kafranbel-aug2011.jpgシリア緊急募金、およびそのための情報源
UNHCR (国連難民高等弁務官事務所)
WFP (国連・世界食糧計画)
MSF (国境なき医師団)
認定NPO法人 難民支援協会

……ほか、sskjzさん作成の「まとめ」も参照

お読みください:
「なぜ、イスラム教徒は、イスラム過激派のテロを非難しないのか」という問いは、なぜ「差別」なのか。(2014年12月)

「陰謀論」と、「陰謀」について。そして人が死傷させられていることへのシニシズムについて。(2014年11月)

◆知らない人に気軽に話しかけることのできる場で、知らない人から話しかけられたときに応答することをやめました。また、知らない人から話しかけられているかもしれない場所をチェックすることもやめました。あなたの主張は、私を巻き込まずに、あなたがやってください。

【お知らせ】本ブログは、はてなブックマークの「ブ コメ一覧」とやらについては、こういう経緯で非表示にしています。(こういうエントリをアップしてあってもなお「ブ コメ非表示」についてうるさいので、ちょい目立つようにしておきますが、当方のことは「揉め事」に巻き込まないでください。また、言うまでもないことですが、当方がブ コメ一覧を非表示に設定することは、あなたの言論の自由をおかすものではありません。)

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2016年02月29日

「よかったね、シリア、停戦したね」……と言える状況では、到底、ない。

シリア、2016年2月27日発効の「停戦(休戦)」はどこまで守られているか。
http://matome.naver.jp/odai/2145672902112762701


そしてまた、いつもの「ニセの『双方』、『お互いに』、『どっちもどっち』論」が準備されている。「双方が非難の応酬」とかいうマスコミ様の常套句によって。

「アサド政権/ロシアが停戦を破っている」と報告されているのは、非武装の一般市民に死傷者が出ていることで、それ自体実は「停戦を破っている」かどうかに関わりなく国際法違反(民間人の攻撃)なのだが、「政権の空爆が民間人を殺している」と言っても誰も関心を向けないので、「停戦」という最もフレッシュでホットな文脈で語るしかなくなっている。ここにロジックのゆがみが生じる。そしてそこに楔が打ち込まれ、「民間人を攻撃すること自体は何でもない」という既成事実がはい、できあがり。

クラスター爆弾も投下されてるよ。下記ページに写真入れてある。
http://matome.naver.jp/odai/2145672902112762701?&page=4

でも各国政府や大手メディアが見るのは、「合意された範囲の停戦(と解釈されるもの)」が維持されているかどうか、だけだ。

そこには、「一般市民の犠牲をなくそう」という理念はない。

「保護する責任 responsibility to protect (R2P)」? 5年前、リビアについてそう熱弁をふるっていたスーザン・ライス、サマンサ・パワーは何をしてるんでしょ。

前記事:
2016年02月27日
シリア、「一時的停戦」の発効と現実(ドイツの新聞報道)
http://nofrills.seesaa.net/article/434324583.html

※この記事は

2016年02月29日

にアップロードしました。
1年も経ったころには、書いた本人の記憶から消えているかもしれません。


posted by nofrills at 23:53 | TrackBack(0) | i dont think im a pacifist/words at war | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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【おことわり】「阿修羅」掲示板にこのブログ、および当方の管理下のブログの記事が全文転載されているのは、無断転載(コピペ)です。当方の関知するところではありません。詳しくはこちら(2015年7月以降、当方のブログの「阿修羅」への無断転載は、固くお断りします)。



なお、ここに貼ってあったZenbackは2015年2月19日にコードを外しました。今後は検討中です。


【2003年に翻訳した文章】The Nuclear Love Affair 核との火遊び
2003年8月14日、John Pilger|ジョン・ピルジャー

私が初めて広島を訪れたのは,原爆投下の22年後のことだった。街はすっかり再建され,ガラス張りの建築物や環状道路が作られていたが,爪痕を見つけることは難しくはなかった。爆弾が炸裂した地点から1マイルも離れていない河原では,泥の中に掘っ立て小屋が建てられ,生気のない人の影がごみの山をあさっていた。現在,こんな日本の姿を想像できる人はほとんどいないだろう。

彼らは生き残った人々だった。ほとんどが病気で貧しく職もなく,社会から追放されていた。「原子病」の恐怖はとても大きかったので,人々は名前を変え,多くは住居を変えた。病人たちは混雑した国立病院で治療を受けた。米国人が作って経営する近代的な原爆病院が松の木に囲まれ市街地を見下ろす場所にあったが,そこではわずかな患者を「研究」目的で受け入れるだけだった。

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▼当ブログで参照・言及するなどした書籍・映画などから▼