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2016年02月28日
◆あさま山荘事件、長野県警の元・刑事部鑑識課法医理化学係長の荒井潤さん(87)が現場の最前線で記録用の写真を撮影していた・・・
荒井潤さん 1
   【荒井さんが報告書に記載した手榴弾式手製鉄パイプ爆弾の写真】

あさま山荘事件
  【荒井さんが報告書に記載した手榴弾式手製鉄パイプ爆弾の写真】



 連合赤軍が軽井沢町のあさま山荘に人質を取って立てこもった「あさま山荘事件」から44年。昭和47年2月28日は、警視庁と長野県警の機動隊が強行突入して人質を無事救出、犯人5人を全員逮捕した日である。
 当時、県警の刑事部鑑識課法医理化学係長だった上田市緑が丘の荒井潤さん(87)は現場の最前線で記録用の写真を撮影していた。
 荒井さんは「世界各地で頻発しているテロは人ごとではない。あさま山荘事件が意味するものは何だったのか、いま一度考えてみる必要があるのではないか」と問いかける。
 この事件の背景にあったものは何か。若者の心にあったものは何か。連合赤軍がひきおこしたこの事件を風化させてはならない。荒井さんが昨秋から執筆している自分史のあさま山荘事件についての記述を紹介する。

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 <〈あさま山荘事件〉>
 昭和47年2月19日から28日にかけて軽井沢町の保養所、あさま山荘に連合赤軍のメンバー5人が管理人の妻を人質に立てこもった。
 猛烈な寒さの中、警視庁と県警の機動隊による人質救出作戦が行われたが難航。
 28日に部隊が強行突入して人質を無事救出し犯人5人を全員逮捕したが、死者3人(機動隊員2人、民間人1人)、重軽傷者27人を出した。
 その後「総括」の名のもとに行われた集団リンチ事件が明るみに出て人々を震撼させた。
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 十九日、連合赤軍派の男女四人が軽井沢駅で逮捕され、続いて男五名が軽井沢ニュータウンで県警機動隊員と銃撃戦の後、河合楽器寮「あさま山荘」に管理人の妻牟田泰子さんを人質に立て籠もった。

 二十一日、二十三日と軽井沢さつき山荘に遺留された鉄パイプ爆弾の鑑定処理に当った。

 現地に応援派遣された警視庁は、警備状況を専属の写真班が克明に記録していることを知り、県警も未曾有のこの事件を記録する必要性を認識したが、県下の鑑識要員はすべて採証のため各地点に配備済みで確保出来なかった。そこで勤務外での写真の腕を買われた私に白羽の矢が立って急遽派遣が決まった。

 二十六日軽井沢の現地へ派遣下命、パトカーでサイレンを吹鳴しながら自宅に立ち寄り、カメラ三台と着替えを持って現地入り。早速吹雪の中、第一地点から第九地点の情況を撮影して回った。

 二十七日は引き続き現地周辺の警備状況を撮影、山荘直前の装甲車まで行って取材した。

 その夜、明日の救出作戦決行を報道陣に発表した場で、ある記者が「もし犯人たちが逃げたらどうしますか?」と捜査本部長の野中庸長野県警本部長に質問した。本部長は即座に「捕まえます」とたった一言、明快に返答されたのが印象に残っている。

 翌二十八日、いよいよ牟田泰子さん救出作戦(X作戦)を決行。警視庁第二機動隊と行動を共にした。氷点下十度を下回る酷寒の下、放水で地面が凍結してしまうので靴に荒縄を巻いて滑り止めにした。旧陸軍の鉄帽を支給され、防寒着の下に防弾チョッキを着けての撮影は、窮屈な上に手は凍えて大変だった。

 用便は機動隊員に守られながら装甲車の陰まで走り、目の上のテレビカメラの放列を意識しながら済ませた。
 支給された昼食の缶詰ご飯は、凍結していて箸が立たなかった。
 三台の私物カメラに、ネガカラーフィルムとモノクロフィルムを詰め夢中で撮影した。絶え間ない放水の飛沫、激しい催涙弾の発射音とガス臭、そして犯人の撃つライフル銃の発射音、更に頭上には警視庁と報道各社のヘリコプターが絶え間なく飛び交い、それらの騒音が交錯する中、次々と搬出される負傷者と「隊長、隊長」と半泣きで縋りつく若い機動隊員たち、鼻をつく血の匂い等、正に戦場真只中の情景だった。

 そうした中、警視庁第七、第九機動隊員や県警機動隊員の間を取材して回った。作戦は犯人五名全員逮捕、泰子さんは無事救出され成功裡に終わったが、警視庁第二機動隊内田尚孝隊長、特科車両隊高見繁光中隊長の殉職を始め、多くの
負傷者を出す大きな犠牲を払う結果となった。

荒井潤さん

 現地を引き揚げ撮り終わったフィルムを整理したところ、一本もパトローネに巻き込むことなく末尾にそれぞれ番号と時刻をマジックペンで記入してあったことは、我ながら冷静沈着だったと自賛した。現在ならフィルム交換など必要なく何百枚でも気にせず撮れるのに、当時は三十六枚ごとに巻き戻しては入れ替えていた時代である。

 翌二月二十九日(閏年だった)救出された牟田泰子さんを軽井沢病院で取材、夫の郁夫さんと三人で歓談した。折しも警察庁長官後藤田正晴氏(後に内閣官房長官等要職を歴任)が現地を視察した後、軽井沢病院に負傷者の慰問に訪れた。取材していて驚いたことに、長官は泰子さんの病室の前を素通りされ立ち寄らなかったのである。後で耳にした話では、長官として部下の見舞いに来たので、人質を見舞いに来たのではないと言っていたそうである。

 事件後何故か警察本部長車で帰宅したとある。
 この事件で痛感させられたのは、県警と応援の警視庁との装備類にあまりにも大きな格差があったことである。しかしその事実を含め、当時本庁から派遣されて指揮を執っていた佐々淳行氏(後年評論家として活躍)が出版したあさま山荘事件に関する著書の中で、長野県警を「田舎警察」と見下して表現し、県警関係者の怒りを買った。

 その後、当時県警の警備二課長として前線で指揮を執っていた北原薫明氏(二〇一一年四月、八十八歳で他界)が、「連合赤軍『あさま山荘事件』の真実」と題した著書(ほおずき書籍発行)を発刊して反論し、関係者は溜飲を下げた。
 三月一日、あさま山荘玄関前で犯人に射殺された民間人田中保彦氏の司法解剖が行われた。
 六日に通勤電車が湘南型車両に切り替わったとある。

 十日から十三日にかけ、群馬県榛名山麓で連合赤軍のリンチ殺人事件の被害者の遺体十二体が発掘され、世間を恐怖に陥れた。
 そして四月二日「あさま山荘殉職警察官慰霊法要」が善光寺で執り行われた。

◇  ◇
荒井潤さん 2

 荒井さんは上田市出身。陸軍予科士官学校在学中に終戦を迎え、上田繊維専門学校繊維化学科(現信州大学繊維学部)を卒業。県警に勤務し、本部刑事部科学捜査研究所長を務めた。県写真連盟相談役。上田写真クラブ顧問。
[ 投稿者:東信ジャーナル社 at 23:09 | ■ ひと ■ ]

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