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豊臣秀頼

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 ※豊臣秀頼 「信長の野望」より

 

ざっくりとだが、今年は大坂の陣(冬、夏)から約400年だ。

大坂の陣、二人の主人公は言うまでもなく豊臣秀頼徳川家康である。

そして、夏の陣において、豊臣秀頼の自害により豊臣家は滅び去り、徳川家康は後顧の憂いを払い、徳川家による支配を盤石にした。

大坂の陣を俯瞰するに、豊臣秀頼なんざ、マザコン、優柔不断だとばっかり思っていた。

大好きな真田幸村を、あたら死においやった、無能な大将だとばっかり思っていた。

しかし、近年の研究で、豊臣秀頼の実像が明らかになるにつれ、彼が再評価されるようになった。

 

冬の陣では、豊臣方は10万人、徳川方は20万人がぶつかり合った。

真田幸村は「真田丸」を築き、徳川に大損害を与える。

秀頼は、最前線に赴き、戦う兵たちの労をねぎらい、その場で功を称え、褒美を与え…

こうして、大坂方はますます勢いを増していき、ついには徳川方を窮地に陥れる。

 

「ワシとしたことが、あなどっておったわ。秀頼があそこまでいくさ上手だとは知らなんだ」

家康は予想外の味方の損害に呆然とした。

そんな中、望外のモノが家康を救ったのである。

それは「秀頼の優しさ」であった。

徳川方が用いた大砲が、天守閣にいる秀頼の母親たる淀君に仕える数名の女中を殺めた時、秀頼は、

「このままこのいくさを続けていけば、あの大砲により、いくさに関係ない女子供を巻き添えにする」

と和議(停戦)を決意した。

家康は和議に乗じて、大坂城の外堀はおろか、内堀まで埋めてしまったのは周知のとおりだが、秀頼は

「埋められた堀を、再び掘り起こせ、兵站も城に運び入れよ」

と次なるいくさへの準備を怠らなかった。

しかし、経験値に勝る家康は、攻め時を誤らない。

「堀の無い大坂城なぞ堅城でも何でもないわ。今、この時を於いて、豊臣秀頼を倒すのは他にはない」

と秀頼に「準備」の機会を与えなかった。

期せずして、夏の陣が始まった。

止むを得ず、野外戦を強いられることとなった大坂方、しかも兵力は徳川方は15万、大坂方は5万、野外戦に於いて、この兵力の差は致命的であり、時間の経過とともに、大坂方は劣勢となっていった。

「こうしてはいられぬ。私も前線にて、将兵とともに戦う」

秀頼は甲冑に身を包み、大坂城正門にて出陣の時を迎えた。

「秀頼出陣」の報は、瞬く間に戦場を駆け抜け、大坂方を鼓舞し、徳川方を震え上がらせた。

真田幸村の巧みないくさ運びも手伝い、初めて大坂方が徳川方を圧倒するようになったのだ。

「あとは秀頼公がご出陣さえしてくれれば、このいくさ、勝てる!」

そう感じとった幸村は長男の大助に命じた。

「秀頼公の元へ行き、ご出陣を促してまいれ。そしてお側に仕え、秀頼公を補佐せよ」

大助は懇願する。

「私は父上と共に戦いたいとうございます」

幸村は諭すように言う。

「秀頼公がご出陣されれば、このいくさは勝てるのだ。このような重要な任務、大助にしか頼めぬ」

大助も立派な武子であった。不満を押し殺し、秀頼の陣に向かった。

しかし、その頃、不幸にも秀頼のところに、報せが届いた。

「味方が寝返りました。今、出陣すれば、犬死です。ここは自重して下さい」

もちろん、これは百戦錬磨の家康が流した虚報に過ぎなかった。

…勝負には「潮」がある。機会、チャンスと呼び変えてもいい絶妙なタイミングがある。家康の流した虚報により、秀頼は「出陣する機会」、すなわち勝利する唯一のチャンスを失ってしまったのだ。

潮目が変わった戦場は冷酷だ。

幸村は家康を切腹に追い込むあと一歩のところまで奮戦したが力及ばず戦死し、その他の武将たちも戦死し、大坂方の将兵は総崩れとなってしまった。

 

その時、家康から「和睦」が持ちかけられた。

大坂城を出れば、大和国に領地を与える」

いくさは徳川の勝利と決定している中での、異例の申し入れであった。

家臣は秀頼に進言する。

「秀頼様、和睦をお呑み下さい」

秀頼は訊いた。

「生きながら、豊臣家の衰退を眺めろというのか」

家臣は必死だ。

「こうなっては止むを得ません。命あってのものです」

秀頼はかぶりを振りながら、キッパリと言った。

「それでは私のために戦場に散った将兵たちに顔向けできぬ。和睦は呑まん」

こうして、秀頼は淀殿とともに自害し、大助も殉じ、豊臣家は滅びた。

 

大坂の陣は、江戸時代、芝居や講談の格好の題材となり、庶民にも親しまれた。

しかし、徳川家の方針から、秀頼を勇ましく描写することはご法度とされた(その反面、真田幸村は家康を追い詰めた武将として、家康の権威を高めるため、勇ましく描写することが許された)。それ故、秀頼は不当に過小評価されてしまったのである。

そして、徳川の支配が終わった現在、だんじり祭り等の大阪の祭りにおいて、山車の中で武将たちが、戦いを繰り広げている。真田幸村後藤又兵衛と共に戦うのが、ひときわ勇ましい造形の豊臣秀頼だ。

こうして豊臣家ゆかりの大坂において、秀頼はいつまでも輝き続けている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回の続きを書く。

高校2年になった。

初めての2年生だ。1年生を2回やった身としては、ちょっと感慨深い。

2年生になって変わったことが2つあった。

一つはクラスが減ったこと。1年6組から、2年5組になったのだ。これは、退学者が多くて、商業科4クラスが3クラスとなったからだ。ヤンキー高校なんだな…やっぱり…

もう一つは、1ヵ月に1回の「大学進学補習」というイベントが加わった。バカ高校なりに、色々考えているわけだね。

授業は1日6時間だが、補習を受ける生徒は、5時限目から出席する。

初日のガイダンスで壇上に立ったのは生徒だった。

オニヤンマみたいな眼鏡をかけていたので、便宜上、オニヤンマと表記するが、彼が「どこを志望校にすべきか」というタイトルで、講演を行った。

「今の大学は、早稲田の政経、慶応の経済、上智の外国語、この3つが三強です。ですから、みなさんも高みを目指さなきゃ。私は早稲田の政経を狙ってますがね…」

としたり顔で話す。

「早稲田なら政経、慶応なら経済、そして上智の外国語が難しいし看板だっていうのは、普通の常識で、わざわざ話すことじゃなかろう。それに、中央の法科はどうした!なんかムカつくなぁ…」

と内心では毒づいたが、オニヤンマは先輩だ。俺とは同じ歳だけど…だから、やっぱりムカつく~!(笑)

 

ひとしきり、オニヤンマの演説を聞いた後、模擬テストが実施された

ガイダンスに参加した生徒は1年生は約30人、2年生は約20人、3年生は約10人だが、学年が進むにつれて、参加人数が減っていくのが面白い現象だ。多分、学年が上がるにつれ、現実の壁を知るのだろう。

模擬試験といってもあくまでも私大型の3教科だ。

「暗記試験じゃないテストをこの学校で初めて受けるなぁ…」と思ったが、当時、模擬試験といったら、旺文社、駿台代ゼミだが、このバカ高校は、平民社か平明社か、名前は忘れたが、全然知らないマイナーな出版社の模擬試験を用意した。

おまけに、その場で回収して、教員が答え合わせをした上で偏差値を決めるんだから、どこまでもバカにした話だ。果たしてデータとして意味があるのだろうか…

俺は、試験を受ける60名を見回して、「1、2年生には勝ちたいな…。3年生はどんなものかな?とりわけ、オニヤンマ、早稲田の政経なんて生意気なことをいう位なんだから、お手並み拝見といこうじゃないか」と思いながら、試験を受けたが、試験内容は記述式で結構、難しかった。

試験の結果は、惨敗(;´Д`)!英語30点、国語50点、社会20点だった。

社会の選択科目だが、俺の場合は政経と世界史だが、これは共通一次の場合。メインの科目は政経だった。

法学部に行くなら、政経を選択科目にすべきだという単純な思考と、暗記すべき内容が少なそうだというのが選択理由だが、政経は3年の授業科目であり、2年生の俺は、まだ政経をやり始めたばかりだったので、仕方が無かった。

そんな(;´д`)トホホな点数だったが、それでも、1,2年生の中では一番点数が取れた。そしてオニヤンマは…と言えば、3教科とも60点以上のダントツの成績だった。

60名中1位はオニヤンマ、そして大きく差をつけられての2位が俺だった。

 

その後も補習は続けられ、段々参加人数も少なくなっていき、俺も「あんまり意味はないなぁ~」とは思ったが、オニヤンマに負けたまま、補習をサボるのも「何か嫌だな」と思い、オニヤンマに勝つまで参加しようと決めた。

政経で大きくリードして、英語で更に加点して、他の科目はそこそこで逃げ切る、これが当時描いていた戦略だ。

しかし、オニヤンマの背中、なかなか遠くて、追いつけなかった(;´Д`)