菅 直人(衆議院議員)インタヴュー|私に入ってきた情報を意図的に隠したことは一度もない

By RollingStone Japan 編集部

東日本大震災、福島第一原発の事故から約3年。あの日を境に、日本人の原発への意識は変わった。
しかし、事故であぶり出された諸問題の解決までの道のりはまだまだ長そうである。
あの時、そこで何が起きていたのか、菅 直人が語る明日への希望─。

─震災から約3年、時間の経過とともに、福島原発事故に関して、いろいろな事実が明らかになる一方で、未だ釈然としないことが多々あります。今回、菅さんにまず伺いたいのは、当時、なぜスピーディ(SPEEDI)が使われなかったのかということです。

「スピーディとは、文部科学省が所轄官庁の緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム。つまり放射性物質が出るような事故が起きた時、どの方向に流れるかをシミュレーションするソフトなわけですね」

─はい。113億円の開発費を投じて作られたんですよね。

「そのとおりです。2011年3月11日、地震、津波によって事故が起きて、原子力緊急事態宣言をしました。すぐに官邸に、原子力安全・保安院の責任者の寺坂(信昭)さん、原子力安全委員会委員長の班目(春樹)さん、東電の関係者に集まってもらったんですが、彼らからスピーディの存在や、それが避難の時に活用できるという話は残念ながら一切なかったんです」

─存在自体を知らされなかったと。

「はい。そうは言っても私が政府全体の責任者ですから、当時の総理大臣である私に最終的な責任があります。その立場で言えば、スピーディがありながら、それを的確に活用できなかった事実は本当に申し訳ないと思っております。ですが、誤解がないよう伝えたいのは、私なり官房長官なりが知っていて隠したとか、知っていて使わなかったということは一切ありません。情報が伝わっていれば、当然使っています」

─だと思います。

「使うことができなかった経緯を簡潔に言えば、そういうことです。実際にスピーディの話が出始めたのは、事故から1週間ぐらい経ってからでした。その時でさえ専門家である原子力安全・保安院の関係者は、『放出した放射性物質の量がわからないと利用できない』と言っていたんです。実際は出た絶対量はわからなくても、何割くらいがどの方向に流れるかはわかったので活用すべきでした。活用すべきだと思った人も現場にはいたようですが、少なくとも私にそういう説明がなかった」

─では、スピーディを所轄する文部科学省から、総理に直接連絡は?

「さまざまなメディア、特に朝日新聞の『プロメテウスの罠』(福島第一原発の破綻を背景に、国、民、電力を考えるという連載企画)の検証によれば、文科省からかなり早い段階で原子力安全・保安院の事務方には伝わっていたんです」

─なぜ総理の耳まで入ってこなかったんでしょうか。

「原子力安全・保安員や原子力安全委員会のトップが、それを私に伝える重要性について理解していなくて、原災本部の議論の中に出してこなかったということだと思いますね」

─組織の問題だったと。

「残念ながらそうなります。ある一定のレベル以上のアクシデントが原発で起きた場合、原子力災害特別措置法に基づいて原子力災害本部を作り、総理大臣が本部長になることが決まっている。その事務局は、原子力安全・保安院が担う。原子力安全委員会が総理に専門家の立場から助言を行う。だから、原子力安全・保安院から総理に『この場合はこうしたほうがいい』と上申するのが普通のあり方なんです。そのための専門集団として官僚組織があるわけだから。ですが、実際情報は足元まで来ていけれど、私まで上がってこなかった。今回の原発事故ではこういうことは氷山の一角で、ほかにもたくさんありました」

─そうでしょうね。

「そういうふうに、当時原子力安全・保安院の委員長から、私にとって的確な状況判断がなかなか上がってこなかったので、『あなたは原子力の専門家なの?』って聞いたわけです。そしたら『いや、私は東大の経済学部卒です』と。経産省だから、もちろん経済の専門家もたくさんいなきゃいけない。だけど、事故が起きた時に対応する直接の官僚組織のトップが、原子炉の専門じゃないし、経験もないという状況で。もしかしたら彼もスピーディについての予備的知識がなかったのかもしれない」

─なるほど。

「そもそも経産省は、どちらかと言うと原子力推進のため、事故が起きた時の対応よりも、原子力行政に対応する性格が強かった。つまり、どうやって原発を動かすかというほうにウェイトがかかっていたんです。それは人事においても同じで、原子炉について専門的に学んでいない人がトップになっていた。それも含めて、ソフト的な意味でも機能しないシステムだったんです。先ほども申し上げたとおり、もちろん最終的には私の責任ですが、背景を言えばそういうことです」

─そうしたさまざまな政治的な原因も重なり、放射能による被害が拡大したと思うのですが、国の見解では被爆による犠牲者は出ていないということになっています。それに関してはどうお考えですか?

「福島の原発事故による犠牲者は避難中に亡くなったお年寄りなども含め、たくさんいらっしゃいます。だから、原発事故で犠牲者が出ていないというのは間違いです。急性被爆、つまり東海村の事故のように、放射能を直接浴びてすぐに亡くなったというケースはありませんが、いろいろなレベルで被爆されている方がいますから。これから被曝が原因で亡くなる方がでてくる可能性はあると思います。あるいは今、実際に被曝が原因で亡くなったけれども、一般の癌だと対応されてしまっている場合も十分あり得ます。そういう意味では、原発事故の被害者は相当いると認識しています」

官邸がメルトダウンを
隠したわけではない

─では、次にメルトダウンのことについて聞かせて下さい。菅さんの近著『「原発ゼロ」の決意』にも書かれていますが、福島第一原発の事故で、最初にメルトダウンを起こしたのは1号機。しかも震災後の約4時間後に始まり、夜7時ぐらいにはメルトダウンしていた。ただ、発表されたのは事故から2カ月後でした。その間1号機のメルトダウンに関する情報は、東電もしくは保安院から官邸に上がってきていなかったのでしょうか?

「事故調査委員会の報告も含め、1号機のメルトダウンはおっしゃるとおりのタイミングで起きています。東電がメルトダウンという表現も含めて、正式に認めたのは5月になってからで。その間は炉心損傷という言葉で言われていて、どの程度の損傷なのか非常にわかりにくかった。東電がそのことをきちっと報告しないまま言い繕ってきたんですね」

─なるほど。その言葉を信じたい一方で、例えば『福島原発事故 東電テレビ会議49時間の記録』(岩波書店)では、事故当時、官邸から〝プレス発表を控えろと言われた〟という文言が散見され、市民のなかには、官邸がメルトダウンの情報を隠蔽していたのではないかという憶測もあります。

「そのことでまず申し上げたいのが、〝官邸〟という言葉の使い方です。当時官邸には、武黒(一郎)さんという東電の方も来ていました。『「原発ゼロ」の決意』にも書きましたが、〝官邸の指示で、1号機への海水注入を止めた〟という報道がありました。それは菅の指示だと言われたけど、官邸にいた武黒さんが言ったわけです。官邸というのが、官邸にいる私なのか、あるいは政治家なのか、役人なのか。それとも官邸に来ていた東電関係者なのか。海水注入に関しては、官邸に来ていた東電の武黒さんが言ったことですから、それを官邸というのはミスリードなんです。あなたが指摘した個所については、細かく具体的に検証しなきゃいけないと思いますが、少なくとも私ないし官房長官が、上がってきた事実を隠したことはないです」

─はい。

「それから、『炉心の中の燃料が溶けているとみてよい』と記者会見で言った原子力安全・保安院の審議官(中村幸一郎)を官邸が更迭した、という報道もありました。ですが、私が知る限り、官房長官が言った意味は、『記者会見をするなら、官邸と原子力安全・保安院の発表内容を一致させないといけない』ということなんです。要するに、ちゃんと情報を共有してから発表してほしいということですね。それが曲解され、過剰な抑制につながったというのは事故調査委員会の報告書にも出ています」

─なるほど。

「止めろとか、勝手に発表するな、という意味だったわけでは決してないんです。官房長官も含めて、我々が知り得た事実をパニックが起こるからとか、そういう理由で止めたことはない。あるとすれば、唯一最悪のシナリオに関してです。それは、事故が最悪の事態になった時に半径250㎞圏、つまり東京を含むおよそ5000万人の人が避難しなければならないという可能性について。それに関しては、シミュレーションが上がってきてから、どう扱うか考えました。近藤原子力委員長からシミュレーションが提示された3月25日時点では、既に原子炉や使用済燃料プールに注水ができるようになり、危機のピークを超えていたので、すぐには発表しませんでした。それ以外は上がってきた情報を意図的に隠したことは、少なくとも私はない。私の知る限り、官邸の政治家もありません」

奇跡が重なり、
被害は拡大しないですんだ

─では、その最悪のシナリオを思い描いた時の心境を聞かせて下さい。

「心境は置いておいて、私はそうした最悪のシナリオを描かなければならないほどの事故の恐さが、本当の意味で国民に伝わっていないのが問題だと思っているんです。1号機、2号機、3号機がメルトダウンしただけでなく、4号機の使用済み燃料プールの水が蒸発してメルトダウンする可能性がありました。そうなれば、東京も壊滅する最悪のシナリオになっていました。そうならなかったのは偶然が重なったためなのです。原子炉とプールの間のゲートが圧力で隙間ができ、原子炉側に残っていたプールに流れ込んだという偶然です。その幸運な偶然がなければ、東京は壊滅的な被害を受けていました。『「原発ゼロ」の決意』で〝神のご加護〟と書いたのはこのことなんですが、本当に紙一重だった。だけど、それが多くの人に共有されていないと思うんです。5000万人が避難しなくて済んだ、で終わっている。それがどの程度ギリギリの状態だったかという認識はないと思うのです」

─なるほど。

「4号機のプールだけではありません。2号機も放射能漏れを起こしていたのだけど、それは格納器に穴が開いたからなんですね。その時に、もしゴム風船のようにバーンと爆発していたら、近くの人は大量被爆し、まったく近寄れなかった。ですが、そういう爆発の仕方じゃなく、紙風船に穴があいたように一部が壊れて空気が抜けたんですね。それによって大量に放射線物質は出ましたが、大爆発ほどの被害はなかったため、現場の作業員も一旦は逃げたけども、その日の午後に戻って対応にあたることができた」

─いくつもの奇跡が重なった、と。

「もちろん東電の現場も、自衛隊も、消防も、警察も、まさに皆が命懸けで頑張ってくれたことに加えて、こうした〝神のご加護〟とも言える幸運が並行してあった。それによって、250㎞圏のすべての人が逃げなきゃいけないという最悪のシナリオまではいかないで済んだんです。この実感を共有できてない。この実感を共有した人と、共有してない人ではこれからの原発についての考え方がまったく違うと思うんです。確かに、国としては経済政策も福祉政策も必要です。しかし、東京を含む5000万人が20〜30年間、避難しなければいけない可能性があったわけですから。経済だ何だという枠組みそのものが全部押し流されるような事態に、紙一重だったわけです。ですから、少しでも違っていたらどこまでの事態になっていたのか、客観的な事実を、ぜひ皆さんにわかってもらいたい」

─そこはとても重要だと思います。それをふまえたうえで菅さんに伺いたいのは、万が一また事故が起きた時に同じ過ちが起こらないようなシステム的な対策はとられているのか、ということです。

「3年前の反省から、いくつかの変化はあります。例えば、原子力安全・保安院を、経産省内から移管して、環境省の外局とし、新たに原子力規制委員会を作りました。その事務局が原子力規制庁です。そうして当時の問題点を改善し、ある部分進んだことは事実です。ただ、同じことが起きた時に的確に対応できるかというと、今の状態ではまだ不十分だと私は思っています」

─それは、どういう部分で?

「一般的に、安全性の確保を考える時、大きく2つの意味があります。1つは事故を起こさないようにする、あるいは事故が起きる可能性を低くするということ。もう1つは事故が起きた時にどういう影響が出るのか、という意味での安全性。この2つは性格が違いますよね。1つめにおいては、原子力規制委員会が新たな規制基準を作りました。もっと高いところに電源を置こうとか、もっと水密性の良い扉にしようとか、堤防を高くしようとか。その新規制基準に合致しているかどうかをチェックします。ですが、例えば、国際的なテロなどから原発へ攻撃があった場合の対策の基準には、残念ながらなっていない」

─なるほど。

「もう1つの安全性という意味での基準の話をすると、例えば、四国電力の伊方原発は、細長い佐田岬半島の根元にあります。台風が起きて、鉄塔が倒れて電源喪失になり、福島と同じような事故になった場合、半島の先に住んでいる5000人はどうするのか。逃げることが可能なのか、あるいは逃げたとしても何年後に戻れるのか。そういう安全性を誰が判断するのか。原子力規制委員会は判断しないと言っています。では自治体に権限を与えるのか、与えないのか。そこがはっきりしないわけです」

─うーん。

「それ以外にも問題はあります。今、原子力規制委員会が、原子力災害対策指針を出し、原発から30㎞圏内の自治体に、原発事故が起きた時の非難計画を含んだ防災対策を作るように言っているんです。でも、いくら対策を作っても、30年間、あるいは半永久的にその土地から逃げなきゃいけない計画だったら、何の意味があるのか。そういった意味で、先の質問に端的に答えるとしたら、いろいろやってるけれど、やはり十分でないということです」

原発ゼロへの道筋

─では、事故を経た今、菅さんは原発に対してどう考えているのでしょうか。

「3・11までは、安全性をちゃんと確認していれば大きな事故は起きないだろうという前提で原発を許容してきてしまいました。ですが、自然災害やテロなどの人為的な攻撃も含め、原発事故を100%抑えるのは不可能です。ですから100年に1回でも日本の1/3が潰れるほどの巨大なリスクを抱えた原発を使うことは、もう考えられない、というのが私の結論です」

─僕もそう思います。

「最近、原発事故を原子力災害と表現しますが、災害というと自然災害のイメージが強いですよね。でも原子力災害はいわば文明の災害です。地震のような自然災害は、起きること自体を阻止するのは不可能です。しかし、原発事故は原発をなくせば確実に事故もなくすことができます」

─原発ゼロに向けて、具体的に今後どうしていくべきでしょうか?

「今、原発は54基あるけど、事故の翌日の時点は27基を動かしていました。その後、すべて止まりましたが、浜岡だけは政治的に停止させたんです。それ以外は、私が総理だった時に再稼働条件を厳しくしたことから、定期点検が終わったものも一部の例外を除いて動かせていない。その結果、この2年間で原発が稼働しなくても電力が賄えることが実証できたわけです。動いていない原発も危険性はゼロではないけれど、稼働中に比べればリスクはぜんぜん低い。だからこのまま再稼働させずに、順次廃炉にしていければいい」

─はい。

「しかもコスト的に考えても、再稼働させれば必ず使用済み燃料ができて、その処理には膨大な費用と膨大な年月が掛かる。再稼働させないで順次廃炉にしていくという選択が、経済的にもプラスになるわけです。さらに言えば、脱原発を実行するために、私の総理最後の仕事として、太陽光発電や風力発電などの再生可能エネルギーの固定価格買取制度を導入しました。その成果があって、今、もの凄い勢いで再生可能エネルギーが拡大しつつある。だから10〜15年も経てば、原発が占めていた電力は再生可能エネルギーで十分賄えるし、将来的に化石燃料も減らすことができる」

─僕もそう思います。

「最終的には、国民が自分たちのエネルギーを選択するべきです。特に原発は。必要な時は専門家の知識を借りるけど、選ぶのは国民。まして若い人が選択すべきだと思います。リスクが高く、経済的にも高いものを今後も使いたいのかどうか。私から見ると方向性ははっきりしています。原発を後世に残すわけにはいかないんです」

─貴重なお話をありがとうございました。こうしたお話も、総理大臣現職当時はなかなかできなかったんですよね。

「総理大臣っていうのは、ものが言いにくいんです。もっと自由に言えば良かったのにってよく言われるんだけど。トータルな責任者だから。自民党がいろいろ言うと、『誰が原発を造ったのよ!』って嫁さんは怒鳴っていたけど、さすがに総理大臣はそうは言えないから。もっと自由に言ったほうが良かったのかもしれないけどね(笑)」

─また総理をやりたいと思いますか?

「(苦笑)」

NAOTO KAN

菅 直人 ○ 1946年、山口県生まれ。衆議院議員。70年、東京工業大学理学部応用物理学科卒。78年、社会民主連合を結成、副代表に就任。80年、衆議院選挙で初当選を果たす。96年、橋本内閣で厚生大臣に就任。薬害エイズ問題を徹底究明、被害者に厚生大臣として謝罪。9月、鳩山由紀夫氏らとともに民主党を結成、党の代表に就任。2010年6月、第94代内閣総理大臣に就任。2011年3月11日の東日本大震災、福島第一原子力発電所事故が発生時に、内閣総理大臣として地震災害ならびに原子力災害対策の陣頭指揮に当たる。新刊書籍『菅直人「原発ゼロ」の決意』を2月に発売した。

菅直人
「原発ゼロ」の決意

七つ森書館
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Text by Joe Yokomizo
Photograph by Hiroki Nakashima