森内俊之と久保利明の将棋は二人らしい粘り強い激戦の末に最終盤をむかえていた。
久保が▲9六銀と打つ。後手玉への詰めろである。しかし、先手玉も既に危ない。森内はわりと落ち着いた感じで先手玉を詰ましにかかる。
数手進んで久保が静かに駒台に手を置いて投了の意思を示した。
その瞬間に、森内の残留と久保の陥落が決まった。
重苦しい沈黙が続く。狭い対局室の空間も時間も完全に凍結され、その場にいあわせていた人間も物体も死の沈黙に包みこまれて一切の動きを禁じられている。勿論対局者二人もかたまったままだ。
ふと、久保が9六にいる銀を1マス横に移動させて▲8六銀をパチリと指す。
そして小声で、
――こっちでしたかね。
――えっ…銀ですか?
森内がこの極限の緊迫状況のもとでも、人の良さが滲みでずにはいないハッキリした声で答える。
ほんの一瞬だけ場の空気が和らいだようにも思えたが、その直後にまたしても死の沈黙が続く。
二人とも駒を動かさない。あるいは、動かせない。森内はじっとしたまま考え続ける。久保も同じだが、しばらくしてうつむいて頭をかかえる。
そう、▲8六銀とすれば詰めろ逃れの詰めろになって先手玉がどうしても詰まないのだ。
久保はその事を察してしまった。森内も猛烈に頭を回転させて詰みを探すが、どうしても見つからない。
二人にほとんど動きはないのだが、これほど全てを物語っている沈黙はめったにない。
ようやく森内が駒を動かして詰まそうとする。しかし、それもすぐに止まってしまう。普段は均等に流れているはずの時間が、この空間では極端に歪み、対局者二人の重苦しい感情に邪魔されて、超低速のスローモーションになってしまい、遅々として進まない。
その一方で、二人の頭脳の中では、光にも近い極限の速度で駒が動き続けているのは明らかだ。そこでは時間は極端に速く進んでいる。
しかし、その軽やかな動きが、深い感情に沈みこむ肉体に妨害されて表にはどうしても出てこない。
その後も人間にはほとんど耐えがたい時間の停滞と、その合間にちょっとした駒の動き。このまま永遠の責め苦が続きそうだったが、久保が本当に囁くようにそっとつぶやく。
――こっちでしたね……..
この呪文によって、ようやく死の沈黙の呪縛が解かれ、時空の極端な歪みも徐々に回復されてくる。
森内が、その前の自分の寄せのまずさを嘆く。つまり、▲8六銀とされていたら負けだったと認めたという事である。
初期画面に盤面が戻され、やっと普通の感想戦が始まった。
将棋はたった81マスの小宇宙の中でのできごとである。しかし、その小宇宙には無限に近い世界がひそんでいる。
そして、たった1マスの違いが、その世界の容貌を一変させてしまう。どこかにある8六銀のパラレルワールドでは、世界の行く末結末が全く異なるのだ。
そしてそれが一人の人間の運命をも結果的には左右してしまうのである。