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人生いつも三日ボーズ

三日坊主ゆえに不定期更新&ノンジャンル

福島県で東日本大震災に遭遇し、新潟県へ避難したときの思い出

思い出

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3月にも入ったことだし、ちょっと早いけど「あの日」について書いておきます。

震災から5年が経過した

そういえば、3月11日は東日本大震災があった日でしたね。5年も経つと、ついつい意識することが無くなってきてしまうなーと思う、今日このごろです。

2011年3月11日当時、ぼくは福島県いわき市という太平洋側の街で働いていました。震度6の地震に見舞われ、津波被害も甚大だった地域です。今回はその時の話をしようと思います。

東日本大震災の思い出

あの時は、本当に突然来ました。

その時ぼくは、そこで勤めていたパチンコ店の中で、普段どおりに働いていました。 覚えているのは、景品を交換するカウンターにいた女性スタッフがインカムで叫んだ「地震!」という言葉と、とてつもなく大きくて長い揺れ。

お客さんも店員もみんなが出口へ向かって猛ダッシュしている中、ぼくはパニックになって逆走してきた女性客を介抱しながら、とにかく揺れが収まるまでしゃがんでいました。 お店の被害は…散々。天井は抜けかけるし、設備には亀裂ができているし、お客さんの玉やメダルは崩れ落ちているし…。

とにかく、その日はお店を閉め、ぼくたち店員は店の片付けをしたり、家族がいる店員は安否を確かめに行ったりしていました。 地震の約1時間後に、津波が沿岸部を襲いました。店舗は沿岸部から結構な距離にあったので無事でしたが、震災後に入社してきた人の中には、その津波で家や車や家族を流された人が何人かいました。

電話はもちろん繋がらず、ぼくには同じ市内の短大に通う妹がいたのですが、連絡はまったく取れませんでした。もちろん他の人たちも。 もう市内はパニック。道路はいたるところで警察が交通整備をしているし、スーパーやコンビニに食料は全くなし。水道とガスも完全に死んでしまいましたが、奇跡的に電気が生きていました。

なので、真っ暗な状態で夜を明かすということにはなりませんでした。 人間というのは不思議なもので、未曾有の大災害だったというのに、ぼくは心の中で 「まあ、一週間ぐらいで元に戻るっしょ!」 という軽すぎる考えでいました。

無意識に、恐怖から逃れようとしていたのかもしれませんね。ちなみに、その2〜3日後に父親と電話で話した時に「一週間で戻るわけねえだろ!」と怒られたのを覚えています(笑)

翌日の3月12日、やっと妹と連絡がとれました。妹は、短大にある柔道場へ避難していたので無事ということでした。実際に会いに行きましたが、妹が住んでいた寮の壁にも亀裂が入っていて、崩れる危険性もあるということでした。まさに九死に一生。

だけど 沈んでいてもしょうがないし、こういう時は集団でいた方が何かと良いということで、店のスタッフ何人かで集まって過ごしていました。やはりこういう時も無意識に楽しいことをしようとするのか、水もガスも止まっている状態なのに緑茶でお米を炊いたりして、何とか楽しくやっていました。

福島第一原発の爆発

そんな中、テレビを観ていると、ついにアレが起こりました。

「福島第一原発1号機での爆発」

でした。 それを観た瞬間、とあるスタッフが言いました。

「これ、さすがに避難しないと…マズイんじゃない?」

という言葉に 周囲も同意し、店にいる店長へ直談判をしに行くことになりました。

店に着くと、店長・副店長も原発事故の報道をテレビで観ており、本部に避難の依頼を出しているところでした。 しかし、当時はまだ震災から2日しか経っておらず、しかも新潟に本部機能があったので、中々こちらの必死さは伝わらず、交渉は難航しているようでした。

結局、避難が決定したのは夜9時ごろ。そこからぼくらを避難させるためのバスが来るのが夜中の3時という強行スケジュールでの避難となりました。

新潟市への避難

ぼくらはそのまま夜中の3時に新潟から駆けつけたバスに乗りこみました。必要最低限の荷物だけを持って。そして新潟市に到着したのが、朝の7時ごろ。

眠気はありませんでした。もうそれどころでは無かったから。

新潟県内に実家がある人が多かった(勤めていたパチンコ店は、新潟を中心にチェーン展開している店なのです)ので、その人たちはそれぞれの実家で待機。 ぼくは福島県に実家があり、他にも新潟県外出身の人がいたので、その人たちは、新潟市内にある万代シティーホテルというホテルに滞在することになりました。

さすがに出社はできず、とりあえずは有給休暇という形で避難生活を送っていました。ですが状況が状況なだけあって、外出は結構厳しく制限されていました。

買い物や食事など、日常生活で行うであろう外出はOKだったのですが、パチンコを打つなどの「それ今必要?」みたいなことは自粛(という名の禁止)させられていました。隠れて打ちに行った人いたみたいだけど…(笑)

万代シティーホテルというのは、新潟市の「万代シティ」というショッピングが楽しめる場所に建てられていて、そこで新潟の人々が震災のための募金活動をしているのを見ました。有名どころだと、新潟県出身の「ヒルクライム」という歌手が募金活動をしていたのを覚えています。

そんな避難生活中にぼくは何をしていたかと言うと、あまりにもヒマだったので毎晩飲みに行ったり、ONE PIECEを大人買いしてホテルの部屋でずーっと読んでいたり、こっそり本部のあるビルへ遊びに行ったりしていました(笑)

当時はmixiでブログを書いていたのですが、パソコンを持ってきていなかったぼくは、ホテルにある15分100円の共用パソコンにて今のように自分の思いの丈をガリガリと書いていました。パソコンを持ってこないとか、ブロガー失格だったな!

もちろん、そんな避難生活をずーっとしているわけにも行かず、震災から3週間ほどして、ぼくらは新潟県内にあるチェーン店舗に各自配属されていきました。新潟県内は完全なる車社会なので、ぼくらはいわき市に置いてきた車と自分の荷物を取りに一度戻ることになりました。

一時的に被災地に戻る

3月末のいわき市は、まさにゴーストタウンでした。 原発事故があってから、みんな避難したのでしょう。外は人っ子一人通っていない状態。ぼくらも全身をレインコートで覆った状態でいわき市入りをしました。

放射線というものについてあまり分からず、とりあえずそういう格好で行くようにとお達しがあったから。 しかし、新潟県の刈羽原発で働く親を持つ同僚は、かなりの軽装でいわき市入りをしていました。

彼は「お前らなんでそんな格好してんの?www」というノリで、肌も露出させまくり。

当時のぼくらは「おいおい大丈夫かよ…」と思っていましたが、今思えば彼の方が正しかったのかもしれませんね。 そこで自分の車に乗って新潟へ戻る流れだったのですが…こんなこと起きると思っていなかったから、ガソリンが少ない。

入れようにも、当時はガソリンすらも届くのに時間がかかり、届いたら届いたでガソリンスタンドには長蛇の列ができる状態でした。ぼくらもその列に並び、約3時間ぐらい並んだ末にガソリンをゲット。その足で新潟へ戻りました。

新潟の店舗では、散々震災の状況について聞かれました。揺れの勢いがどうだっただの、津波の勢いを教えろだの、原発爆発したからお前は放射線浴びてきたのか?とかもうひどいでしょ?

「うっせ!お前らも中越地震くらったの忘れたか!」

と一喝して回る毎日でしたが、4月の頭になって、そのいわき市のお店が再オープンすることになりました。そのタイミングでぼくも福島県に戻ることになりました。 その後、ぼくは2013年までいわき市で働いていましたが、もうすっかり震災前と同じぐらいの活気を取り戻していたと思います。ハワイアンズも復活しましたしね。

東日本大震災を忘れない

というように、震災当時のことを思い浮かべれば当時の情景がまざまざと甦ります。それだけインパクトのあった出来事でしたからね。津波の被害が特にひどかった地域の一つでもあったので、震災直後に沿岸部を車で回ったときは、ちょっと直視できないような状況だったのも事実です。

津波の本当の怖さをその時初めて知ったという感じでした。 繰り返しになりますが、3月11日は東日本大震災が起きた日です。特に被害が甚大だった東北地方出身の人間として、この出来事は一生忘れられないなと思います。

だからこそ、ぼくはもっと後悔しないように生きていこうと思いました。

震災から5年が経ちますが、あなたは後悔しないように生きていますか?人間、死ぬ時は本当にあっけないです。それを教えてくれたのが、あの震災です。少なくとも僕は、いつ死んでも悔いがないように生きていくために、行動しています。

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