僕がアドラー心理学と出会ったのは
こちらの書籍です。今回は『幸せになる勇気』という続編ですが、アドラー心理学自体をご存じない方はまずはこちらから読まれることをお勧めします。
強烈な学問
あえてこのように表現します。「無茶な」「実践できない」アドラーを知った当初はこのようなレスポンスに終始しましたし、現在でも概ねその気持ちは変わっていません。理屈ではわかるのですが、なにせ実践が大変に難しい学問であると感じたのです。ですが、その書籍を漁るように読んでいる自分がいる、それは何故か。どんなに困難でも、いつかはこの学問を実践して人生を全うしたい。このようにすら思わせてくれるほどに魅力があるのです。
おそらく現在の自分の多くをこの学問に否定されるはずです。社会という枠組みの中で仮面をつけて生きることが「正」であると認識するのなら、なおのことそう感じるでしょう。しかしながら、アドラー心理学はこの考え、喉元に鋭い刃を突き付けてきます。口汚い風刺の表現などではなく、ひたすら人を穿つような内容ではありません。そうじゃないのに、こんなにも僕の当たり前だと考えていた人間に対するそれを、あるべき姿として提示するだけでえぐってしまう。そんな学問です。
『嫌われる勇気』は導入には最適な書籍です
内容は哲人と青年の対談形式で行われます。難しい専門用語などは一切なく、いつのまにか終わりまで読み進めてしまうほどの平易さを持ち合わせています。同時に、アドラー心理学の概要をすんなりと把握できるでしょう。アドラー心理学とはなんぞや?っていう人は、まずはこちらの書籍から読んでください。『幸せになる勇気』はその続編としてえがかれている部分が多く、こちらから入ってしまうと「ん?」となってしまう人がいるような気もします。補助として『アドラー心理学入門』を読んでおくと、より理解がスムーズかもしれませんね。
『幸せになる勇気』は実践的内容
哲人と青年の会話形式、という部分では前作『嫌われる勇気』と同じです。これも大変理解しやすい形式ですね。内容的には前作でアドラーを学び、納得したと思われた青年が、実際に教育者として子供たちと触れ合った際にアドラー心理学の実践の難しさを目の当たりにし、その疑問を哲人にぶつけたものとなります。
具体的には子供たちを褒めも叱りもせずに見守った結果、半ば学級崩壊へと至ってしまった。ほかの教諭は叱りつけてそのような事態を防いでいるのに、自分はアドラーを知ってしまったばかりに苦悩している、という不満をぶつけたものです。これについて哲人が再びアドラーの心理を語り、他者を信頼したり尊敬したりする重要さを青年に対して説くことになります。
後段では「愛」について踏み込み、青年が人を愛することは「落ちること」であると説いたのに対して、哲人はそれを全面的に否定する。運命の人などはいない、愛とは自分が幸せになる勇気をもって、決断するものだと。「わたし」という概念を脱却して「わたしたち」というステージへ移行せよと説きます。これも一言では言い表せぬ深さがあります。
アドラーは学ぶことが第一歩である
僕がこの学問を社会で実践するにあたっては、大きな困難が予想されます。それだけに「実際に実践するのは無理なんじゃないか」とすら思わされている。ですが、おそらくアドラー心理学はここが出発点なのだと思います。自分が学んだことを実社会で実践して、摩擦を体験して、辟易して。そんななかでも「孤独な実践者」として信念をもってそれを持ち続けて・・・いつか自分なりのアドラーを人生で実践する時が来る。そんな学問なのではないかと。
今はまだ復職待ちの状況ですが、これから復帰していくうえでは避けて通れぬ様々な人間関係の軋轢があるのだと思います。その中で課題の分離であるとか共同体感覚であるとか、人生のタスクについて思いをはせ、そして上手くいかずにアドラーを否定するタイミングもあるかもしれません。ですが、きっとその時はまさにアドラーを身をもって学んでいる時なのだと思います。今は理屈として心の中に灯っているこの学問が、実践の難しさを体験することで磨かれ、自分らしく輝く日がいつか必ずくるのではないかと信じてやみません。
この学問を学べたことは本当に幸運でした。まさに劇薬、知ってしまえばもう後戻りはできませんが、僕はいつか幸せな人生の道しるべとして誰かにこの学問を語れる日が来ると信じています。
どうか一読ください、『幸せになる勇気』を。
長いアドラーとの人生が始まりました。