1815年3月
パリ





皇帝、エルバ島から帰還


 1815年、ナポレオンがエルバ島を脱出してからパリへ到着するまでの時期に関する、あるコピペがネット上に出回っている。

――以下コピペ――

 ナポレオンは1815年、流刑先のエルバ島を脱出しマルセイユ付近で上陸、パリに向かって再び天下をとった。
 その期間のナポレオンの動向を伝える官製新聞「ル・モニトゥール」の見出し。
「凶悪な食人鬼、巣窟より脱出」
「コルシカの鬼、ジュアン湾に上陸」
「怪物、ジァップに到着」
「虎、グルノーブルで一泊」
「簒奪者、リヨンを通過」
「暴君、首都に60里に迫る」
「皇帝、フォンテーヌブローに」
「皇帝陛下、昨日チュイルリ宮にご帰還。臣民、歓呼で迎える」

――以上コピペ――


 この話は昔から有名で、例えばタクテクスに連載されていた森谷利雄氏の「大陸軍 その光と影」でも紹介されていたほどだ。では、その淵源はどこまで遡れるのか、そして、この話は本当に史実なのか。
 オリジナルが日本語文献でないことはすぐに分かる。例えば1848年に出版されたThe Church of England quarterly review, Vol. XXIII.の中には以下の文章がある。

「ナポレオンが1815年3月3日にエルバからフランスへ戻った時、モニトゥール紙は一連の報道で彼の脱出からパリ到着までの進展を伝えた。――
『人食いがねぐらを出た。
『コルシカの鬼がまさに上陸した。
『虎はギャップに到着。
『怪物がグルノーブルで一泊した。
『暴君はリヨンを通過した。
『簒奪者が首都から60リーグ内に姿を見せた。
『ボナパルトは素早く前進しているが、決してパリには入れないだろう。
『ナポレオンは明日には我らの城壁下に現れるだろう。
『皇帝がフォンテーヌブローに到着した。
『皇帝陛下は昨日、忠実な臣民たちに囲まれてテュイルリー宮に入城した』」
p383-384


 コピペと比べると(1)虎と怪物の順番が逆(2)暴君と簒奪者も逆(3)コピペの方には「ボナパルト」と「ナポレオン」が見当たらない――などの違いがあるものの、基本的な構造は同じ。ペリー来航以前に出版された英語文献にこの記述が存在する以上、オリジナルは欧州の方にあると考えていいだろう。淵源を探すうえでも外国語文献を調べればいい。
 そう思ってgoogle bookで調べてみると、最も古いのは1827年に出版された本だった。題名はLe narrateur français: or a selection of anecdotes, repartees, et characters in the French tongueと英仏語が入り乱れている。要するにフランス語を学ぼうとしている英国人向けにロンドンで出版された教科書だと思えばいい。
 この教科書にはフランス語で書かれた挿話が200も載っているのだが、その中にナポレオンがらみの新聞見出しの逸話も入っている。しかし、もともとが教科書なのでこれがオリジナルだとは考えない方がいいだろう。この本が出版される以前に、フランス語でこの話を紹介した本があると思われる。ただし、その存在は確認できていない。とりあえずこの教科書に載っている件の話は以下の通りだ。

「検閲に従っていた1815年のパリの新聞は、ボナパルトのエルバ島脱出から、フランス国内の行進、そして首都への入城までの期間を以下のように伝えた。
『3月9日。人食いがそのねぐらを出た。――10日。コルシカの鬼がまさにジュアン岬に上陸した。――11日。虎がギャップに到着。――12日。怪物がグルノーブルで一泊した。――13日。暴君がリヨンを通過。――14日。簒奪者はディジョンへ向かったが、勇敢で忠良なるブルグンドの人々が一斉に立ち上がり彼をあらゆる方向から包囲した。――18日。ブオナパルテは首都から60リュー以内にいる。彼は追撃者の手をうまく振り切った。――19日。ボナパルトは大きく前進しているが、パリに入ることは決してないだろう。――20日。ナポレオンは明日には我らの城壁下に現れるだろう。――21日。皇帝はフォンテーヌブローにいる。――22日。皇帝陛下は昨晩、献身的で忠実な人々の歓呼の中、テュイルリー宮に入城した』」
p98


 見逃してはならない違いがいくつもある。「簒奪者」という言い回しが「首都から60リュー」ではなくディジョンと関連しているとか、ブオナパルテという新しい表現が出てきたといった細かな差異もあるが、より重要なのは以下の2点、即ち「検閲に従っていた」と「パリの新聞」の部分だ。
 出回っているコピペは新聞を揶揄した文章になっているし、それは1848年の英語文献でもほぼ同じだ。だが、この(現時点で発見できた)最も古い文献では「検閲に従っていた」新聞の見出しが変化していったとわざわざ断っている。つまり、ナポレオンの行進に合わせて見出しを変えていった主体は新聞というより検閲当局だったのである。揶揄された対象は新聞ではなく、検閲当局(つまり行政府)であり、彼らの風見鶏っぷりがあてこすられていると見ていいだろう。
 そして最も大切なのが「パリの新聞」という表記。原文は複数形(Les journaux de Paris)だ。もうお分かりだろう、1827年に出版された本の中には、この見出しが「モニトゥール紙」のものであるとは一言も記していないのだ。1831年出版のL'observateur, Tome II.のp70-71にも、同年出版された英語文献The Museum of Foreign Literature, Science, and Art. Vol. XVIII.のp93にも、同様にフランスの新聞(Les journaux françaisやThe French newspapers)とだけ記しており、モニトゥール紙の名はどこにも出てこない。
 他にもモニトゥール紙にこの手の文章が載っていない可能性を示す史料はある。一つはArchives parlementaires, Tome XIV。同書には1815年3月21日付のモニトゥール紙からの抜粋が載っているのだが、その内容は以下の通りだ。

「パリ、1815年3月20日
 皇帝陛下は今夜8時、テュイルリー宮に到着した。彼の通行を妨げるために今朝送り出された同じ兵たちの先頭に立って、彼はパリに入城した。彼の上陸以降に編成された軍はフォンテーヌブローより向こうまで進出できなかった。陛下はいくつかの部隊を閲兵しながら街道を通過してきた。彼は常に、あらゆる場所で彼の前にやって来たおびただしい数の住民の真っ只中にいた。
 皇帝にエルバ島から同行してきた老親衛隊の勇敢な大隊は明日、この地に到着し、かくしてジュアン湾からパリまでの道のりを21日で踏破することになる。
 我々は明日[の新聞で]、陛下の上陸からパリ到着までの途上で何が起きたかを報告する」
p351


 まず日付が違う。コピペの元ネタでは22日となっているが、実際は21日付。また「献身的で忠実」とか「歓呼の中」といった表現は見当たらない。テュイルリー宮への入城は「昨晩」ではなく「今夜」だし、コピペの元ネタには存在しないパリ途上や老親衛隊の話が載っている。要するに、コピペの元ネタで使われているのは、少なくともパリ入城部分については、モニトゥール紙から引用したものではない可能性があるということだ。
 パリ入城の部分だけでなく、ナポレオンのフランス上陸時点の話も怪しい。Fastes de La France, Tome Quatrièmeのp12には「3月7日、モニトゥール紙はナポレオンの上陸を発表した」とあるし、同じページに「8日、モニトゥールは住民に追われたナポレオンが地方を彷徨っていると公表した」とも記されている。コピペ元ネタではナポレオンのエルバ島脱出(フランス上陸ではない)の第一報が3月9日に掲載されたことになっているが、これを見る限りモニトゥール紙はそれより2日も前にナポレオンの上陸を伝えている筈だ。
 よく知られている研究者がこの話を紹介していないことも、一つの傍証になるだろう。例えばThiersだが、エルバ島脱出の部分を記しているHistoire du Consulat et de l'Empire, Tome Dix-Neuvièmeの本文を検索してみても「コルシカの鬼」や「虎」や「怪物」といった単語は発見できない。同じことはHoussaye1815. La première restaurationでも言える。少なくともHoussayeによれば「怪物」という言葉を使っているのはフランスの新聞ではなく英国のタイムズ紙だ(p455)。
 実際に3月7日のモニトゥール紙に載ったフランス語の文章までは見つけられなかったが、英訳したものならPaul Britten Austinの"1815 The Return of Napoleon"で読むことができる。そこではナポレオンの上陸を受けた復古王政の政府が出した布告が紹介されている。

「ナポレオン・ボナパルトは武力でヴァール県に侵入したことにより、裏切り者であり反逆者であると宣言された。全知事、軍の指揮官、国民衛兵隊、行政当局、さらには個人でさえも、彼を狩り立て、捕縛し、すぐに軍法会議の前へと連行する責務がある。軍法会議は、その身元を確認したうえで、法に基づく刑罰を科すであろう」
p126-127


 これを見ても、コピペ元ネタがモニトゥール紙から引用したものでないことは一目瞭然だ。少なくともネット上に出回っているコピペの「官製新聞『ル・モニトゥール』の見出し」という部分は間違いである蓋然性が高い。

 では誰がこの見出しについて「モニトゥール紙のものだ」と言い始めたのだろう。一つ見つかるのが、1840年に出版されたRevue de Paris, Tome Vingt-Troisième.のIIIe série.に掲載されている文章だ。そこには以下のように書かれている。

「もし彼[ナポレオン]によるパリへの勝利の行進を知りたいのなら、モニトゥール紙を調べさえすればいい。この歴史的調査に読者を誘うため、かなり興味深い事例を紹介しよう。ナポレオンがパリへ徐々に行進した際に、その接近が新聞の見解にもたらした変容を知ることができるだろう。
 ――人食いがねぐらを出る。――コルシカの鬼がジュアン湾に上陸。――虎がギャップに到着。――怪物がグルノーブルで一泊。――暴君がリヨンを通過。――簒奪者が首都から60リュー内に姿を見せる。――ボナパルトがパリへ大きく前進したが、決して入ることはないだろう。――ナポレオンは明日、我らの城壁下に現れるだろう。――皇帝がフォンテーヌブローに到着。――皇帝陛下は昨日、忠実な臣民の真っただ中をテュリルリー宮に入城された!」
p164-165


 Souvenirs de Voyages.(p153)と題された文章の一部を引用したものだ。著者名はALEX. DUMAS.(p172)、つまり大デュマである。何だまたこいつがでっち上げたのか、と最初は思ったのだが、この文章をよく読むと実はそうではない。デュマはまずナポレオンの帰還について「モニトゥール紙を調べさえすればいい」と指摘。その後で読者にとって興味深いであろう事例として「新聞の見解」opinions du journalを紹介している。そう、デュマが紹介したのはあくまで普通名詞としての「新聞」の見解だ。彼はどこにも「モニトゥールの見解」だなどとは書いていない。
 とはいえ誤解を招きそうな文章であることも確かだ。実際に彼のこの文章に騙されたのかどうかは不明だが、1848年にはドイツ語文献(中身はフランス語の教科書)Praktische französische Grammatikの中に「1815年3月のモニトゥール紙はボナパルトのフランス到着について立て続けに以下のニュースを報じた」(p273)との文章が登場している。同年に英語文献でモニトゥールの名が出てきたことは上で指摘済み。1861年にはフランス語文献La clef de la langue et des sciences, Tome Quatrième.でも「以下はモニトゥール紙が彼のフランス国内の行進について立て続けに報じた様々な速報だ」(p1048)と書かれるようになった。

 デュマが最初から騙すつもりで件の文章を書いたとまでは言わないが、著名な小説家の書いた話はかなり広がりやすいミームになったのだろう。一方、まじめに調べている歴史家の記述は、一般には広まりにくかった。特にインターネットのようにコピペで簡単にミームが拡大する媒体においては、デュマ由来のミームの方がThiersやHoussayeの堅苦しいミームよりも圧倒的に繁殖力に優れている。ネット以前から十分に拡散していたこの(史実であるという裏づけに欠ける)ミームは、ネットという新たなニッチ(生態的隙間)を得て再び増殖を始めているようだ。

――大陸軍 その虚像と実像――