対人関係の話でさ、それはリアルやネットに関わらず。コミュニケーションをとっていて、こんなことを言われたこと、誰にしもあるはずだよ。
「そんなことも知らないの?」ってね。
これにアルティメット級の馬鹿さ加減を感じるんだ。
そんなことも知らないの
ちょっと細分化して考えてみましょう。「そんな」は「こんな」や「あんな」に置き換えてもOKです。「どんな」にしちゃうと完全無垢な知識を指して意味が変わってくるのでNG。ようは意味さえ曲がらなければ言葉の1文字1文字にこだわる必要はないってことです。
さて、「そんな」とはある特定の分野であるとか事象、固有名詞、あらゆるものを指しますね。例えば昨日に全国を騒がせる、それこそ新聞の一面を飾るような凶悪事件があったとして。それが会話中に自分は知っていたけど相手が知らなかった場合が解りやすいです。「そんなことも知らないの?」の「そんな」は件の事件に該当しますね。
次に「知らないの」これがまた曲者なのですね。そして究極の馬鹿を生み出す白痴的ワードともいえる。「知らないの」つまりは知っていて当然という物言いでしょう。先ほどの例を再び挙げますと、昨日に起きた超有名なニュースについて相手がそれを知らなかった。つまり知っている人の分母が大きい、つまり知らないほうが珍しいといったケースにこの「知らないの」が使われることが大半でしょう。かたやエンタメ人口の0.01%にしかわからないマニアックな知識を指して「知らないの?」という風にはなかなか使わないものです。つまりは「多数派の知識を振りかざすこと」または「自分の中で当然と考えていることを相手が知らなかった場合のエゴ」→「知らないの?」なのです。
自分が知っていることを相手も知っている「べき」という概念
理屈で考えれば、これがいかに間違った思考かがわかります。自分と他者が全く別のものである。この大原則を理解できぬものが、さきほどの『知らないの?症候群』(勝手に命名します)に罹患します。
同じ人間であることは間違いありませんが、それは生物学的な特徴でカテゴライズしたに過ぎず、それぞれの個体がどんな思考をするかは生来的なものもあろうし、また育ってきた環境などによって大きく変わってくるはずです。
例えば眼前で起きた状況についても捉え方だって千差万別でしょうよ。あるひとはどうでも良くても、ある人にとっては死活問題。このように状況の捉え方すら別になるのです。それが件のニュースを見たか見ないか、つまり情報の選択をするかどうかでも分かれることは自然なことだと思います。ライフスタイルの差もあるだろうし、たまたま見れなかった可能性だってある。
それを見ないことをすなわち「人間じゃない、仲間じゃない」と考えることは実に狭量な考えの持ち主がすることでしょうね。「そのことは知っているべきだ!」なんて、よくもまあ恥ずかしくもなく公言できるものです。
ちなみに、今回の件は「そんなことも知らないの?」と言葉にする人だけを指しているわけではありませんよ。コミュニケーション上で「知らないのかよ」と態度を急変したり接し方を変える人も同じ穴のむじなです。
自分が知っていて相手が知らないことについて何らかの歪んだ意味を付してしまい、それが優越性となって噴き出すのでしょう。原因は解りません、何か自分の中に拭いされない劣等感があるか、それとも相手との境界が曖昧になるか。なんにせよ「お可哀想に」と毎回思わざるを得ません。
『知らないの?症候群』の人は危険な状態なのでお薬飲んでください
もちろん比喩的な意味です。これら危険な病気を治療する薬はありません。そもそも診療している病院がないでしょう。自分で気づくしかありませんよ。いまいちど、原理原則を考えてください。自分と他人は別物なんです。自分の知っていることを相手が知っている、なんていう神をも恐れぬ冒涜的で歪んだ考えを今すぐ捨ててください。たとい相手が自分と同じことを知っていても、当然と思わないことは言うまでもなく、それは「ラッキー」くらいに捉えて良いと思います。
これを実践できれば「そんなことも知らないの?」なんて言葉、決して飛び出さないはずです。また、思想としても消えていくでしょう。相手がもしそのことを知らなくて、それでも知ってほしいという希望があるのなら「これは、こういう意味です」と説明すれば良い。それで相手が聞くか理解するかは別の問題ですからね。
誰かに対して「そんなことも知らないの?」と言っちゃう、または考えちゃう人は割と病気に近いですので、早いところなんとかしましょう。