前提で考えること。
ぼくは29年の人生の中で何度も失敗を侵しました。
自分の存在を消したくなるくらいの大きな失敗も、道端の小石のような些細な失敗も。
みなさんも何度もいろんな失敗を繰り返しているとおもいます。
人間はロボットのように精巧には作られていません。
むしろ、失敗を侵し、それが人間らしさだったりするのです。
そして、人間は過ちを侵しながらも、その経験を糧にして成長していくモノです。
子供は自転車を乗れるようになるために何度も転びます。
何度も転んで、擦り傷をつくりながらも起き上がる。その練習を繰り返すことでようやく自転車に乗れるようになります。
もし一回、一回転んだ時に、親がその子を反省させていたとしたら、自転車が乗れるようになるのは明らかな遠回りです。
もしかすると、途中で叱られるのが嫌になり、投げ出してしまうかもしれません。
失敗しても反省させることをせずに、本人が「自分の意志」で練習するからこそ上達は早まるのです。
このように自転車で例えると反省させることはよくないことがわかりやすいのですが、社会ではなぜか事あるごとに人を反省させようとする人がいます。
それは自分よがりの誤った考えです。
まず、人は失敗をすることが前提ということを踏まえていかねばなりません。
反省させることはなぜいけないのか?
反省させることは、人間の成長を妨げる行為です。
それでは反省させることはどうしていけないのでしょうか?
結論を書くと、反省させることは他者からの『抑圧』だからです。
人間は失敗を侵した時に誰もが『やってしまった』と気づいています。
その時に「今度から気を付けようね」と指摘することに問題ありません。
しかし、「何でそんな失敗を侵してしまったんだ?」と原因追求からはじまり、「自分がどんな失敗を侵してしまったのか」と執拗に迫り、他人から罪を自覚させようとすることがいけないのです。
特に、反省文を書かせるという行為は愚の骨頂です。
反省文を書かせたとしても「今回、私の誤った行いによって皆さんに大変なご迷惑をおかけしました。....」といった形式的な文章を書いて終わるがオチです。
これは周囲の納得は得られても、当の本人は全く反省していませんし、失敗から学ぶ機会を失っています。
また、失敗がトラウマとなり、今後恥をかくことを恐れて自分を小さな枠に閉じこめてしまいます。
このように反省させることは根本的な問題解決には何ら結びついておらず、ただ世間の見る目を気にする抑圧された感情を人に植えつける効果しかないのです。
これでは、いつまでたっても人は成長しません。
失敗しても反省させずに「許す」。ぼくは失敗できる人を賞賛します。
ぼくは人が失敗しても、反省させません。
反省させずにむしろ、「気にせずに仕事に取り組んでほしい」という旨を伝えます。
人は他人から執拗に原因追求されるよりも、放っておいた方が「自ら考える」からです。
そして、その自ら考える姿勢こそが人の成長につながります。
失敗した時は誰もが悔やみます。
その失敗を受け入れて許すことで、失敗した本人も安心してまた自分の仕事に力を入れるようと思えるのです。
反省させることは人の生命力を奪う行為です。
逆に、人の失敗を許せることは人の生きる力を増長させます。
ぼくは進んで失敗できる人をむしろ賞賛します。
失敗したということは積極的に行動した証だからです。
ぼくは今までたくさんの優秀な人々を見てきましたが、彼らの特徴は行動スピードが速く、「気になったことは何でも挑戦すること」が共通しています。
彼らは見えない所で何度もたくさんの失敗をしています。
しかし、それにクヨクヨせずに起き上がって、またチャレンジを続けるのです。
その行動の積み重ねによって結果が付いてきています。
もし彼らのことを誰かが強く反省させていたとしたら、彼らは優秀な人間になっていないかもしれません。
ぼくは優秀な人間をもっと世の中に生み出せると思っています。
そのためには、人が失敗した時に反省をさせず、許せる人間になること。
そして、積極的に失敗しても許される雰囲気を作っていくことです。
失敗に対して寛容な社会になれば尖ったサービスが生まれやすく、社会はもっとイイ方向に進んでいくのです。
繰り返しますが、ぼくは進んで失敗できる人を賞賛します。
失敗の数が多いほど体験が豊富なので、広い視野で物事を見れる人間になるからです。
そんな人は魅力的なんですよ。
積極的に失敗できる人間になりましょう。
わっしょい!