リンガル・リテラリー・エージェンシーの活動理念

「うちで作った本を英語に翻訳してもっと多くの人に読んでもらいたい」
そんな相談にいくつものってきた。

ニューヨークの出版社や海外のブックフェアで出会う編集者に聞かれる。
「So, where’s the next Haruki Murakami?(次なる村上春樹はいないの?)」

海外出版を望む日本の著作と、海外からそれを求める声があるのはわかっていても、そのつなぎ方はこの上なくむずかしい。英語版を“作る”ことなら誰にでも、 どんな本でもできる。翻訳代を支払って製本すればいいだけだ。だが、それだけではいくら作っても1冊も売れない、つまり、読者には届かない。売れなければ、翻訳の手間ひまをかけたコストの分だけ損をする。著者のもとに一銭も印税が入らない。そしてそれは誰のためにもならない。

そんな思いで数年エージェントとしてできる限りのことをしてきたが、昨今は韓国や中国も自国のコンテンツ輸出に国力を注いでいることもあり、ひとりでは限界があることも思い知らされた。海外出版にこぎつけるために何が必要とされているのか、より多くの人に知ってもらいたい。以下は、そのための次なる取り組みを、リンガル・リテラリー・エージェンシーのミッション・ステートメント(行動理念)としてまとめたものである。

Lingual Literal Agency Mission Statement

版権輸出のメリット

この5〜6年、日本でも電子書籍の出現で「本の読まれ方」が多少変わったものの、出版産業全体で見れば、あいかわらず出版不況から脱出できていないのが現状であり、これ以上いくら本をたくさん上梓しても、自転車操業の車輪がさらに早く回るだけで、出版社が潤うこともなければ、著者が印税で食べていけるようにはならないだろうという不安がある。ここへ来て取次や版元の倒産ニュースが聞かれ、長らく親しまれてきた書店が次々クローズするなど、産業の構造そのものが疲弊している兆候と捉えることができるだろう。

高齢化・少子化による人口減により、紙に刷ろうが、デジタル化してネットにアップしようが、今後も本を読む人の総数はますます減っていくだろう。ならば、同じ本を1冊作るのでも、国内(つまりは日本語)の読者だけを対象にして終わるのではなく「他の言語圏に版権を売る」という形でコンテンツを輸出するのがひとつのオプションになると考えるのは当然ではないだろうか。

政府主導の「クール・ジャパン」活動に(一応)本が含まれるとして、税金を使って海外ではなんの力もコネもない役人がカンヌ映画祭に出かけて行き、パーティーで寿司を振るまい、パビリオンで「くまモン」を踊らせたところで日本製映画の海外 distribution rights が売れるわけでもなければ、海外映画のクルーを国内ロケ誘致できるわけでもなかろう。本とて同じことだ。

湯水のように税金を使い、豪華な資料を作って海外のブックフェアに出かけて行き、本を紹介するブースを作っても、それはただ店を出したのと同じであって、それだけではダメで、そこに客を呼び込み、興味を持ってもらえる資料を渡し、あるいはアポを取ってカタログを見せ、どういう本があるのか、どういう読者なら楽しんで貰えそうなのかを伝えなければ、何も売れはしない。

なぜ、英語で出すことにこだわるのか

国際出版社協会(International Publishers Association)の2012年の調査では、世界の書籍マーケットでの総売り上げ額は約14兆円、日本のシェアは第4位で7%となっている(20年ぐらい前までは10数%で第2位だった)。トップは相変わらずアメリカで、4分の1強を占める26%。「その他」に含まれる国には、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ、など英語が公共語の国が多い。「英語圏」の国の他にも、欧州各国は第2言語として英語で本を読める人が多く、ヨーロッパ以外にもシンガポール、インドなど、英語の本であれば流通する国々が多い。

フランクフルトやロンドンの国際ブックフェアでも版権取引の際に商談に使われるのは英語だし、翻訳書のコンテンツを探している編集者は英語なら読める人がほとんどだ。彼らは英語を ”Useful intermediary” つまり、便宜上、言語のバリアを超えるためのツールとして英語を使っているに過ぎない。言い換えれば、英語をツールとして同じ土俵に上がらねば、そこから他の言語圏で勝負することはできない。アメリカ文化への追従だとか、帝国主義のスキームとは何ら関係ないのである。

大原ケイ
Kay Ohara