日本初の洋式競馬場「根岸競馬場」が1866年に完成してから今年で150周年を迎える。居留外国人の娯楽施設として丘の上で誕生し栄華を誇ったが、最後はその立地が災いして1943年に閉鎖に追い込まれた。常に外国とのはざまで揺れ続けた同競馬場。今は廃虚然としたスタンドが当時の繁栄ぶりをわずかにしのばせている。
JR根岸線・山手駅から坂道を上ること20分あまり。跡地に整備された根岸森林公園にたどり着く。「ここは今でも便利な場所とはいえませんね。そもそも『不便』なことに意味があったのです」。日本中央競馬会(JRA)の関連施設「馬の博物館」の日高嘉継上席学芸員(48)が笑う。
誕生のきっかけとされるのが、1862年に薩摩藩士が英国人を殺傷した「生麦事件」だ。尊皇攘夷の機運が高まる中、外国人側からそれまで現在の中華街付近などで簡易的に楽しんでいた競馬を「人が来ない安全な場所で開きたい」とする要望が高まったのだという。
実は日本で競馬が右回りを主流としているのも、このことに起因する。当時は江戸幕府末期で財政が逼迫。人里離れた丘陵地に建設を決めたものの、整地するほど費用はかけられない。左回りにすると地形上、ゴール前が上り坂になりデッドヒートを演出することができず「右回りのレイアウトしかとれなかったことが、結果的に日本のスタイルをつくり上げた」(日高さん)。
維新後は政府要人らが外国人と出会う場として注目。「屋外の鹿鳴館」として、不平等条約撤廃への根回しの場などとして一躍、歴史のひのき舞台に躍り出た。
しかしその後、日本が軍事力を強めていくと同時にスパイ防止の観点で「丘の上」が問題視された。スタンドから横須賀の軍港が一望できたからだ。太平洋戦争開戦後、海軍が接収。戦後は米軍の管理下におかれ、この地で馬が走ることはなくなった。
役目を終えて70年超。1930年に再建され、東洋随一とたたえられたスタンドが今も残る。米国の建築家が設計したもので高さ約30メートル、延べ面積7700平方メートルの堂々たるものだ。
もっとも現状では米軍根岸住宅地区が隣接し正面からの観賞を阻んでいるうえ、保存状態も良好とはいえない。スタンドを所有する市などによると、「米軍敷地が見渡せる」と眺望が再び問題視されたことで、活用計画を立てられずにきた面があるようだ。
希望は日米で敷地返還が合意されていること。数奇な運命に翻弄され続けた競馬場の呪縛が解き放される日も近いかもしれない。
■1943年に閉鎖、でも法律上は91年まで存続
競馬場の閉鎖は1943年だが、法律上は半世紀後の91年まで存続していた。当時は競馬場ごとに開催回数が定められていたため、同競馬場の分を他に振り替え開催数を増加させていたのだという。
馬の博物館に隣接する「ポニーセンター」では、2009年春の天皇賞を制したサラブレッド「マイネルキッツ」ほか、9頭の多種多様な馬が出迎える。乗馬体験もできることから、県内外から多くのファンが訪れている。