普通の一般家庭には玄関と勝手口くらいしか出入りする場所は存在しない。忍びの末裔で抜け穴とかカラクリとかない限り、それ以外に出入り口は存在しないはずだ。そこを通って誰かに会いに行くし、誰かが会いに来る。言うなれば人と関わりを持つための窓口のようなものだ。では、その窓口が突如として1つ増えたとしたらどうだろうか。それも、単なる玄関などとは違い、ずっと異質でずっと可能性を秘めた異次元の出入り口だとしたらどうだろうか。
そう、僕らはそうやって異次元の出入り口が突如増えることを体験してきている。あの日の興奮だけはいまだに忘れられないのだ。
時代は90年代半ば、Windows95発売時のフィーバーがテレビなどで取り上げられたこともあり、一般的にも「なんだかパソコンがすごいことになってるぞ、よくわからないけど」とじんわりと広がってきた頃だった。当時高校生くらいだった僕は、そういった世界に強い憧れがあり、本屋さんでパソコン関連の雑誌を立ち読みばかりしていた。
我が家はとにかく貧しかったし、今でこそノートパソコンが数万円で買えるが、当時は普通にスタンダードな機種が数十万円するような時代だったので、パソコンなんて夢のまた夢、ただトランペットに憧れる黒人少年のように雑誌を見てはため息をつく日々だった。
そんなある日、何をトチ狂ったのか親父がパソコンのパンフレットを山ほど持って帰ってきた。これからの時代はパソコンだ、好きなものを選べ、そう言い出した。もしかしたら野草でも食べて頭がおかしくなったのかもしれない、真剣にそう思った。しかしながら、これはまたとないチャンスである。ならば野草の効き目があるうちに選んでしまおう、そうやって我が家にやってきたのがNECのPC-9821CanBeだった。
このマシンは凄まじくて、四連装CDチェンジャーという、入れ替えなしで4枚のCDを入れることが可能!っていう凄そうなんだけど、別に同時に再生できるわけでもなく、入れ替えの手間が省けるだけ、っていうよく考えたらあまり意味のない機構まで搭載しており、なんかとにかく凄かった。
当時の僕はインターネットってヤツがやってみたくて、それにはモデムが必要だと雑誌に書いてあったので、なけなしの貯金と、それにはちょっと足りなかったので弟の貯金箱から盗んだ金を握り締めてマニアックな店に18.8kのモデムを買いに走ったのを覚えている。けっこう高価だった
で、モデムを買って帰ってから気づいたのだけど、実はCanBeには最初からモデムが搭載されていて、新たに買わなくとも通信をすることが可能だった。泣いた。とにかく泣いた。18.8kのモデムの箱を握り締めてとにかく泣いた。弟の金を盗んだ18.8kのモデムが憎かった。
頭にきたのでそのまま買ってきたモデムも繋いで使っていたけど、四連装のCD-ROMドライブに二連装のモデムという、全然意味はないんだけど攻撃力だけは高そうなモンスターマシンが出来上がっていた。
当時はインターネットなんて本当に駆け出しで、ホームページ自体がほとんど存在せず、プレイボーイのページや首相官邸のホームページを見るくらいのことしかできなく、ほとんどが情報を受け取るだけだった。言うなれば、動かないテレビである。それも情報量もあまりない。
それより多くの人が出入りし、情報も充実していたのがパソコン通信と呼ばれる世界だった。もはやインターネットが当たり前となった現代でパソコン通信を説明するのは難しいのだけど、ものすごく簡単に説明してしまうと、インターネットが世界中のネットワーク同士を結んでいるネットで、パソコン通信がその結ばれる個別のネットみたいなものである。
当時のパソコン通信はPC-VANとNIFTY-Serveの二大巨頭で、雑誌などを買うと必ずこれら二つの接続ソフトみたいなものがCD-ROM付きで綴じられていた。
「よし、パソコン通信をやろう」
そう決意した僕は、何の考えもなしにNIFTY-Serveを選択した。俺の四連装CDチェンジャーが火を噴くぜと訳の分からないことを言いながらCDをセットし、接続ソフトをインストールした。俺の二連装モデムが火を噴くぜ、と訳の分からないことを言いながら、接続ボタンを押すと、モデムからピーヒョロローという間抜けな音が鳴り出した。
繋がったのか?よく分からないがなにやらゴチャゴチャと画面に表示されている。ようこそNIFTY-Serveへみたいな文字が表示された。繋がった!興奮で指が震えたのを今でも覚えている。我が家にもう1つの出入り口ができたのである。
この新しい出入り口は沢山の情報を出入りさせることが可能だ。うちの玄関なんて宗教の勧誘くらいしか来ないし、勝手口なんて裏のババアが正体不明のおはぎを持ってくるくらいのものだが、新しい出入り口は、ずっと上等な情報を扱ってくれる。ドキドキしすぎてお腹が痛くなったくらいだった。
Nifty-Serveにはフォーラムというものが存在し、その中で様々なジャンルの情報がやり取りされていた。もちろん、掲示板もあり、活発に意見交換がなされていた。ただ、今みたいに乱暴な言葉が飛び交ってるネット空間ってことはほとんどなく、多くの人が穏やかな言葉遣いで交流をしており、イメージとしては紳士の社交場に近かった。けっこう年齢層の高い人たちがいたんだと思う。
そこで僕は一人の男と知り合うことになる。この辺はあまり記憶が定かではないが、確かビギナー関連のフォーラムで知り合ったと思う。名前も良く覚えていないが、なんか日本刀っぽい名前だったと思う。仮にマサムネと呼ぶことにしようか。
そのマサムネさんは、よく僕に構ってくれた。高校生だった僕から見たらかなりの大人で、働いている風だった。右も左も分からない僕にネットでのマナーや、パソコンのことなどを親切かつ丁寧に教えてくれたもんだった。今考えるとマサムネさんは僕の師匠だった。我が家にいながら全然知らない人と交流できるという事実にただただ感動し、CRTディスプレイで少しちらつくパソコンの文字が、まるで呼吸しているかのように感じられた。
当時は今みたいに、やれ光ファイバーだのなんだのと常時接続な通信なんて存在せず、電話回線を利用してパソコン通信に繋いでいた。おまけにテレホーダイなんていうサービスも開始されていたが、田舎過ぎる故に結構遠くの都市のアクセスポイントに接続していた僕は、そのサービスは利用できなかった。そもそも高校生なので電話代プラス接続代、みたいなパソコン通信はあまりやれるものではなかった。
そんな僕に対して、マサムネさんは、自動でNIFTYに繋いであらかじめ設定しておいた掲示板やフォーラムなどをごそっとダウンロードしてくれてオフラインでゆっくり読めるソフトの使い方を教えてくれたりしたものだった。とんでもない男がパソコンの向こうにいる、玄関や勝手口からは宗教のババアか裏のババアのおはぎくらいしか来ないのに、新たにできたこの勝手口からは途方もないハッカーがやってくる。僕の二連装の肺はその事実だけで荒い呼吸になるほどだった。
そんなある日、マサムネからチャットをしようというお誘いがあった。二人で時間を合わせてNIFTYに接続し、チャットへと進む。意味不明に興奮していた僕は俺の二連装のモデムが火を噴くぜと訳の分からないことを言っていたように思う。
「相談がある」
画面の向こうのマサムネはそう言った。リアルタイムで逐一変わる情報にやはり興奮した。今確実にこの世界のどこかにマサムネがいて、同じようにパソコンのキーボードを叩いているのである。これだけの興奮を味わったのは後にも先にもないかもしれない。そういった意味では、物心ついたときからインターネットが傍らにある現代の子供たちは可哀想だ。あの感動を味わえないのだから。
さて、マサムネの存在に感動したのはいいが、事態は深刻だ。僕の中では凄腕のハッカーであり、何でも知っている大人の男であるマサムネが悩んでいるのだ。おまけになぜか僕を指名して相談してきている。彼の疑問に答えることができるのだろうか。技術的なことを聞かれたら一切答えられないぞ、なにせ俺はモデムがついてるのにモデムを買ってくる男だ。
「実は今、好きな人がいる」
マサムネの相談は意外なものだった。技術的なことを聞かれたらどうしようかと思っていたが、そういうことを聞かれるともっと困る。そもそも、マサムネはそういった色恋沙汰に興味のない孤高のオタクみたいに想像していたので、本当に意外だった。おやおや、スーパーハッカーマサムネさんも恋愛のこととなるとからきしですなあ、と妙に興奮したのを覚えている。
「どうしたいの?」
僕がそう聞き返すと
「告白しようと思ってるけど、どうしたらいいのか分からない」
これがあのマサムネだろうか。そう思った。ネットマナーを厳しく僕に叩き込んだマサムネだろうか。そう思った。それと同時に、やはりパソコンの向こうにいる人はリアルなんだと思った。そこにいるのはロボットでも人工知能でもない、生身の人間なんだ。恋に悩み、相談する人を探している人間なんだと。
さらに緊張が生まれた。マサムネが僕に相談したということは、少なくともマサムネは僕のことを恋愛の達人か何かだと思っている。なんでそう思われたのかは知らないけど、相談されたということはそんな人間だ思われているのである。
「まあ、告白ってのは難しいからね。タイミングとかもあるけど、やはり外堀を埋めていかないと。そっからバーっと仕掛けてウワーッといかないと」
ちょっと恋愛の達人になったつもりでそう答えた。実際にはエロビデオのことしか考えていない童貞高校生なんだけど、すげえ百戦錬磨みたいな自分を演出していた。小学校の時に忍者ハットリ君のファミコンソフトを持っていないのに持っていると嘘ついていた岩田君が、皆に問い詰められてハットリ君のソフトの内容を説明させられていた時みレベルのフワフワとした内容である。
「外堀かあ」
あれだけパソコンのことに強いマサムネなのに、恋のこととなるとからっきしだな、と思いつつ、僕も全然からっきしなのになぜか上から目線。
「最初は好きな音楽の話とかから入っていけばいいんじゃないかな。で、そのCDを貸してあげるとかそういった話題から入って親しくなって」
みたいなアドバイスをしたと思う。
「うーん、好きな音楽かあ。若い子だからなあ、何の音楽がいいんだろう、うーん」
マサムネはなんだか煮え切らない。これがあのハッカーと同じ人間なのか、なぜだか凄まじい失望が僕の身を包んだ。それと同時に、いつまでもウダウダやっているマサムネにイライラしてきた。なにせ、僕は接続するだけで電話代やら何やらで結構なお金がかかってしまうのだ。うだうだしている恋愛ハッカーにそこまでお金はかけられない。
「まあ、いざとなったらおっぱい揉んじゃえばいいよ」
めんどうになってひどいアドバイスをしていた。童貞高校生の僕にはおっぱい神話みたいなものがあって、女性はみんなおっぱいを揉めばアフンとなってなんとかなる、みたいに考えていたことがあった。万能のエロスイッチみたいに考えていて、面倒になった僕はそうアドバイスした。
「おっぱい!?わたしの!?」
衝撃的なマサムネの発言が表示される。
「え!?わたし!?どういうこと?」
マサムネは言った。
「わたし、女だよ」
なんでもお父さんと共同アカウントを使っているか何かで、日本刀みたいな名前だったらしい。実際には社会人の女性がパソコンの向こうにいた。
「それに私が好きなのは」
マサムネがそう言った時、なんだ急に怖くなって切断し、パソコンを閉じた。たぶん、パソコンの向こうのマサムネを勝手に想像していた自分が怖くなったのだと思う。そしてリアルに存在している人間を相手にしているという認識があまりにも希薄だったことに恐怖したのだと思う。相手にしていたのはゲームのキャラでも漫画のキャラでもない、紛れもない生身の人間なのである。なんだかすごく怖かった。
それからなんだか無性に怖かったし、電話代が跳ね上がったことにより、知らない人が見たら「へえ、彼、この後自殺するの?」と訊ねたくなるレベルで両親から折檻されたので、パソコン通信にアクセスすることはなくなったのだけど、しばらくして、マサムネから小包が届いた。その小包は普通に玄関からやってきた。
たしか、今では考えられないのだけど、フロッピーディスクで何らかのデーターをやり取りするとか言って普通に住所を教えていた。差出人のところを見ると、すごく遠く、それこそ日帰りできないレベルの県に住む女性の名前だった。
包みの中には手紙とフロッピー、そして、当時流行っていた恋愛ソングのCDが4枚入っていた。やはりパソコンの向こうには生身の人間がいるのである。
あれから随分と年月が経ち、NIFTY-Serveは2006年に全てのサービスを終えた。誰もがスマホでインターネットにアクセスするようになり、ネットワークを通じてコミュニケーションをとることが当たり前になりつつある。
僕らは忘れていないだろうか。その小さな端末の向こうには生身の人間がいて、同じように悩み、悲しみ、笑っている。当たり前すぎて忘れそうになるけれども、あの日の感動と共に覚えていなければならないことだと思う。そう、我が家にもう一つの出入り口ができたあの日の感動を。
あの日、秋の空を眺めながら、マサムネから送られた4枚のCDを聴くため、初めて僕の四連装CDチェンジャーが火を噴いた。