この記事は:

私は「おカネを貰う時に必死で正当化すること」に疲れた

という記事に対するリアクションとして書きます。

もし、はあちゅうサンが、フェイスブック(ティッカーシンボル:FB)のような、株の銘柄だったら、僕ならソッコーで「買い」を入れますね。

同様に、イケダハヤトが、株の銘柄だったら、ハヤトも「買い」だと思います。

あ、それから梅木氏も「買い」です。

つまり、このへんは「買い」がゴロゴロしているwww

彼らが「買い」の理由は、少なくともマネタイゼーションの観点からは、マルコム・グラッドウェルの言葉を借りれば「彼らがティップ(tip)している」からです。

そう書くと(広瀬はバカかよ、ブロガーを株に喩えて)と思う読者も多いでしょうね。

しかし……

個人のブロガーが課金戦略を模索するのと、スタートアップ企業がマネタイゼーションの仕方を模索するのとでは、一体、どこに違いがあるというのでしょうか?

はあちゅうサンや、イケダハヤトや、梅木氏の場合、ブロガーだってれっきとしたビジネスだと思うんです。

いや、ある意味、そこらへんにゴロゴロしている、愚にもつかないスタートアップなんかより、これらのブロガーの方が、ビジネスとして遥かに面白いし、収益性の面からも将来性がある気がします。

つまんないよ、ベンチャーなんか立ち上げたって(笑)

兎に角、会社を経営するということは、しんどいです。特にOPM(Other people’s money)、つまり他人様のおカネがベンチャー出資のようなカタチで絡んできた場合、楽しいコトより辛いコトの方が多くなります。

さらに新規株式公開(IPO)して、一般大衆のカネが入ってきたら、そのときは自分が手塩にかけて育ててきた会社にサヨナラを言うときです。その時点では、創業者として、自分の我を通すことは、とても難しくなります。

だから僕は他人の資本は絶対、受け入れたくないし、株式を公開しなければいけなくなるようなビジネスにも手を染めたくないです。長く株式公開に関係する仕事をやってきて、それが修羅場であり、そして墓場であることをイヤと言うほど見せつけられてきたから。

これがベンチャーなら、ただ単にPV(ページビュー)を伸ばしているだけではダメで、株主、つまりOPMの出し手の方々から「おい、どうした? なんで早く課金しないのか? 課金しろよ、コラ!」とお叱りを受けます。

はあちゅうサン、イケダハヤト、梅木氏のように、スルスルとマネタイゼーションが軌道に乗り始めると、それを賛美し、称賛する投資家は居ても、「なんだい、お前だけが儲かりやがって」と文句を言う人は少ないと思うんです。

ブロガーの場合、自分以外にステークホールダー(=株主)が居ないから、世間のねたみ、そねみ、やっかみ、ジェラシーに、ひとりで立ち向かわなければいけない(笑)

あ、言っときますけど、それは悪いコトではなく、良いことです。

ステークホールダーというのは、つまり「ぶらさがり」している奴らであり、株主とて「ぶらさがり」に他なりません。(=受動的ではなく、能動的な株主も、居ることは居ます。彼らは普通、アクティビスト投資家と言われ、ハイエナのように忌み嫌われます)

理想のビジネスとは:

COGs(=つまり材料費)の無いビジネス
在庫の無いビジネス
売掛金の無いビジネス
事業を始めるにあたり多大の借金を背負込まなくて良いビジネス
でくのぼうみたいな従業員を沢山抱え込む必要のないビジネス


であり、しかも:

無限にスケールするビジネス


です。

ウェブは、ひとりでやっていても無限にスケールすることを可能にします。

その意味において個人ブロガーのビジネスは、普通のスタートアップ企業に比べてより優れたビジネス・モデルなのであり、たとえばイケダハヤトが人を雇って業容を拡張しているのは「やっていることが間違っている」わけです。

投資家目線からマネタイゼーションを進めている個人ブロガーに対する興味は、彼らや彼女たちが何を言っているか? ではなく、どうprice discovery(最適価格の発見)を行っているか? ということです。

この部分に注目するだけでも、はあちゅうサンやイケダハヤトや梅木氏のやっていることは、授業料払って弟子入りするだけの価値があると僕は思っています。

ミルトン・フリードマンの『選択の自由』という経済学の古典に、価格機構に関する次のような記述があります:

アダム・スミスが言ったことで最も重要なことのひとつは、二人のひとの間で行われる交換が、当事者たちの自発的な意志に基づくものである限り、その交換が自分の利益になると双方が思っていない限り、交換が実際に行われることはないということだ。


時間を切り売りする「奴隷」に過ぎないサラリーマン社畜にとって、はあちゅうサン、イケダハヤト、梅木氏らが提供する「満足」に対して、青空天井のようなおカネを払っているファンが存在することは、驚き以外の何物でも無く、悔しくて、羨ましくて、ゼッタイに許せないふざけた社会現象でしょう。でも人々は「強制されて」そうしているのではないのです!

いまnoteで売られている記事を買うという行為を考えるとき、それを買って(これは得したな)という満足感を覚えるかどうかは、それを実際に購入した人だけに帰属するものであって、他人が「それは高い買い物だ」とか「それは安売りし過ぎている」とか、「こんな中身が無いものに、そんなにおカネを払うのか?」とか、とやかく言う筋合いのものでは無いのです。

一般に物的資本より人的資本の方がそれにふさわしい値付けが難しく、「人々の能力」にいくら払うか? という命題に対する正解は、出たとこ勝負になります。(日本の場合、年功序列賃金体系は、この命題に対する答えを探す努力を、放棄してしまったことを意味すると思います)

別の言い方をすれば、フェイスブックのARPUをモニターするようなノリで、個人ブロガーたちのマネタイゼーションの進捗を捉えなおすべき時期にさしかかっているのではないか? ということです。

1

だからこそ、はあちゅうサンや、イケダハヤトや、梅木氏がいま必死になって探そうとしている「最適解」の探求は、じっくり観察するに値するわけです。