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Where to take me? 三陸鉄道「鉄道ダンシ」ライトノベル化応募未完成作

作者:橘 未桜
 鉄道とは、運ぶものである。人を、荷物を、想いを時にはその人の人生を…届かない遥か先まで、運ぶ一つの道具である。よく人生を途中下車のできない列車旅行のように例える人がいるが、私はそれと同時に鉄道そのものに命を感じている。一定のテンポで刻まれる揺れ、変わり行く景色…あぁ、この車両はいったいどんな世界を感じ、どんな想いを抱きながら多くのモノを運んできているのだろうと…。彼らは、運び続けているのだ。距離や時間を越えて…。

「ユウ、ユーウいるか!?」

いつものように走り去る列車を見送ると、騒がしい声が静かな駅構内に響き渡ってきた。それと同時に慌しい足音まで聞こえてくるとなると、頭の一つも抱えたくなるものだ。神秘的でどこかガラスのように脆い美しさを持つ宮沢賢治の童話の世界の入口として知られているこの駅には、なんとも不似合いといえる。
「私は、いつでもこの駅で待っていますよ?どかいたしましたか、レン。」
皮肉めいた口調を交えながら、同期であり、志を同じくする恋し浜レンを出迎える。平時ですら、海面を明るく照らす太陽のような強い力を待っているレンだが、どうやら何か面白いことを見つけたらしい彼の瞳は、いつも以上に輝きを増していた。彼は基本的に非常に能動的であり、その行動力には憧れに近いものすら感じるのだが…如何せん突拍子もないことを言い出すことも多いのが難点だ。

「幽霊が出たらしいぜ!」

果たして今日もそうだった。

「…さて、次の企画についてそろそろ恋ヶ窪君の意見も聞きながら話し合いをしなくてはなりませんね。」

「いやいや、スルーすんなよ!幽霊!幽霊!それも猫耳に袴姿、長い黒髪で儚げな雰囲気の大和撫子風美少女!な、ユウお前確か弓道部だったよな?興味あるよな!」

私は、思わずため息をつかずにはいられなかった。
そんな明らかに近年の日本文化である萌えを体現したかのような特徴のありすぎる幽霊に脅えろといわれているのか、それともそれこそ萌えろとでも言われているのか…理解するには時間がかかりそうだった。そして声を大にして言いたいのは、私は決して袴が好きだから弓道をしていたわけではないということだ。
さて、どうしたものかと考えているとタイミングよく電話の鳴る音がする。軽く肩を揺さぶってくるレンを手で待て、と制するとこれ幸いとばかりに受話器をとった。

「はい、もしもしこちら三陸鉄道…」

「田野畑先輩!」

こちらの応対よりも早く、切羽詰った声で名を呼ぶのは、大学時代の後輩恋ヶ窪ジュンだった。それこそ大学時代、よく通学で同じ車両に乗り合わせた際には「少しシャイ」な一面を持つ彼が物憂げに景色を見つめる表情に日本の美のようなものを感じさせられたものだった。
その彼が、こんなにも声を荒げているのを聞くのは初めてかもしれない。何事が起こったのかと心持ち、受話器を持つ手に力が入る。

「ゆ、幽霊さんが・・・お出になられたらしいのです!!」

言葉を失うとは正にこういう状況をさすのだろう。
幽霊などそうそう簡単にでるものではない…少なくとも私は一度も見たことがない。
相変わらず、きらきらとした瞳でこちらを見ているレンとおそらく電話の前で真面目な表情をしているのであろうジュンを想像しながら、私は、さてどうしたものか…と答えを探すように人知れずため息をつきながら、線路の先を見つめていた。
まだ、肌寒さの残る空に、細かい雪が舞っていた。先の見えない線路の向こうで…一体何が待っているのだろうか。

 一言で言ってしまえば、大人びた風貌を持ちながらいかにも女性受けのよさそうな長身の青年と対照的に、おどおどとして、恥ずかしそうに青年の袖を掴みながらいかにも一部の層に受けそうな小柄なツインテールの少女…いや女性の奇妙な二人組みがやってきたのはその数日後のことだった。
彼らは東北を拠点として活動をしている小さな劇団の団員らしく、あの震災の後この岩手県をはじめとする多くの被災地を回りながら、自分たちにできる限りのことをしたいと復興支援として劇やボランティア活動を細々と行っていたそうである。
こちら側は、劇団と何かと段取りをしてくれていたレンと話しのまとめ役としての私に、タイミングが良すぎる幽霊話を聞いたジュンがわざわざ東京から集まっていた。

「はじめまして、劇団涼風団員の水無月咲也です。」

「あ、あの・・・はじめました・・・違った、はじめまして、同じく涼風の橘莉桜です。」

相手が女性だったら見惚れていたであろう完璧なスマイルの青年と、緊張からか子ウサギのように震える女性の第一印象のとおりの挨拶に、少し安心しながら私もつけていた白い手袋を外して頭を下げた。

「足元の悪い中、ご足労頂きまして、誠にありがとうございます。この三陸鉄道で働いております。田野畑ユウと申します。どうぞ、宜しくお願いいたします。」

咲也と名乗った青年と握手を交わすと、横ではジュンと莉桜というやはり、見た目的には少女と言う方がしっくりとくる女性が挨拶を交わしていた。
どうして少女、女性と言い直すのかというと、それというのも、事前にレンが

「見た目で判断するとびっくりするから言っとくけど…今回のお客様はどちらも大学院生だからな。」

と意味深な忠告をしていたからである。つまり、この一見少女に見える莉桜さんは、少なくとも成人していてさらには大学も卒業していることになり…さほど私たちと年齢に差があるわけではなく、少女と評価するには失礼にあたるということだ。
そして、どうしてレンがそんなことを知っているのかといえば、レンは彼らが恋し浜駅の貝殻絵馬に興味を持ち、公演の空き時間に観光に来ていたときに案内をしたことで出会い、そこで今日は来ていないらしいが海をこよなく愛する団員とすっかりと意気投合をし、互いに地元の「復興」という未来を見据える仲間としてなにかと情報を交換していたそうだ。
そんな時に、レンが彼らから聞いたというのが先の幽霊の目撃談だった。

「早速ですが信じる、信じないは別として、お話を伺ってもよろしいでしょうか?」

私の言葉に、劇団の代表としてやってきた二人は肯くと、青年が口を開いた。

「あれは、この駅の近くの大きな桜の木のある場所をお借りして、劇を行った日の帰りの出来事でした。それぞれが、自分の担当する機材や衣装の片づけを終え始め、俺と莉桜が最後に会場のゴミ等の確認をしに、観客席におりたんです。あの年は桜が咲いても雪が降ったり寒さが抜けなかったですよね…そう、あの日も、せっかく綻んだ桜が凍えてしまうのではないかと心配になるような風が吹いていました。」

そこで、話をバトンタッチするように二人は目配せをした。

「あの、私…桜の花が大好きで、こんな厳しい環境の中でも今年も桜の花が咲いてくれたのが嬉しくてついそっちばかり見ていて…。そうしたら、女の方が一人で桜の木を見上げていて…あれ、もしかしてまだ、お客さんが残っていたのかなって、咲也兄さんに伝えたのです。」

つまり、最初の目撃者がこの子で、次が青年ということなのだろう。

「俺も、お客さんだと思って声をかけようと思ったんですよね、でもよく見たら服装というかあちこちに違和感があったんですよ。それで二人で顔を見合わせていたら、他の団員達もやってきたんです。」

その違和感というのが、和服姿に猫耳?というものだったのだろう。少なくとも私たちよりそうした服装に慣れているはずである劇団という環境にいる二人が戸惑うということは、よほどのことだと思われる。

「それで、どうなさったのですか…お声をかけた?とか…」

「あー、なんていうか、恥ずかしい話なんですが、その姿を見た団員の二名が・・・」

言いにくそうに言葉を濁す、彼の様子からなにかとてつもなく恐ろしいことが起こったのかと、私とジュンの間には緊張が走った。

「えっと・・・なんていうかね、可愛いモノと萌えに命をかけていて、正しくそういう要素に目がない白衣を着た男性団員とゆるふあ〜なお姉さん団員が鼻血を吹いたり、なんとかあの美少女を持って帰るーって叫んだら…」

白衣?ゆるふあ?と予想外の単語が続き、そして…

「…恐れをなしたのか、その幽霊のほうがスッと消えていたって訳です。」

なんとも言えない空気が漂う中で、どうやらその団員たちに思い当たる節があるらしいレンのみが笑いを堪えながら、俯いていた。ここまでで分かったことといえば、目撃者はこの二人だけではないということ…団員の中に更に個性的な人が少なくとも二名はいるということだ。
つまり、この話は簡単にまとめてしまうと「本当に怖いのは、生きている人間である」という結論となる。
いや、しかし、いくらなんでもこの為だけにわざわざこうして集合したとは、考えにくい…というよりそこで終わってもらっては困ると私は、何かそこに意味を見出そうと努力した。
するとずっと自信なさげで、兄と慕う咲也さんの影に隠れていた莉桜さんが意を決したように強くまっすぐな視線でこちらを見てきた。

「あの、その子きっと行きたい場所?逢いたい人が…いるのだと思うのです。私、目があった時、すごく寂しそうに微笑んでいて…線路の沿線を静かに指さしていたのです。でも、私には土地勘もなんにもなかったから…分からなくって…何もしてあげられなくて、そしたらレンさんと出会って…色々とお話をしていくうちに、この方たちならなんとかしてくれるんじゃないかって…すみません…勝手なのは分かっているのですが…力を貸して下さい。」

それが、この子の精一杯だったのでしょう。一息で言い切ると、また最後の方は弱気な口調に戻ってしまい、そしてまた俯いてしまう。その頭を青年がよくやったと優しく撫でている。

「なぁ、ユウ…俺さ、どうしてもこいつらの話し他人事とは思えないっていうか、なにかしらあると思うんだよな〜。」

その言葉に、ジュンも賛成のようだ。

「僕もなんです。実はそのお話しおばあちゃんから聞いたんです。昔、まだ結核が不治の病だった頃に空気の綺麗な土地に来ていた方が…言い方を変えてしまえば隔離に近い形で岩手に治療に来ていた方がいたそうなんですが…その頃にちょうどその様な姿で演劇をされていた方がいたって…偶然にしては、できすぎていませんか?」

「ジュン君の実家は東京ですよね?岩手とは距離が離れていませんか?」

「いぇ…それがおばあちゃんが戦争で一時的に岩手のほうへ疎開に来ていたときの話だそうなんです。」
それでも私は、そんな非科学的な…と心のどこかでこの話しを信じられずにいた。

「ユウはさ、気にならないのかよ?」

「いえ…決してそういう訳ではないのですが…。」

何かが腑に落ちない。こんなにも偶然というものは重なるものだろうか?考えてもなかなか気持ちがまとまらない。しかし、こう言うときには、私には昔からのとっておきの方法がある。

「少し、寒いですし…せっかく来ていただいていたのに何もお出ししておりませんでしたね。失礼いたしました。ジュン、あれを持ってきてもらえますか?」

「あ、はい!少し待っててください。レン先輩はどうしますか?」

「あー、んじゃ俺はストレートで。」

「あ…すいません、俺らには気を使わなくて大丈夫なんで!」

流れから自分達へ紅茶かコーヒーが準備されていると気がついた咲也さんが遠慮するが…ここは、私としてもこの地に来ていただいた以上譲れないものがあった。

「…このまま帰してしまうようなことがありましたら、田野畑の名が泣きますから。」

私はにっこりと微笑んだ。

「あーぁ、これ逃げらんねぇやつだ、諦めなって。」

何故か、私がこうして微笑むとき、レンとジュンが困ったような表情を見せることがある。少しすると、慣れた様子でジュンが人数分のカップをお盆にのせて戻ってきた。

「お待たせしました、熱いので気をつけてくださいね?」

「ありがとうございま…って、牛…牛乳…さん!?」

まさか!?とばかりに手渡されたカップを見つめながら莉桜さんが先ほどまでとは違った意味でガタガタと震え出した。

「あ、もしかして牛乳にアレルギーがあったりしましたか?」

ジュンが心配そうにすると、咲也さんがカップを手に固まったままの頭をポカッと軽く叩いた。

「はぁ…気にしないでください。ただの飲まず嫌いですから。」

…飲まず…嫌い…
そのフレーズで私の表情はそのままカチリと凍りついた。

「せ、先輩、田野畑先輩、落ち着いてください!お茶持ってきますから!」

「莉桜さん…少しこちらに正座してください。」

「ひゃ、ひゃぃ!」

「ちょ、落ち着けってユウ、莉桜ちゃん怖がらせてどうすんだよ!?」

「別に怖がらせるようなことをするつもりはありませんよ?…ただ、少しじっくりとお話しをしたいだけですから。」

「すいません!こいつのぶんもありがたく俺が勿論飲みますから!」

「甘やかさない!!」

ヒッと周囲の男性陣が息を飲んだような気がしましたが…そんなことは関係ありません。
アレルギーがあるわけでもなく、見ただけで牛乳を飲まないというのでしたら…私は莉桜さんと話し合わなくてはならないのです。

「莉桜さんは、牛乳の何が苦手なのですか?」

「あ…あの…何と言いますか牛くさい…感じが…あとお腹ぐるぐる鳴るんで…」

正座するとより一層体の小ささが際立って見えた。これでは本当に小学生位の大きさしかない。

「では…牛が嫌いなのですか?」

「そ、そんなことないです!優しい目をしていて可愛いです!」

「あの、田野畑さん莉桜は肉系列もあんまり得意じゃないんですよ。でも野菜と魚はちゃんと…」

おそらく助け船をだそうとしたのであろう咲也さんを視線でたしなめると、私は莉桜さんが握りしめたままのカップを受けとり…静かに魔法をかけることにしました。

「どうぞ、騙されたと思って口にしてみてください。もしこれでも苦手だと感じたのでしたら、私もこれ以上無理強いをすることはいたしませんから。」

促され、恐る恐る口をつける姿を全員が祈りにも似た感情で見つめていました。

「あ…美味しいです!温かくて甘くて…不思議、少しお花みたいな香りがします!」

「気に入っていただけてよかった…私の特性のブレンドですよ。この牛乳は実家のものです。子どもの頃から飲んでいましたから、私はこの牛乳に関しては絶対と言っていい程の自信を持っております。いいですか…莉桜さん。牛乳には緊張を和らげる作用もありますし、しっかりとカルシウムをとり日光に当たることで骨を丈夫にすることもできます。ただ苦手だからと口にしないのでは勿体無いです。特に女性の体はデリケートですから…無理にとは言いませんが、避けるのではなくたまには口にしてみてください。きっと良いリフレッシュになると思いますよ。」

微笑みながら頭を撫でると、莉桜さんは一瞬呆気にとられたかのように固まったあと急に頬を赤らめて、よほど気に入ったのか一気にカップの中身を飲み干してしまいました。

「…良かったら、もう少しお入れいたしましょうか?今のは、温めた牛乳に蓮華を主とするハチミツを少々加えたものです。」

「はい、お願いします!…あ、あと、あの自分でも試してみたいので…入れるところを見ていてもいいですか?」

「えぇ、構いませんよ?お気に召したのでしたら牛乳とハチミツを少しお持ち帰りください。」

「わぁ、いいのですか!ありがとうございます!帰ったら他のみんなにも作ってあげたいです!」

「そうでした…確か牛が好きだと言ってましたね。先ほども申しましたが私の実家は酪農を営んでいて私も休日は手伝いをしています。良かったら、動物たちを見に来ますか?」

「行きたいです!あの、お馬さんもいますか?」

こうやってしっかりと視線をあわせて話してみれば、莉桜さんは警戒心こそ強いけれど非常に人懐っこく素直で可愛らしい方であることがよくわかった。子どものように好奇心が旺盛で愛くるしい動作から、咲也さんが必要以上に手助けをしようとしたくなる気持ちもわからなくもない。

「あのさ、レン…あれは…なんだ…田野畑さんの口説きのテクニックか何かなのかい?」

「いや、本人にその気はないし本当にただ牛乳を勧めたいだけなんだけど…なんでかなぁ〜…あれやられると敵わないよな。」

「先輩は、大学でもあんな感じでしたよ。すごく真面目で丁寧で…そこでたまに見せるギャップが色んな方から好評でした。僕もあんな風になりたいです!」

後方から何かしら余計なことを言われているような気がしますが…今は聞かなかったことにしましよう。せっかく芽吹いた牛乳好きの種を摘むわけにはいきませんから。
私は莉桜さんをつれて、急騰室へとむかうことにしました。

「…んで、なんでこうなった?」

日が傾き始めた頃に、レンが苦笑いを浮かべながら私と莉桜さんを交互に見つめている。
正確に言えば、莉桜さんは私の背中の上で唸っているのだが…。

「申し訳ありません、咲也さん…つい色々とブレンドの仕方を教えていたところ、牛乳を飲ませすぎてしまったようで…。」

これには、流石の私も頭を下げるしかなかった。
彼女が初めに言った「お腹がぐるぐる鳴る」というのは、本当に乳製品に敏感な体質だったらしく、しかもほとんど飲んでこなかった牛乳を美味しい、美味しいといきなりたくさん飲んだため、当たり前といったら当たり前の結果として…腹痛に襲われることとなってしまった。

「おぉ…みごとなまでに顔色悪いな…まったくだからいつも調子に乗るなって兄ちゃん言ってんだろ?」

背中から「あにゅ」という奇妙な悲鳴が聞こえた。どうやら容赦なく、でこピンされたらしい。

「こちらこそすいませんでした、田野畑さん。お守りをさせた上に、運ばせてしまって…重たいですよね、代わります。」

「いえ、体重は逆に心配なくらいに軽いのですが…少しお休みになったほうがよいかと思いまして…。」

しかし、確かレンから二人はそれぞれ宮城県の大学に通っていると聞いていてため、帰りを遅くしてしまうような提案もしにくいものだった。

「田野畑先輩、僕そういう時の対処法をおばあちゃんから聞いているので、仮眠室をお借りしてもかまわないでしょうか?」

ジュンはおばあちゃん子で、そうした知恵袋的知識でよく私たちを驚かせてくれる。

「それは勿論、かまいません…というよりもお願いしたいくらいですが…咲也さんお時間のほうは…?」

この時、レンと咲也さんが浮かべた笑顔になぜかぞくりとした。

「じゃぁ、申し訳ないのですが…恋ヶ窪さんに莉桜のことをお願いして…」

「俺と咲也とユウで…問題の場所へと向かいますか!」

「はい?どうしてそういう流れになるのですか?」

「いやー、二人が牛乳で熱く親交を深めている間に俺らも俺らなりに話し合っててさ、夕方になったらその木の場所に行ってから咲也が帰ろうと思うっていうから…どうせなら直接見たほうが良いかなーって訳だ。」

どうやら牛乳で熱くなりすぎていたうちに、話しはどんどんと進んでいてしまったようで、しかし、私としてはこんな青ざめた表情にさせてしまった莉桜さんを置いていくというのも厳しい話だった。

「…では、莉桜さんには私がついていますから、当初の予定通りジュンを連れて行ってあげてください。」

その時、急に背中が軽くなった。はっと振り返ると咲也さんが莉桜さんを抱っこしてジュンへ託しているところだった。

「すいませんが宜しくお願いします。」

「はい、任せてください!莉桜ちゃんあっちに布団敷きましたから、歩けますか?」

「は…はい…大丈夫です…迷惑かけてごめんなさい…田野畑さん、咲也お兄ちゃんをお願いします。」

一本とられた…と思った。こんな具合悪そうによろめきながら、潤んだ瞳で言われた言葉を却下などさすがにできない。

「わかりました…お大事にしていてくださいね。」

後ろでニヤニヤしている二人と大きく乗りかかってしまいすぎた船に、もはやつくため息すら失っていた。

「ここ…ですね。」

咲也さんに先導されて来た場所は、確かに駅からもそんなに遠くなく、私も通ったことのある場所だった。しかし、だからこそここで幽霊を見たなんて話があったとすれば聞いていないはずがない。

「どれ、大和撫子ちゃんはいずこに!」

「レン…あなたは何を期待してきたのですか。」

もはや議論しようとは思わなかったが、とりあえず突っ込みを入れておかないとレンも興奮して、幽霊をおびえさせかねない勢いを放っていた。
咲也さんが周囲をうかがうように、歩くのについていくが、それらしいものは目に付かない。

「やはり…思い違い…ん?」

私が話し出そうとしたとたん、なにか優しい声が耳に届き、私たち三人は顔を見合わせるとその方向を向き…そうして声を失った。
黒髪、揺れる袴、特徴的な耳…リンっと鈴の音がして、そっと鉄道の先に手を伸ばす女性。
動けば、消えてしまいそうな儚さをまとったそんな存在が…私たちに微笑みかけ…そして次の瞬間。

「き…消えた?」

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 あまり明るいとは言えない道を車が走る。時間が遅いためか、他の車ともほとんどすれ違うことはない。運転手にとっても勝手知ったる我が道…というわけではないようで、仕切りにカーナビに目をやっているのだが、彼の運転は驚くほどに揺れや、急なブレーキ等が少なく、非常に乗り心地がよいために長距離の移動となると皆がこぞって彼の運転する車に乗りたがる。そのために、不毛ともいえるようなじゃんけん大会が開かれることも珍しくない。
しかし、余程のことがない限りこの助手席に乗る人物は無条件に決定されている。何故なら、元々は運転手自身も特に安全運転を必要以上に気にしているわけでもなくどちらかといえば、免許をとった初めこそやや乱暴ともいえる運動をカッコいいと思っていたようなタイプであり…それがこのように非常に心地よい運動をするようになったのは…非常に乗り物に酔いやすい気の毒な妹分をなんとかしてやりたいという一心からのものであるからだった。その変化は、思わず周りの人々が思わずにやにやとしてしまうような微笑ましいものだったそうだ。
その為、この助手席は半永久的に指定席である。
「はぁ…なんとか…なりますかね?」
その助手席からは、ため息混じりの声があがった。すると後部座席でガサガサと音がして、少し明るめでウェーブのかかった髪を肩口でふわふわと揺らしながら女性が乗り出してきた。
「少なくとも、メイクアップは完璧、かな?かな?あーもう可愛い!お人形さんみたい!可愛い!!このまま着替えないで帰らないといけない展開になってくれたことにお姉さんは…お姉さんは…もう!もう!」
なんとなく、この動きで車が傾きそうなほどの勢いにやや前の二人は押され気味であったりする。
「たはは…いえ、そこはななも完璧だと思っていますよ?あいにゃお姉ちゃんのメイクアップはすごぃですもん…でも…ななが…うまくできてなかったんじゃないかって…」
「もぉ〜不安げな表情がさらに可愛い!可愛い!可愛いよぉ〜、ちょっと抱きつかせて、頬っぺたぷにぷにさせて!」
「う、うにににー…く…くりゅ…し……」
「はい、藍音さーん、ストップ、ストップ!七海の首落ちちゃうから、頭撫でるくらいで留めてくださいね…ぷにぷにしたい気持ちはよく分かるんで…後でゆっくり時間はとりますから。」
「…了承だよ…流石元団長さん、分かってる…抱っこもいいよね?」
「七海が窒息しない程度で頼みますよ。」
「はぁ…はぁ…た、助かった…。」
実際は、後回しになっただけであってあまり助かってはいないのだが…そこはあまり気にしてはいけないのだろう。
「大丈夫、七海は最高の演技をしたよ。あのときに見た彼女そっくりだった。」
「そう…かな…。」
運転しながらも、気遣うように頭を撫でる。猫のように目を細めながら、それでも声から不安の色は消えなかった。
「確かに…予想以上に田野畑さんは鋭そうだったな。」
「田野畑…えーと、あぁ、あのクールな感じのきちー」
「ちょっと藍音さん、七海の前で変な言葉は使わないように頼みますよ?」
「きちー?」
「…メガネが似合っている方だね、ね?はぅ〜でも、お姉さん的にはジュン君が可愛くて仕方がなかった!」
「離れた場所で待機していた割には…しっかりと観察されてますね。」
「それは勿論!ナニかあってからでは遅いでしょ!?」
どうしてカタカナで発音したのかとか…気になるが、そこを聞き始めてしまうと残念なことに本題につくことがなくなるのが、この藍音と呼ばれている団員の特徴であった。幽霊を怖がらせた片割れである。
「でも、七海がお腹を崩してくれたおかげで予定より、ジュンとの連携もスムーズに行って助かったぜ。」
その一言に助手席は赤くなる。
「…それは…忘れてよ…本当にピンチだったんだから…。」
やはり、しばらくまた牛乳とは相容れないことになりそうだった。
「とりあえず…田野畑さんについては俺がなんとかするから、大丈夫だって。レンも協力してくれるわけだし…ななは、十分に役目を果たしたって訳だ。あとはお兄ちゃんに任せて安心しなさい。」
「う…うん。そうだよね、ここまで来ちゃったらあとは野となれ、山となれ!ってやつだよね!」
「そうそう、ポジティブにね、ね!」
そんな和やかな空気になった瞬間、最近流行りの音楽ではなく少し前に流行った歌が少し落ち着いたテンポで車内に流れ出した。
「っと…俺の携帯だ。悪いけどちょっと待っててな。」
一言断りを入れると、静かに路肩へと車を移動してスマートフォンの画面をタップして電話に出る。はい、はい…と答える中に明らかに狼狽したような色がみえはじめた。なんとなく、車内全体が妙な緊張感に包まれていく。しばらくやり取りを続けたあとに、彼は非常に渋々といった様子で、分かりました。すぐにむかいます…と口にして、またスマートフォンの画面をタップして申し訳なさそうに助手席へと顔をむけた。
「あー、あの藍音さん、確か…明日夜勤でしたっけ?申し訳ないんですが、こいつがちゃんと寝ないで大学に行くまででいいんで、面倒見るの頼んでもいいですか?」
「うん、ななちゃんの面倒なら頼まれなくてもいくらでもみるけど…あれれ、これはもしかして…何か緊急事態だったりする…のかな?」
瞬時に一番リスクの少ない道を探るために少し口を閉じる。
「えぇ…っと、七海、藍音さん、ごめん、とにかく二人のことアパートまで送れなくなったから途中の駅でおろしてもいいかな?女性を夜に歩かせたくはないから…出来ればタクシーひろってあげたいんだけど、ちょっとその時間も無さそうで。」
非常に早口に言葉を進めていくと、カーナビに何かを打ち込み、また直ぐに車を走らせる。「ね、ねぇ…兄さん別にどこでおろされても、タクシーも構わないんだけど…どうかしたの?」
「…七海、団則13条…覚えてるか?」
「えっと…確か団員は学生であれば学業を、社会人であれば自らの責務を第一にこなさなければならない…でしたっけ?」
少し考えたあとに、疑問系で答える。
「その通り…んで、たった今俺には指導教官から今すぐ東京の学会の手伝いに来いとの連絡が入ったわけで…学生の本分を果たさなくてはならないと。」
ここまで言われてしまえば…なんとなく嫌な予感しかしなくなってくる。そこは、大学院生同士だからこそ伝わる暗黙の了解的な部分もある。
「それは…もしかして…つまるところ…。」
「悪い…数日留守にする!と言うかたぶん、缶詰めになると思うから。レンには伝えておくから、なんとか田野畑さんのことについてうまく乗りきってくれ!」
「ええぇーーー!?」
先程までの頼もしい発言が、前言撤回されるまでの早さが史上初だった。車内には、最早悲鳴にも近い悲痛な声が、いつまでもこだましていたとか、いなかったとか。
「…冷静な眼鏡鉄道男子対涼風きっての妹キャラ…お姉さん、見守ってるね!」
お願いだから、手伝ってください。とあえて頼まなかったのは、なぜかさらにトラブルが増えそうだと判断されたからだった。

「ふむ…別におかしなところはありませんね…。」
昨日の夜の出来事がまだ信じきれないでいる私は、一人昼休みの時間帯を利用して、幽霊が現れた木をもう一度見に来ていました。別になんの変鉄もない木…。そしてあの幽霊は昼間だからなのかやはりいない。
「となれば…昨日の幽霊は、集団幻覚かなにかでしょうか…あれだけ話をしてから行きましたから、何かを目にして勘違いをした可能性もありますね。」
いわゆるオカルトでありがちな集団心理が働いた可能性を真っ先に考えてしまう。特にこっくりさんを行った女子などが、一人が何らかの異常を訴えると次々と同じような症状を訴えると言うようなものだが…。
「そうですね…思春期の女の子ならまだしも成人をむかえたいい年の男三人組にそれが起こったというのも考えにくいものですね。」
だとすれば、本当に幽霊はいたということになるのか。そしていたとするならば、何を伝えたくて私たちにまで姿を見せたというのか…一向に疑問が解けないまま次々と新しい謎ばかりが増えていく。
「お、ユウじゃん?何々、やっぱお前もあの幽霊が気になってきちゃった感じ?」
「気にならなかったと言ったら嘘になりますね。」
「だよな、予想以上に和服の似合う幽霊だったしな!」
少し離れた位置から、レンも様子を見に来たのかこちらに手を振っている。…それと同時に余計なことも言っている。
「…私にも見えたということは少なくとも、私もなにか力になれるということでしょうし…なにより」
「私は一度起こった現象は結果まで自分でしっかりと見届けないと納得できませんってやつだろ?やっぱユウは真面目だよな〜。」
先の台詞をすっかりと読まれてしまっていたことは少し不本意でしたが…その通りだったので口を挟むことはやめました。
「やっぱ…特に普通の木だよな。」
そう言いながら、ベタベタと幹をさわって確かめていくレンにずっと気になっていたことを聞くことにした。
「レン…あの幽霊をどこかで見たことがあると感じませんでしたか?」
「ふぁ!?なんだよ、それ!?ユウが冷めた感じでいたのは、実はすでに幽霊を見て見慣れて日常とかしていたとかそう言うことか!?」
過敏すぎるくらいに驚いたレンに対して、私は言葉を間違えたと反省した。
「…どうやら言い方が悪かったようですね。そうではなくて…誰かに似ているような気がしてならないのですが、心当たりはありませんか?」
「誰かに…似ているような…んー…?」
考えながら、木の周りをぐるぐるとまわり、ハッとして手を叩く。
「まさか、死んじまったと思っていた…ばぁちゃん!そうまでして俺のことを心配してくれて!?」
「…昭子さんに伝えておきますね。」
「やめて、ユウ、やめて、一歩間違うと明日から俺がここに出てくるようになってしまうから!マジでごめんなさい。」
ちなみにレンのおばあ様である恋し浜昭子さんは元気一杯にご存命で、今でも海辺を繁盛期にはホタテをたくさん乗せた自転車で走り回っている。昔から、レンがなにか悪さをしては全速力で追いかけてきたため、近所ではその二人のやり取りが話題になっていていたらしい。ちなみに私もお会いしたときに、流石はレンのおばあ様だと納得させられました。逆にジュンのおばあ様は、ジュンそっくりでこちらも驚かされました。

 東京にいる僕のもとへ、涼風の団員さんの同じく東京にいる方が来るという知らせがレン先輩から来たのは先輩方が本当に幽霊を目にしたというあの日からすぐのことでした。なんでも本格的に演技を学んでいる方らしく…僕で大丈夫なのかと少し身構えてしまいます。緊張しながら待っていた僕のもとへ約束の日にやって来たのは綺麗な黒髪をポニーテールにしたどこかキリッとした印象のある女性でした。初めに会った団員さんの莉桜さんとは正反対なイメージです。
「小野寺渚と申します。はじめまして。」
「あ、ジュンです!恋ヶ窪ジュンです宜しくお願いします!」
と僕が差しのばした手をじっと見つめた後に、渚さんは申し訳なさそうに首を横に振った。その意図がつかめずに、手をだしたままとまってしまいました。
「申し訳ないのですが…私男の方が苦手なので握手はしなくても良いでしょうか。」
少し冷めた言い方につい、心がぐらついてしまう。拒絶されてしまったわけではないのでしょうが…初対面からしてこの対応で、僕は果たしてこの方と仲良くなれるのでしょうか…無意識に少し距離をおいてしまう。
「すいません…馴れ馴れしかったですよね。」
「…いえ、私の都合です、すいません。」
「いえいえ!僕だって苦手なものに近寄られたら逃げたりしますから、気にしないでください!それよりも不快に感じることがあったら遠慮ならさずに言ってくださいね!」
「本当に…申し訳ありません。」
「いえ!こちらこそ…。
」焦って大丈夫だと手を振ってみせると、二人揃って謝りあってしまい渚さんが少し微笑んでくれたのが分かった。笑顔が優しくて…ほっとしました。
「聞かないのですね…どうしてそこまで…男の方が苦手なのかとか。」
「…それは…確かに全く気にならないと言ったら嘘になりますが初対面の僕がなんで?なんで?と聞いていいことじゃないですし、話したいなと思ったら話してくださったらもしかしたらお力になれるかもしれませんし、そんな風に思えたらで構わないんです!あ…でも少し仲良くしていただけたら…それは嬉しいですけどね。」
わたわたと話してしまって…強引すぎたかなぁと顔を見つめてみると、渚さんがクスクスと声を殺しながら笑っていたのがわかって…ホッとしたら僕まで力が抜けて笑い出してしまいました。
「ふふふ…ジュンさんが優しい方で安心しました…安心しました。咲也さんのようなタイプの方だったらどうしようかと思っていましたから…。」
「へ?咲也さんのような方…堂々とされていてカッコいいですよね、正しく劇団員さんのスターさんって感じがして…。」
「確かにそうなのですが…対面的に付き合うには私には苦手なタイプです。リーダーシップと誤った方向への男らしさのようなものを混同して…拗らせたような方なので。莉桜ちゃんのお兄さんとしてはすごく包容力のある良い方だと思いますが…ね。」
あ…だからレン先輩から東京でなくても構わないのだけど、俺だと多分うまく話が進まないから…と言葉を濁らせられながら指名で僕が会うことになったのか…なんとなく雰囲気が似ているレン先輩と咲也さん二人を比べながらそんなことを意味もなく考えてしまいました。
「それで、ジュンさんのおばあ様が私たちの初代団長様のことをご存じかもしれないとのことでしたよね?」
「あ…そうです。おばあちゃんが昔、涼風さんの劇を見たことがあったそうなんですよ。その時のことがすごく心に残っていたそうで…できたら団員のかたに直接お話しを聞いていただけたらと思ったんです。」
「きっと、本望ですね…私たちの劇も…そんな風に誰かの心に残り続けたら…どんなに嬉しいでしょうか…。」
人の心に強く刻み込まれるような物語を作り上げるということは、きっとすごく大変なことで…だからこそこうして時が過ぎても覚えていてくれる人がいて、それこそが自分たちの生きた軌跡になると渚さんは僕の家へとむかう道すがら静かに口にしてくれました。なんとなく…僕は今まで考えていたよりもずっと真摯に向き合っている姿に自分の考えが恥ずかしくなり…より力になれたらと思い直すことになりました。
「あ…つきました、ここが僕の家です。なんにも遠慮することはないので…えっと、ただいま帰りましたー。」
「お庭も綺麗にされているんですね。こんにちは…お邪魔させていただきます。」
すると、声を聞いたおばあちゃんがすぐに出迎えに来てくれました。小さい頃から、おばあちゃんは必ず僕が帰ってきた声がするとこうして出迎えに来てくれて…それがすごく嬉しかったのを今でも覚えています。
「あら、お帰りなさいジュンちゃん…まあ、まあ、これはまた綺麗なお嬢さんを連れてきちゃって、もしかして…彼女さんかい?」
「ちょ、ちょっとおばあちゃん違うって…こちらは…渚さんっていって…えっと…」
ただでさえ男が嫌いと言っていた渚さんが気分を悪くしていないかという不安と、まだ出会ったばかりである僕らの関係性をなんと説明したらいいのかとしどろもどろになってしまっていたら、渚さんが静かに視線をあわせるように腰をおろしてかわりにおばあちゃんと話をしてくれた。
「いきなり来てしまってすいません…私、劇団涼風の団員で小野寺渚と申します。ジュンさんにはうちの団員がみなお世話になっております。」
社交辞令なんだろうな…とは思いつつもなんだか自分が急に大人の世界の一員になったように感じむず痒くなってしまう言葉でした。
「劇団…涼風…。」
「おばあちゃん、昔、おばあちゃんが見て忘れられないって話していた劇をされていた方々の後継者さんたちがまだ劇団を続けていたんだよ!先輩たちが見つけ出してくれたんだ!」その瞬間に、おばあちゃんの目が丸く見開かれるのを感じて…僕は記憶を探ろうとしているんだなと感じとりました。
「もしかして…あの涼風さんなのかい?本当に…今でもこうして…あのめんこい天女様の後を継いでいる人たちがいるのかい?」
「天女…?」
「えぇ、えぇ、私が見た劇ではね…それはそれはめんこい方が天を舞うように優雅に袴の袖をひるがえしてね…あんまりにも神秘的な美しさだったから、みんな天女様だ、天女様だって噂をしていたんだよ。」
「…そうだったのですか…私は、私たちは実際にお会いすることもできなかったので…そうですか…先代はそんなに…皆さんに思われて…。」
渚さんは…なにか思うところがあったのか言葉につまってしまっていました。どうしたのだろう?と思いながらも少し伏せられた顔からは、残念ながら僕には表情を読み取ることはできませんでした。
「もし…よろしければ、もう少し、お話しを聞かせていただいてもかまいませんか?教えていただきたいんです…私たちの知らない…私たちの劇団の歩んできた軌跡を探しているんです。」
「えぇ、えぇ、勿論かまいませんよ。私のお話しなんかでよければ、聞いてくださるのは大歓迎よ。ジュンちゃん…ジュンちゃんの好きなお菓子を買ってあるからお茶を準備してきてくれるかい?さぁさぁ、お嬢さんはこっちに座って…。まずは何から話そうかね、もう五十年以上も前のことだからね。」
僕の好きなお菓子をいつもおばあちゃんが準備していてくれるのは、嬉しいのだけど…なんとなく渚さんの前で言われるのは恥ずかしかった。でも、お茶を運んでくる頃には…楽しそうに目を細目ながら話すおばあちゃんと渚さんの姿に、僕の好きなお菓子が渚さんも美味しいと思ってくれるといいなと考えるようになっていた。隣で二人のくるくると変わる表情を見ながら、僕もその話を聞かせていただくことにした。
「とても不思議な気分でした…本日は遅くまでお邪魔させていただき…本当にありがとうございました。おばあ様にも、くれぐれも感謝していたとお伝えください。」
夕飯を食べていったらいいのに、というくらいの時間まで気がついたら話し込んでしまったおばあちゃんと渚さん。勿論、おばあちゃんは渚さんも一緒に夕飯を食べていくようにと強く誘ったのですが、さすがに申し訳ないと残念ながら次の機会にもちこしというお約束になって二人は別れました。僕は渚さんを最寄りの駅まで送りながら、何度もお礼を言われ…そのあまりの丁寧さにすっかり恐縮してしまっていました。
「いえ、本当におばあちゃんも楽しんでいて…その、おばあちゃんの子どもの頃の話をできるお友だちさんも減ってきているそうなんで…僕も嬉しかったので、良ければまたお話しを聞きに来てください。」
「…ふふっ、ジュンさんは本当におばあ様思いの良い方ですね。あのお二人の思い出だというお菓子、とても美味しかったです。」
「え…!」
「?おばあ様からお聞きしました、このお菓子はジュンさんが好きだからいつも買っているんだって…。」
「あぁ…おばあちゃんそんなことまで話して…それは僕の昔話ですね…参ったな。」
「素敵なおばあ様ですね。…だから、ジュンさんもこんな方に育ったのだと…まだお会いしたばかりなのに納得してしまいました。」
少し狼狽えてしまった僕を見ながら…電車が到着したアナウンスが響き渡り、最後にもう一度…僕に向かってお辞儀をした渚さんの表情には、とても優しさに溢れた笑顔が浮かんでいて…彼女を見送ったあとも、なんとなく僕はしばらくその場を離れることができなかった。
「…おばあちゃんが見たという天女様もこんな感じだったのかな…。」
ホームをかけていく風だけが僕の呟きを空へと連れていった。


 仙山線…その名の示す通り仙台と山形を結ぶ列車に、今私とレンは揺られている。というのも「約束の場所」の手がかりとなる幽霊本人の日記を預かっているのが莉桜さんということがわかり、彼女と会おうとしたところ

「どうやら少し早く着きすぎてしまったみたいですね。どうしましょうか、レン?」
「んー、その辺に莉桜ちゃんいないかな?」
そんなに簡単に見つかるのだったらおそらく待ち合わせ場所を指定したりはしないし、ここに限らず大学というものは意外と在学生であっても自分の使用しない場所については答えられなかったりするものだ…という自分の経験談もあり、迂闊に動くべきではないだろうと私は判断していた。
「話しに聞いたところでは、この大学はいくつかキャンパスがあるそうですから移動中かもしれませんね。」
この駅自体も学生数や学部の増設により、最近作られたものらしい。
「おっ、すっげぇ!鉄道交流ステーションってのがある!行ってみようぜ!」
子どものように落ち着きなくあちこちを見ては、待ち合わせとされていた東北福祉大学前駅からすぐに目に入るステーションキャンパスと書かれた建物の中へとレンが飛び込んでいってしまった。部外者が立ち入っていいものなのだろうかと不安になりながらあとに続くと、建物の中には電車の座席が待ち会い席として置かれていたりして非常に興味深いのも確かだった。
「もしよかったら、見ていってください。今は鉄道のフォトコンテストや歴史に関する展示がありますよ。」
学生さんだろうか…まだ若い女性に声をかけられる。
「部外者が入っても大丈夫なんですか?」
「勿論です!ここは一般解放していてお子さんもよく模型を見に来るんですよ?」
そんなやりとりをしているうちにレンはサッサと中を見て回っている。確かに中には一般の地域の人たちも食堂などを利用しているようで、年齢的な見た目から言えば私もレンも大学生に溶け込んでいる方だった。なんだか懐かしいような…恥ずかしいような不思議な感覚だ。
一通りの説明をうけて、あとは自由にその小さいながらに色々と作り込まれたスペースを見学していた。…それにしても限界はあり、私は途中で時計を見ると待ち合わせの時間が近くなっていたためレンに声をかけようとしたが、何かすごく興味を惹かれるものがあったらしいレンは、さっきのアルバイトの学生さんに頼んでさらに詳しく説明のできる職員さんを呼んで、何やら話し込んでいた。レンは一つのことに集中すると止まらなくなる。私は、ため息をつきつつ少しこの場を離れる旨を託すとステーションキャンパスから目の前の駅へと足を戻した。
しかし…そこで電車が二回ほど行き過ぎても、莉桜さんはやってこない。講義が長引いているのかもしれないと思いつつも携帯電話に連絡をしてみるが、圏外を伝える味気ないアナウンスが流れるだけだった。圏外?確かにまわりは山が多いが、仙台市に位置するこの大学が圏外ということはあるのだろうか…。仕方がなく要点をまとめて咲也さんにメールを送るとこちらにはすぐに返事が来た。
「何々…この時間だと、図書館の書庫にいるかもしれない…書庫?」
そう言われてもやはり位置がつかめない。仕方なくレンの元へ戻ると職員さんとレンはまだ話し込んでいた…余程、話題があったらしい。
「あれ?ユウー、莉桜ちゃんは?」
「それが…まだ来ないんですよ、携帯電話も圏外ですし…咲也さんに聞いたら、図書館の書庫にいるかもしれないと言われたのですが…」
事情を話していると、人の良さそうな職員さんが誰かを探しているのか?と聞いてきてくださった。
「はい、実は待ち合わせをしておりまして、こちらの大学院の学生さんのはずで…名前は橘莉桜という女の子なんですが…。」
「…橘…莉桜?おかしいな…うちの大学院はそんなに人数は多くないはずなんだけど…莉桜…ちょっと待っててもらえるかな?」
そう言うと、ガラス張りのスペースへと移動してどこかに電話を掛けてくれているのが分かった。学部かなにかを聞いておかなかったことをしまったと思った。
「分かったよ、橘さんね、莉桜っていうから分からなかったけど七海ちゃんか!」
「七海ちゃん?」
これには私とレンが揃って首を傾げる番だった。
「あーっと、確か、七海ちゃんは演劇か何かをしていて…そこでの名前が橘莉桜だって聞いたことがあったな。本名は橘七海ちゃんだよ。お兄さんたちももしかして劇団のかたかい?舞台栄えしそうな声とスタイルしているね!」
「あ…そうだ、あの子も役者なんだった。」
レンの一言は言いたいことは分からなくもないが、失礼にあたるぞというべきか悩むラインだった。これで大学ではキリッとしていて…私たちの前ではわざとあんな弱々しいイメージを作っていたといったらどうするんだ…と思いつつも何故かそれだけはないような気がする。

「た…けて…さー!…す…け…だ…」
ふと耳の片隅に途切れ途切れの声が聞こえてきた気がした。思ったよりも自分の足音が大きくコツン、コツン、と響いている。
「誰か…いるのですか?助けてください!」
どこから声が聞こえてきているのか、薄暗さと反響する声のせいで位置がつかめないが助けを求めている人がいるのは確かなようだ。
「どこですか?大丈夫ですか?」
「あれ…この声…もしかして田野畑さん?こっちです!一番端の本棚と壁の間に…」
位置を聞いて、そちらの方向へ足を早めると図書館の壁と移動式の本棚の狭い隙間に長い黒髪の少女が…
「挟まっていますぅ。」
…その言葉の通りに、非常にうまい具合に挟まっていた。
どうやら壁を背に本を探していたところを気がつかれずに誰かが、他の本棚を移動させてしまい、慌てているうちに押し返そうとしても押し返せない重さになってしまっていたようだ。見た目的には、吹き出してしまいそうな状況ではあるがその危険性を考えれば笑っている場合ではなかった。
「あと少し我慢していてください、今本棚を動かしますから…っと。」
一気に動かそうとすると、さすがに横側からでも重さがあったため、何段かにわけて移動させていくことにした。
「た…助かりました。」
へたっと力が抜けたように座り込んだ少女に大丈夫ですか?と手を差し伸べようとすると…スッと上がった顔が暗闇の中だからか、黒目が大きくみえほどかれた黒髪に少し不安そうな表情には見覚えがあった。
「幽霊…」
「ひっ!?嘘ですよね?冗談ですよね?後ろになにもいませんよねー?止めて!いないって言ってください!」
私が、あの木の下で見た幽霊がビクッとして支離滅裂なことを口走りながらしがみついてきた。この小動物のような動作、アニメの様に高めの少し幼さが残った声…。
「り…莉桜さん?」
「はぃ…そうですが…田野畑さん…幽霊さんは何処に?」
さっきは本棚に登りかけていたこともあって少し背が高く見えていたからか…それともあの特徴的なツインテールでないせいか、違和感はあるが…やはり目の前の少女は紛れもなく橘莉桜だった。
「すいません…暗かったのと髪をほどかれていた姿を初めて見たせいか…一瞬、あの時の幽霊に見えてしまいまして…お怪我はなかったですか?」
今度は明らかに自分の失態に気がついてしまったといった感じに表情に焦りが広がっていた。…なんでしょうか…ここまで分かりやすいと申し訳なくなってしまうというよりも罪悪感すら沸き上がってきてしまうという。
「すいません!まずは待ち合わせ時間過ぎてしまっているんですよね、すいません!そして来ないから探しに来てくださったんですよね…正直、とても命拾いをしました!ありがとうございました。本を探していたら…私がいることに気がつかないで誰かが別の本棚達を動かして…気がついたらあの状態になっていました。…待って!っていったのに…気がついてもらえなくて…携帯もリュックと一緒に机のとこに置いたままだったからどうしようもなくて…。」
大体予想通りの流れだったみたいだが、そこで携帯電話があったとしても圏外でしたよ?と伝えとこうかどうか迷ったが…トドメを入れることになりかねない気がしたのでやめておくことにした。それにしても牛乳といい本棚といい…この子は何かそういうものを巻き起こす力を持っているのだろうか。
「はぁ…今日は坂を下る時に穴に引っ掛かってしまいますし…ついていないです。」
その姿が容易にイメージできてしまう辺りが申し訳ないが…やはりどうにもなにかしらそういう運をもっているようだった。
そして下に散らばってしまった本をとろうと屈んだ辺りで…予想を裏切ることなく、他の本にぶつかって二次被害を生じさせてくれた。せめてもに並べる手伝いをしようとしたところ、どうにも書庫の本だけあって配架には少しコツがいるので…と、近くにあったリュックの置いてある机に座っているよう促された。また何かやらかすのではないかと…内心で少しドキドキしながら初めは見ていたが、院生は図書館の係りをすることもあるらしく思ったよりも手際がよく、失礼ながら感心してしまった。ふと手持ちぶたさになり机の上を見ると、「精神障害」や「偏見」等といった文字の書かれた論文が散らばっていた。
…そうだ、この子は役者である前に研究者でもあるのだ…と改めて失礼なことを考え…この子の本名といいなにも知らないことを思い出した。
「莉桜さんは…なにを専攻されているんですか?」
へ?と予想外の質問に振り返り、自分の広げた論文を見てあ!となる。どうにも、なにか恥ずかしそうだった。
「心理学と社会福祉学の中間くらいだと…ぼやかしてもいいでしょうか?」
「院にはいっていませんが、一応大学で論文を書いたものとして言わせていただくと…あまりあやふやにしていると悩むことになりますよ。」
論文を書ける時間は意外に短いと聞いたことがある。まして修士課程であれば自分の担当教授の色を学ぶ程度が限界だとも。
「私、大学では心理学を専攻していたんです…いえ、実はもっと前から色々失敗してきちゃって…本当になりたいものって分からなかったんです。そして就活の時期に…震災がありました。大きく環境が変わってしまって…それだけが悪い訳じゃないのですが、気がついたら動けなくて…そして流されるように…いえその時はとにかく動かなくちゃって、大学院に進んだんです。その時、専攻は社会福祉しか残っていなかったこともあって…こうしているんです。」
その判断が成功か、失敗かなんてことは誰にもわからないし…進んでみれば新たな世界に気がつくこともある。私自身があの震災を期に会社を辞めて地元の鉄道会社への道を選んだように。
「そんなとき、修士論文のテーマで悩んでいたら震災の時に精神科病院の存在は知っていても…場所を答えられる人が少なくて援助の手がはいるのが遅くなったって記事を目にしたんです。精神…いえ、心の問題って私にとっては他人事じゃなくて…なにかできないかなって思ったんです。」
本の題名を見つめる目には強い意志が宿っていた。そうか…余計なお世話だったんだなっと…その時に気がついた。
「そうですね、風景を見ながら、気に入るものを探せばいいのですよ…列車は必ず前に進みますから…。」
目を丸くして、はいと微笑む顔は…やはりあどけなさが強かったが、進む未来を見てみたいと思わせるものだった。
「ふぅ…終わりました、すいませんお待たせしてしまいまして。」

「…そうです…田野畑さんたちが見た幽霊は…私です。」
申し訳なさそうに頭を下げる姿。髪をおろしているせいか、声がいつもより落ち着いているせいか…それとも場所のせいか…はじめて彼女が年相応の姿に見えた。
人は一面からでは評価することはできない。いつも自分を守ってくれている兄の存在がないことで、この事態の責任を自分自身でなんとかしなくてはならないことを不安に感じてはいてもなぜ自分が対応しなくちゃいけないのだ?等と不満に思っているわけではないという点においては評価できる。大人として責任をとらなくてはならないこと、その責任という言葉、自分のしたことの意味をしっかりと認めているからだ。
「ただもしかするとあの日の私、そのものを疑わしく思うかもしれませんが…田野畑さんたちの前で、わざわざあんな風に演技をしていたのではなく、あれが本当の私です…大人になりたくないと…大人になりきれない子ども…お恥ずかしい限りですが…誰かがいないと、震えて動きだせない…未熟者です。」
気を持ち直したように、椅子から立ち上がると、乱れた髪の毛を手でさっととかし、静かに瞳を閉じてゆっくりと開く…。それだけの動作だったのだが、まとっている空気がまるで人が変わったかのように変化した。
そう…あの時見た幽霊の表情だ。
「確かに私たちは幽霊を見ました…ですが、信じていただけないと思ったのです…私たちですら…それが劇団の初代団長に関わることだと言われなければ…集団で見た幻覚かなにかですませてしまったと思います。それを…信じていただくにはどうすればいいか…結論として、こうして見ていただくのが一番だということになりました。」
幸いなことに、この橘莉桜という団員がその幽霊と似ていたのだという。やや低い身長は、高さのあるブーツで誤魔化し普段は髪を縛っておけば印象はだいぶ変化する。さらに話すことがなければ、ボロもでにくい。暗やみであることもそれを手助けする…なんとかいけるのではないか、それが現在の団長がくだした結論だったらしい。
「それにしては…随分と袴を着なれているように感じましたが…。」
袴というものは、着たことがなければ、非常に動きにくく普段の動作からすれば莉桜さんが踏まずにすんだことが少し気にかかった。
「実は…私は高校時代弓道部でした。あまりに下手すぎて…いえ、精神の統一ができないからでしょう…的以外の物に中るほうが多いという…迷惑な部員でしたが…。」
そう言われて、改めて立ち姿や初めて会った時に正座させた時のことを思い出した。…そうか、随分と綺麗な姿勢をすると思ってはいたが…自分が弓道部に入っていた時のことを思い出すとそれも納得のいく話だった。ただしく正座もできないような弓道部員はいない。また、弓を打つまで軸を意識し、筋肉ではなく骨で動かすためそれが、知らぬ間に動作にでることはある。自分もよく姿勢が正しいと社会にでてから誉められたものだった。
「猫耳…いえ、正しくは狐耳は小道具班の方に、お化粧や着付けはあの時もう一人ついて行っていたお姉さんがしました。そして…恋ヶ窪さんが私についていることで、私にはアリバイができました。」
「ジュンは…いえ、あの時の腹痛も演技ですか?」
あの腹痛も演技だとすれば…彼女へのさらに評価は変わることになる。心配させるようなことをわざとするのは、尚更許しがたい。その問いには静かに首を振る。見惚れてしまうほどに可憐な…飛ばないように必死に風に揺れるか弱い花のように。
「あの時…私は本当に牛乳が美味しすぎて、飲み過ぎてしまい腹痛を起こしました。ですが…もしそうならなくても私は本来なら…体調を崩した振りをしてどなたかを残す役目をすることになっていたため…その点について嘘をつかなくてすんだのに正直、気持ちが救われました。恋ヶ窪さんがついたのは…たまたまです。」
これで、種明かしは終わりましたとばかりに、また彼女は静かに瞳を閉じて…さっきよりもさらにゆっくりと開いた。どこか凛としていた雰囲気は消え、いつもの不安に溢れた莉桜さんが目の前に立っている。
…なるほど、橘莉桜は確かに役者だ。それも私たちが思っていた以上の。
「つまり、一度目の涼風の皆さんが見たという幽霊は本当にいたけど、私とレンが見た二度目の幽霊は…莉桜さんがなりきっていたということですね。」
「…あの…ですからそれには、ちゃんとした訳があって…」
「分かっていますよ?百聞は一見にしかずと先程から言いたいのですよね?…別に怒ってはいませんが…騙そうとしたというのはよくありませんね…そんなにも協力させたいというのでしたら、なにか別のやり方があったのではないですか?」
口調が荒くなってしまっていることにより、莉桜さんが怯えていることは分かった。それでも真摯に向き合おうとしていたこちらを、欺こうとしていたのならば…しっかりとその本質は問わなければならない。曖昧にしていい内容ではない。
「っう…その…騙そうとしていた…わけでは…」「では、どうしてそのような真似をなさったのですか?」
耐えきれなくなったのだろう、目尻に涙をためて俺に謝ろうとしてきた莉桜さんの次の言葉をかきけすように、静かな書庫の中をかきみだすような足音と荒い息遣いが聞こえてきた。
「はぁはぁ…あー、ストップ、ストップ!ユウ悪かったよ!二回目の件…提案したの…俺!俺なんだ!」
悪い、悪いと手を合わせてイタズラがバレた子どものような表情をするレン。…なんとなく、誰かが協力していなければ成り立たない話だとは感じていた。そうだ…そもそも私に幽霊を見せたいのなら残る人間は私にならないようにしなくてはならない。たまたまジュンが名乗りでたがそうならなかった場合は恐らくレンが役目を担うつもりだったのだろう。まさかの発案者が内部にいたという現実には、今日一番の疲れを感じた。
「レーンー、おまーえーはー…」
「ちょっと待て、マジ落ち着け!莉桜ちゃんマジ泣きしそうになってるし、図書館の中でそんな怒鳴ったら迷惑になるから、な、な?」
迷惑の発信源だった男には言われたくはない言葉だったが…特別に俺たちを書庫にはいれるように手配してくださった優しい職員さんたちへ迷惑をかけることになってはいけない。「莉桜さん…すいませんでした。つい声をあらげてしまい…立てますか?外に出て温かい飲み物でも口にして落ち着きましよう。…レンはせっかく図書館にいますので広辞苑で迷惑という言葉の意味をひいてからでてきてください。」
肩を抱くようにして、莉桜さんと外へ向かおうとするが…如何せん、やはり館内の構造がよくわからない私に、こっちですと笑いかけてくれる表情に安心した。
「うぇ、ちょっと待てよ、俺も一緒に出させてください!」
忘れていました。と振り返り、レンに微笑み机と莉桜さんが持ち運んでいるというにはあまりに重すぎるリュックを指さす。
「莉桜さんの荷物、もってきてあげてくださいね。」
「…へーぃ。」
ガクッと肩をおとしたレンを見ながら、暗い書庫を抜け、図書館の方々に挨拶をしてその場をあとにする。莉桜さんは大学でも人懐こいやや幼いままのようで、数人から親しげに声をかけられている。…その姿に、初めて会った時の莉桜さんが演技じゃない自分だと言った言葉が裏付けられて…正直、ほっとしていました。そんなに長い時間を共にしたわけではないのに、莉桜さんにはあまり無理をしてまで変わってほしいとはどうしても思えないのが正直な気持ちでした。図書館から出ると、すぐ目の前にベンチがありそこに座りましょうと言われ、腰をおろしました。改めて見渡すと大きな桜の木や座禅堂等が目に入り、違う季節に改めてやってきたいと思う風景だった。
「あの、飲み物…なにか買ってきますね、なにがいいですか?それなりに種類がありますので…」
そう言って立ち上がろうとする莉桜さんの手を掴み、鞄からカップをだしてみせる。
「その必要はないですよ。」
カップをフーフー吹きながら、ちょびちょびと口をつける姿を見てふぅっと一息をついているとレンが係りの方に付き添ってもらって図書館から荷物を抱えて出てくる姿が目に入りました。少し、いい薬になったでしょう。
「…美味しいです。」
「んで…なんで水筒もってきてんだよ!さらになんで中身がまた牛乳なんだよ!?」
恐らく、書庫の軽い迷宮に置いていかれたのがいつも太陽の下を活発に走り、泳ぎまわるレンには効いたのでしょう…色々と感情が入り交じった声で聞いてきました。
「はい、他の学生さんの迷惑になりますから声を抑えてくださいね、恋し浜君…それにこれは勉強で疲れているであろう莉桜さんのために持ってきた田野畑ブレンドです。どうですか?莉桜さん…気分は少し落ち着きましたか?」
こくこくと頷く様子を見て、レンも安堵のため息をつく。
「秘技田野畑ブレンド!ブレない!さすがユウはブレない!」
むしろ落ち着かせるべき相手を間違えてしまったような気すらしてきた。
「少し、気になっていたのですが…どうしてそこまで涼風の皆さんは今回の件について必死になっているのですか?」
「必死…そうですね…田野畑さんは、私と兄さんの関係を見てなにかおかしいなって…思ったことはありませんか?」
「正直、本当の兄妹でもなく恋人でもないとレンから聞いたときには…少し距離と言いますか絆が強すぎると思うことはありましたね。」
俯いているため、表情はよくみてとることができないのだが…でしょうねと小さく苦笑いをしたように感じた。
「私たちってみんな…自分は一人だって誰も信じないって思いながら生きていたり…どこか世界から外れていたんです。そんな私達を見つけだしてくれたのが…涼風と言う場所で、そこで私たちは私たちにしかできないことがあるって教えてもらったんです。下手したら道を踏み外していたかもしれない私たちでも誰かのためにできることがあるのが嬉しくって。だから、涼風は大切な、大切な私たちの家であって…先代がいてくれたからこそ今も涼風があるって思ったらその願いを叶えられるかぎり、叶えたいって…思ってしまうんでしょうね。」
いいかえてしまえば…それは親孝行と言えるのかもしれない。
「私は、あなたたちの関係…悪くないと…いえ…とても素敵だと思いますよ。それだけ、互いを思いあえる関係なんて簡単には築くことなどできませんから。」
「逆に…私は、田野畑さんと恋し浜さん、恋ヶ窪さんたちの関係にもすごく、すごく憧れますけどね。まっすぐで繋がっていて…そんな風にお互いを高めあえる関係って、羨ましいです。」
「…はじめは、私とレンなんて顔を会わせてはくだらないことで張り合ってばかりでしたよ。でも、何故でしょうかね…今では安心して背中を任せられると思えるようになってきました。」
「それは、二人とも反対方向に真っ直ぐだからじゃないですか?」
「あ、咲也兄さん!」
いきなり響いてきた第三の声に私たちは顔を見合わせて振り返りました。立っていたのは、少し書体なさげに頭を下げる背の高い青年…というか、莉桜さんの言う通り咲也さんでした。
「悪い、任せろって言ったのに全部キツいところやらせちまった。来るの遅くなったな…田野畑さんも…こんな形をとってしまいすいません。」
「いえ…その件に関しては…こちらにも問題があったようなので。」
どうやら電話の相手は咲也さんだったらしく、同じようにいつの間にか戻ってきていたレンを軽く睨み付ける。
「あははは…や、や、それより、さくっち!さっきの俺とユウが真っ直ぐだからってどういうことよ?」
さりげなく話題をそらそうというレンの魂胆が見え隠れしていましたが…私も言葉の意味が気になったので、その件については一旦横におくことにしました。
「そうだなぁ…あぁ、そうか三陸鉄道…かな。」
「あ、それ分かる気がします!」
莉桜さんが直ぐにハッとした表情をしたあたり…さすがは強い絆で繋がっているだけあるなという実感がわいた瞬間でした。
「ななが分かったっていうんなら、ここからはななに頼もうかな。…と言うか、ここら辺まかせっぱなしで申し訳ないんだけどさ、自分から言い出しといてなんだけど…あんまこーいう、文学的な表現…は俺にはむいてないっていうか…。」
そう言えば…なんとなく聞き流していたけど、親しい人しかいないような時には本名の七海からとってななと呼んでいるのか莉桜から呼称が変わっている。
二人の距離感や役割関係はやはり安定感なのかもしれない。
「あー…言い出しっぺのお兄ちゃんが逃げだした。」
「…あとで、あのアイス屋のアイストリプルで買ってやるから…。」
「…アールグレイ、抹茶、チョコミント、ほうじ茶の四種類食べていいなら考えます。」
「…お前、また腹痛くなったり、ウェストがーって騒いでも知らないぞ?」
「期間限定は逃すとまわってこなくなるので…やむ終えない覚悟です。」
「はぁ…分かった、あんまバカなやりとりしていると本気で呆れられるから、四種類買ってやるから説明頼むよ、うちの脚本担当さん。」
「お任せください、作戦、お色気担当さん。」
どうやら、私にはよくわからない内容の駆け引きの末に二人の間の利害関係が一致したようでした。
「お待たせしました、それでさっき咲也兄さんが言いたかったのはきっとこういうことだと思うんです。」
最後に確認のために咲也さんに視線を送り


 まぁ…今さら、なにを言うかって感じだけどそもそも俺だって、初めからこの幽霊話しを信じていたわけではない。それこそ「幽霊へぇ〜」くらいの反応程度ですませて、茶化すのがいつもの俺だったら関の山だったと思う。ただある日を境に同じ海を愛する仲間として親睦を深めていた太陽という劇団の団員が、泳ぐこと…とりわけこの三陸の海に対して躊躇いを持つようになったのがどうしようもなく、気になってしまったのが全てのはじまりだった。
「なぁ〜、太陽、せっかくきてんのに今日も海、入らないのかよ?」
軽く柔軟体操をするまでは、いつものように行うのだが…今年は一度も太陽は、海で泳いでいなかった。
「あー、そうッスね…悪いッスけど暫くはなんていうか…海で泳ぐ自信がないっていうのがあって。」
「は?なんでだよ、太陽くらい泳げるやつが自信がなかったら世の中のほとんどは海で泳げなくなるぜ?」
それは言い過ぎだと笑う。だが、決して世辞を言っているわけではない。そこはなんていうか…一応、海の男をしてきた俺が言うんだから間違いないはずだ。
「んー、なんていうか…聞いたことないか?1パーセントでも迷いがあるときは、潜るべきではない。それは自分だけじゃなく他者を巻き込むことになりかねないからみたいな言葉。俺は…ダイバーじゃないっすけど、なんとなくこの気持ちに迷いがある時に海に入って…海が受け入れてくれないんじゃないかって…正直、最近怖かったりするんすよ。」
「1パーセントの迷い…?」
あんなに気持ち良さそうに泳ぐ人間が、なにをいきなり言い出したのかと…俺は正直言葉を失っていた。確かに海は…いや、自然は時として人というものの存在を一瞬で凌駕し、危険を知らずに入り込むような行為は俺も許せなくなる。しかし…太陽はしっかりと海を見つめているからこそ、ここまで仲良くなれたのだ。その彼が、迷いを抱いている…一体何があったのか…?
「とにかくさ、せっかくまた泳げるようになったのに満喫しないなんてそれこそこの三陸の海に失礼だぜ?」
「なぁ…レンは、幽霊っていると思うッスか?」
…あれ?予想の遥か斜め上をいく展開だ…。ちょっと待てよ、太陽ってこういう冗談言うタイプだったか…?少なくとも知り合ってからのそんなことはなかったよな。
結論としては…。
「ま、まぁ…たしなむていどに、な!」
…たしなむていどにってなんだよ!?っていうのは自分でも自問自答したから、勘弁してほしい。
「ははっ…ッスよね。」
「イヤ、真っ向から否定してるとか…めちゃくちゃ信じているとか…そういうんじゃないって意味で!」
「いいんスよ、俺だってそんなもんだったし、今でもよく分かってないんスから…。」
なんとなく、そこでやっと少し開き始めた心が閉じてしまうような気がして…俺としては、それはマズイとつかみかかるような勢いで無理矢理…なんていうか、申し訳ないけど押し売りがドアに足を突っ込むようなイメージで…その話しに食いつくことにした。
「なぁ…太陽、その幽霊が引っ掛かってんのか?それも…お前らだったら団員たちで話し合ったりするんだろ、そういう時、それで解決できないくらいに困ってんなら、力になってやるから俺にも話してみろよ!」
さらに支離滅裂さは増したけど…このままうやむやにしてしまうのだけはイヤだった。聞かない方がいいとか、踏み込んではいけないとか…そういう駆け引きは俺らしくないし、できるものならとっくにやってるっての!
「…話せてないんスよ…話せないんだよ…俺には、みんなと違う人に見えているから…」はじめて会ったときに太陽たちは自分たちは家族であり親友であり、戦友だと言い切った。その関係でありながら、太陽が話せない…と口ごもる。それなら今こそまさしく、適任なのは…。
「んじゃ、尚更だな!俺になら気にすることなく話せるだろ、俺らは海と水を愛する海の仲間なんだからさ!」
「海の仲間…か。…そうッスね。…レン、笑っても構わないから話を聞いてもらってもいいッスか?」
「勿論、というより気になるから話せって言ったのは俺だしな。」
ふふん、と笑ってみせるとつられるように太陽も笑っていた。やはりこいつにはこういう表情の方が似合うと思わずにはいられなかった。
「前に、レンと初めて会ったときに講演中だったって言ったッスよね?…あれが終わった後に片付けをしていた時に、見たんッスよ。」
「見たって…。」
「幽霊…なんだと思う。というか…みんながそう判断したんすけどね。」
震災があってから、その手の話が増えたのは確かだった。それでも俺はなんというか、それで救われるなら良し、苦しめられるなら思いきって手離すべきだというスタンスをとっていた。じゃなかったら、きっと俺も海に入ることを躊躇ってしまっていたと思う。
「それで、それは太陽の知り合いか誰かに似ていたって訳か?」
「みんなはさ、その姿を見て…なんて言うか今時ではない姿だったからかな、ずっと昔にこの土地で亡くなったっていう初代の団長だって言うんスよね。…でも言えなかったんスけど…俺には…この前の震災で亡くなった…副団長…暁那さんって言うんスけど…彼女に見えて仕方がなくって…でも、言えなかった…やっとみんなが乗り越えて前を向こうとしだしているのに、思い出させるようなことを…言いたくなくて…。」
「それで一人で悩んでいた…ってことか?」
きっとその人は涼風という一つの家族の形にとって欠かすことのできない大切な人だったんだろう。
「なぁ…太陽、その幽霊って俺には見えないかな?」
呆気にとられているのは分かった。
「ほら、第三者から見えたんならまた別な意味が見えてくるかもしれないじゃん?だから、部外者だけど…だからこそ、俺にも見えないかなってさ。」
「えっと…流石にそれは分からないッスよ。でも確かにレンが意見をくれるってのは助かるかもしれないッス。」
「よし!なら決まりだな!俺もこの問題が解決するまでとことん付き合う!」
その時、どうせなら、ユウの反応をじゃなくて意見もあったほうが良いだろうと感じた。あいつは俺と違って冷静な分析で物事を考えるタイプだから、こういう時どうしてもかかせない。それに純粋すぎるジュンの意見も聞いてみたくなった。
「ふむ…どうせやるなら、一芝居打つか。」
にやりと笑った俺を見て、太陽が不思議そうに首をかしげていた。

「それにしても…随分と達筆な方なんですね。」
「あー…駄目だ、達筆というレベルというよりもなんか文章も難しいし、文学少女だったのか?古典の勉強してる気分…俺ほとんど読めねえよ…ジュンどうだ?」
「そうですね…読めないことはないのですが、おばあちゃんに見せてみればもっと正確にわかるんじゃないかと思います。」
「確かに…正確に読み取ろうとするのならば、ジュンのおばあ様にお頼みするのが一番良いかもしれませんね。」
時代とともに文字や日本語の表現というものは変化していくものである。
例えば「携帯」と言う単語一つとっても今では「携帯電話」と考える人の方が多いのだろうが、本来であれば携帯電話がなかった時期にはそんな意味は持ち得ていなかったのだからだ。それらを考えるなら、その時代を生きていた人に見てもらうのが一番確実だ。
「約束の場所を見つけだすのは、ジュンのおばあ様にお力を貸していただく必要性がありそうですね。」
「任せてください。おばあちゃんも…この方のことを知りたがっていたので、喜んで協力してくれると思います。」
ジュンには東京と岩手を行き来させていることもあり、なるべく面倒をかけさせたくはないのだが、本人がこうして答えていると言うことは思いきって甘えてしまった方がいいのだろう。
「そういえば、この初代団長さんのお名前はわからないのですか?」
「あー、言われてみれば劇団の団員たちも「彼女」とか「女の人」とか曖昧な表現しかしてないよなー。」
「…先に、見せていただいた資料によりますと、彼女自身が名前を失った…といったような表記が見られましたから…何かあったのかもしれませんね。」
名前がないと言うのは言われてみればすごく不便な話だった。それこそ初めは幽霊と呼ばれていたのだ…本当ならば名前で呼んで差し上げることが出来ればと願ってしまう。
「ん…この日記、なんか挟まってないか?」
レンがパラパラとページをめくっていくと、今までページとページがくっついてしまっていたのか気がつかなかった部分が開かれた。中には、触れれば砕けてしまいそうなほど変色した小さな花の栞と…そこだけ筆跡も、そして明らかに言語も違う内容が書かれていた。

『好一・茉莉花,好一・茉莉花,
 滿園花開香也香不過・,
   我有心采一・戴,又怕看花的人兒罵。
 好一・茉莉花,好一・茉莉花,
 茉莉花開雪也白不過・,
   我有心采一・戴,又怕旁人笑話。
 好一・茉莉花,好一・茉莉花,
   滿園花開比也比不過・,我有心采一・戴,
     又怕來年不發芽』

「これは…中国語…でしょうか?」
残念ながらここにいる誰にも、漢字で詰まったそのページの内容を読むことはできない。「あの、もしかまわなかったら…このお花の栞も、お預かりしてもいいでしょうか?おばあちゃんが園芸が好きでもしかしたら何かしら分かるかもしれないので。」

「田野畑先輩!分かりました、あの栞にされていたお花、だいぶ色が変わってしまっていたから分かりにくかったのですが、おそらくジャスミンだそうです!」
「それはありがたい情報です。おばあ様にお礼を伝えておいてください。それにしてもジャスミン…?だとしても何故…?」
「はい、それについてもうひとつ、あの筆跡の違う部分に書かれていたものなんですが…恐らく中国の民謡です。日本でも有名なもので…読み方は、モーリーファ。」
そこまで言われ、オペラにも使用されている曲だと分かった。わざわざ他の誰かが書いたとしたら…その意味はなんだろうか。きっと「彼女」にとって大切な歌に違いない。

「あの部分の和訳を持ってまいりました。劇中で歌う曲をこちらに変更することはできませんか?」
コピーしてきた楽譜に団員たちが目を通す。はじめに顔をあげたのは咲也さんだった。
「この曲…確かに有名だけど、なな…歌えるか?」
「…すいません…聞いたことないと思います。」
それでもすでに一秒たりとも無駄にはできないと覚悟を決めたように、楽譜を口ずさむように、目を離そうとはしない。
「やります…歌詞とメロディーを教えてください。できるところまでやってみます。」
「なな、無理しなくていい!ぎりぎりで詰め込んできたんだ、これ以上…」
「咲也兄さん、お願いやらせてください…きっと中途半端だと後悔する…だから…歌を変更してください。」
「莉桜さん…音源がないので私が伴奏させていただきます。キーボードになりますから音は小さくなりますが出来る限りやりましょう。」
その言葉を待っていたのか音響を担当している女性、渚さんがすぐに立ち上がると、配られた楽譜を確認しながら走り出した。民謡だから繰り返しであり、そこまで長いものではないのでとにかく一番を覚えて繰り返しましょうと二人で打ち合わせをしている。すぐに動画サイトから歌をダウンロードして耳にしていく。
「…予想よりキーが高いですね…莉桜さん、先程までの歌よりもお腹に力を入れて、前に声を飛ばすイメージを常に持っていてください。目線は下げないで…そう、ちょうどあの木を目標に声を届けるようにしてあげてください。」
すぐに美しいピアノの旋律が聞こえてくる。他の団員たちもそれぞれに決意を新たにしたように、自分の最善を探して最後のチェックを始めていく。
「私たちも、こうしてはいられませんね。まずは…最後の声かけに行きましょうか…。」
「あぁ、こうなったら観客席に入らなくなるくらいまでお客さんでいっぱいにしてやろうぜ!」
「僕は、駅舎に戻ってもう一度残っている方々と打ち合わせをつめてきますね。」
いつだってそうだ。この瞬間が一番、心を熱くする。最善を尽くすための最後の悪あがき。私たちは互いに視線を交えると誰からともなく拳をあわせた。
「ヘイ、ヨー!ブラザー!ってな。」
照れたようなレンの声と共に私たちも動き出す。開演まであと一時間…ラストスパートをかけるときがきた。

そして、とうとう終盤へと差し掛かった舞台上、私は伴奏をする渚さんとアイコンタクトをとると、静かに目を閉じ、スッと息を吸い、言われたとおりにあの木を見つめた。
「モーリーファ、モーリーファ…きれいな茉莉花…」
あぁ…駄目だ。やっぱりあの短時間じゃうまく歌詞とメロディーのタイミングが覚えきれていない。声が震える。止まったら…絶対に続けられない…なんとか歌いきらなきゃ。
(懐かしい…大丈夫…上手よ、そのまま続けて、一緒に歌いましょう。)
「モーリーファ、モーリーファ…きれいな茉莉花…雪よりも白い茉莉花」
え…?どうして…誰が歌っているの?これ、私の声?誰かが支えてくれてる…優しく伴奏するみたいに声を重ねてくれている。
懐かしい…私は歌が大好きだった。音痴だからいつからかあまり人前で歌うことはしたくないと言うようにしたけど…私は歌が大好き。こうして、覚えた歌を幼い頃にお風呂で歌うと誉めてもらえて…それがすごく嬉しかった。
みんなが見てる…声はぶれているし、やっぱり音は外れるけど、でも楽しい、おもいっきり歌う…思いのすべてを声にのせて。
観客席の一番後ろ、あの木の下で優しい表情を浮かべながら女の人が気持ち良さそうに歌っているのが目にはいった。見ていてくれたんだ…見守っていてくれたんだ。
(とっても素敵に歌えましたね。私は、あなたの歌声が大好きですよ。)
「お…お母さん…」
優しい微笑み。振り替えればいつも大丈夫だよ、と背中を押してくれるかけがえのない存在。
「…なな、よくやった、このまま続けるぞ。」
小声で、咲也兄さんが指示をしてくれている。私は、小さく頷く。
「貴女の歌声が私を導いてくださりました。共に参りましょう…貴女に見せたい世界があるのです。」
舞うように、静かに私は彼を避ける。
「いけません…私は狐憑き…貴方とともには…行けないのです。」
この耳の意味が狐だと知ったとき…すごく悲しかった。狐憑きとして扱われていたのだとしたなら、あまりにも辛すぎると思ってしまったから。あぁ…これは彼らが改善したかったスティグマを現したものなんだ。だから、私は無くならないとしてもそれらが少しでも和らぐ世界を作りたいと願っている。
「それなら、貴女とともに生きれる世界を私がつくりましょう。貴女が安心して眠れる場所を…貴女が笑える場所を…必ず、必ず…」
決して、手をとってはいけない。一緒には行けない運命の二人だったから…元々、僅かながらに記されていた台本での「彼女」は天女のように舞い、消えていく。現実でも二人は、戦争により離ればなれとなることとなってしまった。
(でも、それは…悲劇じゃないのよ…あの時はみんなが少なからずそういう悲しみを背負って、大切な人を送り出したのだから…。)
でも、それが心残りで、残された言葉が消えなくて貴女はここにとどまっているのでしょう?その後も様々な喜びや、悲しみを繰り返すこの地とともに。
だとしたら…その結末は…。咲也兄さんが私を通り越して、後ろの「彼女」に強く優しい微笑みをむけた。
「二度と、離したりはいたしません。貴女を苦しめる悲しみがあれば傘となり、貴女が涙を流すことがあれば絹となり…すべてを分かち合いましょう。行きましょう…もう、私たちを運ぶ列車は走り出しております!」
舞おうとする私の手を、強くつかむ。どこにも行かせないという強い意志。
「さぁ、あとは私たちにお任せください。」
「必ず、ご満足される旅をお約束いたします。」
「お足元にお気を付けて、さぁ…銀河を旅いたしましょう。」
三人の駅員に招かれ、手をひかれながら列車に乗り込むところまで…お客さんたちが見守りに来てくれていた。ドアが閉まっても「幸せになって。」「喧嘩しちゃ駄目だよ。」「いってらっしゃーぃ!」と旅立つ二人を応援してくれている声が聞こえてきて、涙がでそうになる。あぁ…私たちのお母さんはこんなにも愛されているんだと思うと胸が苦しくて仕方がなかった。


車内の照明を落とすと、海に反射した月や町、星の光がきらきらと宝石のように輝きだした。
あの日記に書かれていた「洋野町の大野」「夜」「宝石」「ヨタカ」等のキーワードから私とレンが「彼女」の旦那さんが「見せたいものがあるから久慈に行こう」と約束した答えを考えた結果がこれだった。 
洋野町の大野地区は見渡す限りの牧場が広がり、2007年の環境省が主催する全国星空継続観察の冬季観察一般部門にて最も暗く星が見やすい場所に選ばれ「ひろのまきば天文台」ができた場所である。
つまり彼は、星を見せたいと思っていたのではないか。
(わぁ…なんてきれい…。)
「えっ…?」
莉桜さんが窓に顔を近づけて、海を眺める姿に…いや、この車両全体の空気の流れになにか言葉にできない変化を感じた。良く知っているはずの電車。なのに…なにかがいつもとまったく違う。
「よかったらお召し上がりになって下さい。ちょうど食べ時だと思いますので。」
ジュンがそっと冷凍みかんを差し出す。近頃ではなかなか見なくなったが、おばあちゃん子のジュンはきっと電車に乗っているときに食べるこの味のことを聞いていたのだろう。
そっと手に乗せられたみかんを冷たいのも気にせずに彼女は宝物のように胸に抱きしめていた。
(ありがとうございます。私、このみかんが大好きで…よくあの人に子どもみたいだと笑われながら買っていただいたんです。そして不器用で上手に剥けない私の代わりに丁寧に剥いて…渡してくれました…嬉しい…またこうして手にすることができるなんて。)
「それは良かったです。僕も小さい頃によく祖母にねだったんです…よかったらお剥き致しましょうか?」
ジュンの問いかけに、微笑みながら小さく彼女は首を振った。
(うふふ…優しいのですね。でも、一人で食べたら怒られてしまいます。これは、大切にみんなで食べさせていただきますね。)

(こんなにも、近くにいたのですね。来るのが…大分遅くなってしまいました。)
「次は終点、久慈、久慈でございます。お客様は、お忘れ物のなきようお気をつけて、お降りください。」
電車がスピードを落とし、ジュンが優しい声で旅の目的地に着いたことを告げる。
(…皆さん素敵な旅を、ありがとうございました。おかげで私は、やっとあの方や子どもたちとの約束を果たすことができます。)
本当に幸せそうな表情を浮かべながら、少女は座席から立ち上がった。音もなく、空気を動かすこともなく、まるで本当にここに存在しないかのような動きに、小さく束ねた髪の先で揺れる鈴の音がする。
この時間帯では、無人であるははずのホームに彼女を待つ多数の人影があるように見えた。
私たち三人は、開く扉から足を踏み出す彼女へ、それぞれの思いをこめた。
「長い旅路、お楽しみいただけたのなら幸いです。」
「君の貝殻の願いはちゃんと叶うから!任せといて。」
「…また、田野畑へもお帰り下さい。お待ちしております。」
静かに振り返り、かすかに涙を浮かべながら深々と肯くと、彼女の足は久慈のホームへと着いた。
(…ずっと、来たかった…ここが…)
瞬間に強い風が吹いて、思わず目を閉じてしまった。
そして、次に目を開けた時には…そこには誰の姿もなく、ただただ無人のホームが広がっているだけだった。
「ふぁあ〜…ごめんなさい、ちょっと電車酔いしちゃって…電車、到着してしまったんですか?」
「「「えっ!?」」」
たった今、出て行ったはずの少女の声が間のぬけたようにゆるゆるとしたテンポで、自分たちの真後ろから聞こえてきて、私とレンとジュンは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしながら振り返った。
「悪い、悪い、こいつ乗り物酔い激しいのすっかり忘れててさ…って確かにタイミング悪かったのは謝るけど、そんな怖い顔すんなよ。」
「ご、ごめんなさいです!」
よほど私たちの沈黙が怖かったのか、莉桜ちゃんは咲也君に捕まったまま、また酔ってしまうのではないかと思うくらいに頭を下げだした。
「あ…いえ、莉桜さん、ご気分はもう大丈夫なのですか?」
さすが優しいジュンは、この謎の状態に対する質問よりも先に、莉桜さんの顔色を見ながら心配そうに声をかけた。一方で、私とレンはまだ動き出すことができずにいた。
狐耳の和服少女は今、確かに自分の逢いたい人のいる場所へと向かって私たちの前から電車を降り、ホームへ向かったのだ。どんなトリックを使ったとしても、私たちの背後に現れることができないのは、駅員である私たちが一番良く知っている。
だとすれば…彼女が二人ぞんざいしたことになる。
「さ、さくっち…お前、りおりおにずっとついてたわけ?」
「ん?あぁ、なんかもう帯が我慢できないって、青白い顔し始めて、ほら電気消しただろ?あのタイミングで悪いとは思ったんだけど、抱えてトイレに…」
あの瞬間、確かに感じた違和感はあった。まるで空気が変わった…いや、この電車ごと別の空間に移動したような…あり得ない感覚が。
しかし、それからも「彼女」は姿を消すことはおろか目を輝かせながら、私たちの前で懐かしそうに思い出を語り、ここ久慈まで共に旅をしたはずだった。
「なぁ…ユウユウ…もしかして俺たち担がれてたりする?」
ユウユウが悠々であってほしい等と、どうでも良いことを考えながら、少し今までのことを思い直してみた。
考えてみれば、不思議な出来事ばかりだった…でも、不思議と悪い気はしない。そして、私らしくないとは思いながらも、それを冷静に分析しようとは思えなかった。
確かに電車は…私たちは「彼女」を目的地へと運んだのだ。
それで、十分なのではないだろうか。
「僕は…今日ここにいられてよかったです。みなさんとこうしてここまで来れて…それだけで十分に学んだ気がします。」
小さくジュンが口にした言葉。
線路は、多くの人の想いと人生を運んできた。そうしてこれからも運び続けていくのだ。それならば、きっと「彼女」も大切なお客様の一人に変わりはない。
「…いいんじゃないでしょうか…それで彼女が満足されたのなら…私は、そうすることができて本当に良かったと…思いますよ。彼女が誰であろうと関係ありません。私たちの大切なお客様です。」
事態が理解できていない二人には、なんと説明しようか…そんなことを考えながら、私たちは帰路へと着くことにした。

 長いようで短い時間だった。劇団涼風の団員達は、またここで公演をさせてほしいと感謝の言葉とともに帰って行った。ジュンも自分の勤務地へと戻ると、また静かな日常が戻ってきた。
それが少し寂しく感じるようになったのは、私自身の今回の体験での大きな変化の一つといえるかもしれない。
勿論、私やレンは復興のためのイベント企画と何かと話し合いを重ねている。
「あ、ユウお兄ちゃんバイバーイ!」
改札に立つ私に向かって、小学生になりたての男の子がひまわりのような笑顔で手を振った。初めて、この子に会った頃は、震災にあった祖父母のもとへと越してくることになった不安からか不安げな表情しか窺うことができず…勢いで職場を去り、この地へ戻ってきた自分とどこか重ねてしまい心配していた。だが…時間は流れ、物事は変化し、人は成長するものだ。彼はもう一人で電車に乗ることもできるようになった。
「気をつけて、帰りをお待ちしていますよ。」
私が敬礼のポーズをとれば、彼も小さな手をびしっと額に当てる。そうして、電車はゆっくりと走り出す…彼を未来へと運ぶために。
東京にいた時には、気がつかなかった。すれ違う人それぞれがどんな日々を過ごし、思いを抱いているのかなんて、考えることもなかった。でも、ここでこうして出かけていく人や帰ってくる人を見ていると、知らぬ間にその人の幸せを祈るようになった。私が、誰もが安心して帰るべき場所の目印であり続けたいと願った。「いってらっしゃい」「おかえりなさい」「お疲れ様です」なんて声をかけることができるこの仕事がより一層、いとおしいものになった。
「私は、いつまでも待っていますよ…この駅で。」
(私も…ご一緒させてくださいね…。)
ふっと優しく桜の花びらを乗せた春の風が、耳元でささやいた。改札を小さな鈴の音を鳴らしながら長い黒髪が通り過ぎていく。…どうやら、彼女も時間を越えた旅から帰ってきたらしい。
「勿論ですよ…お帰りなさいませ。満足できましたか?」
その問いかけに答えはなかったけれど、私の隣でレンが言ったとおり大和撫子のように口元を恥ずかしそうに隠しながら微笑む彼女の姿が目に浮かんできた。どうやらとても楽しかったようだ。
朝の空気はどこまでも澄んでいて、きっと今日もいい日になると私は確信した。

 カラン。
貝殻の揺れる音に、俺はふと待合室に飾ってある絵馬に目をむけた。
彼女から託された貝殻は、勿論あのあとすぐに一番上につるしたのだが…なんとなく申し訳ないような気がして内容は読んでいなかった。ただ非常に達筆だなと感心していた。
仲間たちとつるんで提案をした時には、こんなにも多くの願いかが集まるなんて予想していなかった。
その時に、人の想いの強さを知った。想いの強さが作り上げたのがこの「恋し浜駅」だ。そして、もっと俺に出来ることはないかと模索しているときに彼らと出会った。最初は、ユウをどこまでのせられるかという好奇心もあって彼らの大掛かりな作戦に加担したというのも正直なところあった。クールで大人びたユウがどうでてくるか…なんてな。ジュンに関しては、まさかあんなにいいタイミングで電話をかけてくるとは思っていなかったが、これは完璧に「彼女」の想いの強さのおかげだろう。
で、気が付いた時には俺自身が一番マジになっていたと思う。
涼風の奴らも真剣に自分たちの故郷を考えていた。あんな弱弱しく見える莉桜ちゃんですらあまり豊かとは言いがたい胸を張って、「福島をきっと私の代で安全に暮らせるって言ってもらえるような場所にするんです。」と言い切った時には負けてられねぇって焦りさえ感じた。団員一人ひとりが、自分の分野でなんとかして、また未来を築いていこうという覚悟が半端じゃなかった。負けてらんねぇ!って若千むきになっていた部分すらあったような気もする。
そして、それで良かったと今心底思った。
だってさ、「彼女」の最後に俺に託したお願いは…
―いとおしい、この土地と、子どもたちが永遠に幸せでありますように―
任せろって。
そのお願いは、例え神様が叶えられなかったとしても、俺とユウそれにジュンが必ず、叶えて、次の世代へ繋ぐからさ。
待合室から外へ出ると、まぶしいくらいの青空が広がっていた。風も柔らかくなってきた。
「んー、風が気持ちいいもう春だな。」
夏になったら、海に浮かぶ星の中を思いっきり泳ごう。水は正直だ。俺が身をゆだねれば、ゆりかごのように包み込み、抗えば同じように抵抗してくる。太陽を見ているとすぐにでも海に飛び込みたくなる。
そうだ、そんな企画を今度はあいつらに手伝ってもらうのも良いかもしれない。なんてったって、ここにはまだまだ見て欲しいものが山のようにある。うまいもんもまだまだ紹介できてない。
考えれば、考えるほど楽しみは広がっていく。

「えぇ、えぇ、よーく、覚えてますとも…小さい頃、貧しくてねぇ…娯楽もなかった時に祖父に手を引かれて観に行ったんだったね。噂になっていてね…めんこいおなごが天女様のように舞うって聞いてどうしても観てみたくてね…それは、それは綺麗で私もあんな風になりたいって思ったものだよ。でも…すぐにその娘さんが体を壊したと聞いてそれっきりだったからね。みんな心配していたんだけど…そうかい、そうかい…懐かしいねぇ。」
(…私を…覚えていてくださっているのですか?)
「なんも変わりねぇ…いんや、私はもう年をとってしまったけど…あんたさんはあの日のまんまのめんこいめんこい娘さんだ。忘れられるわけないだろう…私くらいの年代の人はみんなあなたたちに勇気をもらったんだよ。」
(そんな…私たちのことを…そんな風に思ってくださっていたなんて…。きっとあのかたに伝えたら…すごく喜びます。)
「おばあちゃん?誰かお客さんが来ているんですか?」
「あぁ、ジュンちゃんお帰り、めんこい娘さんが来てくださったんだよ。」
岩手から帰り、先輩たちから頂いたお土産を渡そうとおばあちゃんの部屋を訪ねると、まだ少し肌寒い縁側に湯飲みが二つと、ブルーベリーでできたお菓子が置いてあるのが目に入った。お菓子は、僕の好きなものだ。
風が吹いたのを感じると、鈴の音がした。
「あなたは…。」
声が上手く出せなかった。儚げに微笑む表情、舞を舞っているかのような優雅な立ち振る舞い…そして忘れられない狐耳。
(驚きました…どこまでも繋がっていて…こんなにも速くて…そうして私を必ず…会いたい方のもとへと導いてくださる…お孫さんはとても素晴らしいご職業におつきになられましたね。)
一瞬、何を言われているのか分からなかった。
「あらあら、ジュンちゃんこんなに褒めていただいて、そうなんですよ、この子はね、とても優しくて気が利いて自慢の孫なんです。」
二人から向けられる視線がこそばゆかった。そして、なにより…父の背中を見てこの世界に飛び込んできて良かったと心から嬉しさと熱いものが込み上げてきて、視界がぼやけていく。
「僕たちは…あなたをお連れすることができましたか?」
答えはない。でもその表情が答えを物語っていた。
(ありがとうございます…お二人とも、お逢いできたことを本当に感謝しています。わがままばかりですが…どうか…どうか、私の子どもたちにこれからも力を貸してあげてください。)
凛とした強い母親の声で「彼女」はそう告げると、深々と礼をした。
そして、丁度通り過ぎていく電車の風と音と共に…また旅へと出たのだろうと思った。
繋がっていますよ…どこまでも…きっとあなたの望む場所へたどり着けます。
僕は、駅で電車を見送るときのように敬礼をした。
そうだ、おばあちゃんに話さなくてはいけない話がたくさんある。聞きたいこともたくさんある。
そしてなにより…
「ねぇ、おばあちゃん…」
「ん?なんだいジュン君?」
おばあちゃんは、彼女のことを不思議がるわけでもなく、いつもの優しいおばあちゃんの声で答えてくれた。
「良かったら今度、一緒に劇を観に行こうよ。」
「まぁ、それは素敵なお誘いだこと!楽しみにしているよ。」
「うん、とても素敵なお話しと役者さんだから必ず観にいこう…楽しみにしててね。」
僕とおばあちゃんはゆっくりと絵の具が広がるように茜色に染まっていく空を見上げながらそんな約束をした。

「この茉莉花は、おばあちゃんが庭で育てていたものが元気にそろっていたので…あのめんこい娘さんにあげてくださいと預かって参りました。」
そこでジュンはキレイにまとめられた小さな花束を、めんこい娘さんを演じきった莉桜さんへと手渡した。可愛いと微笑む表情に、この一連の出来事を経てからどこかあの彼女の面影が強くなったような感じがした。
「田野畑さん、ここに種を蒔いてしまっても本当に良いのですか?」
「はい、茉莉花であれば高さもさほどありませんから…きちんと許可はとって参りました。」「その辺に関してユウユウは抜からないからね…ちなみに今日はミルクティを朝からどこからか仕入れた高級な茶葉やら何やらを配合しながら淹れていたのを、俺はしっかりと見ていた!!」
すっかり、調子にのってユウユウとことあるごとに呼びはじめたレン…はじめこそ一々訂正をいれたりしていたものでしたが、最近ではそれがそこまで不快なものではないと感じ始めている自分がいるのも確かでした。だからこそ、私は無言のままみなさんにレンが言っていた通りに準備をしていた暖かいミルクティをいれたカップを渡していく。まだ、この季節…この辺りの風は冷たさが残っているから、その香りと温度が全てを包み込むように。
「あ、いつもすいません田野畑さん。」
咲也さんが代表するように受けとりながらお礼を言おうとするとき、私はカップから手を離さなかった。ビックリしたように珍しく固まった咲也さんとカップを二人で掴んだまま見つめあってしまう形となった。周囲も何があったのだろうと驚いたようにこちらを見つめている視線を感じた。
「た…田野畑…さ…」
「ユウでいいですよ。」
「ゆ、ゆう…?」
「はい、そうです。なんでしょうか?
」呆気にとられているという空気から逃げ出したくなってしまう…自分で言っているのに、だんだんとこの場から立ち去りたい気持ちが膨らんできていました。
「ユウユウ、ユウがデレた〜!ついにユウがデレたぞ、みんな喜べ!」
レンのその空気をまるで読まない声が響き渡ったことで一気にはりつめたものがとけていくのを感じた。
あぁ、だからレンにはかなわないんですよ…。私にはできないことを、飛び越してやってしまうから。レンにジュンに私、私たちも知らぬ間に互いを補いながら成長しているのだろう。無理に誰かになろうなどと、がむしゃらに頑張るのも悪くはないですが…助け合えば、それ以上の力を発揮できるのだと。
「わ、私もユウさんって呼んでいいのかな、かな?」
「勿論ですよ。」
「ユウか、なんか一気に仲良くなった感じ、するッスね!」
各々、私の名前を口にしていくのが少し気恥ずかしくなってきてしまう。そんななかで、少しうつむきながら思いきったように口を開いた人がいた。
「ユウお兄ちゃん!」
なにを隠そうブラコン少女莉桜さんだった。その呼び方に咲也さんが青くなって口をふさぎに押さえつけていた。
「それはダメだ!せめて先輩とか、なにか違うものにしなさい!」
「あ…あぅ、ユウ先輩?」
お兄ちゃんも先輩もなんだかむず痒いものがあったが、はいと返事を返せば、嬉しそうな顔をするから…これもいいなと思った。
「ユウ…お前、いつの間にあんなに莉桜ちゃんになつかれているんだよ?牛乳で餌付けでもしていたのか?」
こっそりと聞いてくるレンに失礼な…と思いながらも私は小さな微笑みを浮かべた。
「さぁ、どうしてでしょうね。存じ上げません。」

 すごく頑張って走ってきたから、息が苦しい。でも、止まろうとは思わない。それどころかもっともっと、あの星の海までも走っていけそうな気さえする。和服姿で走るなんて、お淑やかじゃないけれど、私は元々お転婆でよく両親や周囲の人たちを笑わせたり、困らせたりしていた。
そんなことすら、いまさらになって思い出すことができた。
私は、服が汚れることも気にせずにその丘の上に寝転がります。
「ここは、とっても空気が綺麗…風も優しくて、緑も豊か、海も歌を歌う…とても素敵な土地。」
息をする度にあんなに苦しかった胸が、呼吸をする度に楽になっていくのを感じることができた。福島に本当の空があると表現した方がいるそうだ…それならば、私の本当の世界は岩手にある。この土地と共に、喜びも悲しみも、幾度となく受け入れ、見つめてきたのだから。東京が嫌いなわけではなかった。お父さんやお母さんと一緒にいられた頃のあの地は魔法のようなものが次々と生まれていく不思議な場所だった。
でも…お父さんに教えていただいた星座を見ることはすぐにできなくなってしまった。教えていただいたお歌も歌ってはいけなくなった。そうして、お母さんも連れて行かれ、私は一人で膝を抱えるしかなかった。
大好きだったものが少しずつ消えていって、好きではないものが増えていってしまう街を見ていたくなかった。最後の頃には、私は自分の名前さえ奪われた。だんだんと話さなくなれば、言葉を忘れ、代わりに教えられたことは舞や上品な立ち振る舞い…そこになんの意味があったのだろう。
話すことを拒否するようになったためか、そのうちに言葉を忘れ「あー」や「うー」といった音のみを発するようになると、私は狐憑きと呼ばれ奥座敷に閉じ込められる日々を送った。たまに物好きな人が見に来るくらいで、私はただただそこにいた。
夜が更けても、満足な明かりなどなく、そんな時かすかに窓から見える夜空に手を伸ばした。
そこには、星があった。
お父さんが教えてくれた星座。
お母さんが教えてくれたそれにまつわる物語。
それらが私のそばにいてくれた。大好きだったから、名前や言葉を失ってしまっても消え去ることはなかった。
「そう…あの日もこんな綺麗な夕暮れから日が暮れていったから…きっと綺麗な星が見えるって…手を伸ばしていたら…。」
瞳を閉じて、今は遮る物の何もない空へと手を伸ばす。
「君は、星が好きなんだね。」
手先に触れる懐かしいぬくもり。懐かしい問いかけ。
「はい、とてもとても好きです…でも今は、あなたの方が好きですが…。」
私の答えは少し変化していた。するとあなたが優しい声でおかしそうに笑った。
「君をおいていって、約束も果たさなかったのに?」
目を開けるのが怖かった。
こんなにも近くに感じるのに…空にある星のように、海に浮かぶ星の光のように…少しの動きでなくなってしまうのではないかと心配で、心配で、仕方がなかった。もうあの痛みは味わいたくない。
「…私も、あの子達がいなかったらずっとここへこられませんでした。」
「あの子達?」
時代は変わっても、故郷を思う想いは変わらない…強くて多くのことができるようになった…私の可愛い、可愛い子どもたち。

「見てください、子どもたちが…またなにかしようとしていますよ?あら、あの駅員さんたちも一緒…。」
広い牧場の土地の外れに、いとおしい子達の姿を見つけ思わず駆け寄りたくなってしまいました。過保護すぎると…笑われることを思いだし、グッと我慢をしていると…横ではあなたがおかしそうに笑っています。少し悔しいけど…すごく幸せな空間。
「なにか、種を蒔いているみたいだね。」
「種?」
じっと見つめてみると…私の姿を演じていた女の子が花束を抱えているのに気がつきました。その横にはあなたを演じていた青年が寄り添っています。
「あの子…まるで出逢った時の君みたいだな。」
「それを言うと…横の方は…私を連れ出したあなたそっくりでした。」
まるで時間が繰り返したかのように。形は違えども、世界に怯える女の子の手をひく青年は私たちそのものでした。
「あんな風に、私たちも見えていたのでしょうか?」
「まぁ、僕はあそこまで背は高くなかったけどね。」
「もぅ…そうではなく!」
あんな風に、私たちも仲良さそうに見えていたのならいいなと伝えたかったのに…いつもこうしてはぐらかされてしまう。
「あぁ…そうか、あれはジャスミンだね。」
「…ジャスミン?」
聞きなれない単語に繰り返すことしかできないまま、小さな白く可愛らしい花を見つめました。
「そう、夜の間に可愛らしい花を咲かせて香水やお茶にもなっているんだよ。花言葉は優美とか愛想のよさとか…そして和名は茉莉花…。」
「…茉莉花…。」
ひどく懐かしい響きに胸がトクントクンと痛いほどに脈打つのを感じました。
「君のことだよ、茉莉。」
「はい、民人さん…!」
やっと取り戻せた…ずっと探していた大切なもの…どちらももう二度と手放すことのないように私は民人さんにしがみつきました。
「…行こうか、茉莉。」
「…どこへ?」
「どこへでも行けるのだろう?鉄道が僕たちを運んでくれるのなら、茉莉に見せたいものがたくさんあったんだ。それを少しも見せることができないままだった…世界は決して怖いものだけじゃない…そう思える景色をたくさん見せたい。そうして、またあの花が咲く頃に一緒にここに見にこよう。」
「…約束、破りませんか?」
「勿論だよ、なによりこれからはずっと一緒だ。破りようがない。」
手を繋いで、線路にむかって歩き出す。ずっと聞きたかった答えは手にはいった。
…すごく、時間はかかってしまったけど…。
「ねぇ?あの時、私をどこへつれていってくれるつもりだったの?」
答えはこんな近くて遠くにあった…でもね、私は本当はそんな場所をとっくに見つけていたんですよ。振り返って、子どもたちがふざけて笑いあっている顔を見れば…私たちが種を蒔いてきた日々がどんなに素敵な世界だったのかが…こんなにも暖かい世界があるんですもの。
でも、今は行こう。民人さんの手をとって…もう列車が私たちを待っているから…少しの間。
「行ってきますね。」

 不意に列車が通りすぎるときのような強い風が吹き、茉莉花の白い花が広い広い空へと舞い上がる。星空に無数の白い花弁が踊る。その光景に息を飲みつつも、私たちは静かに手を振った。
「行ってらっしゃい。」
いつまでも、ここでお二人のお帰りをお待ちしていますよ。…そうそっと、心の中で呟いた。

あなたは…私に生きることを教えてくれました。言葉すらも知らない私を見つけだしてくださって、優しく様々なことを教えてくださり、たくさんの世界をみせてくださりました。あなたに返せるものはなにもなくて…私はいつも後ろからあなたを見ていました。優しい、優しいあなたがせめて悲しい思いをしないように祈ることしか…私にはできませんでした。あなたが、戦争で親を失った子どもたちを集めて劇団を作ろうと話したときにはとてもおどろきました。…でもすごくあなたらしくて…自分を捨ててでも人のために生きようとするあなたを少しでも良いから支えようと決めていました。 私は子どもが産めなかったから…子どもたちは本当の子どもたちのようで…私はまた救われました。幸せでした。あなたと子どもたちと…なのに私はまた病を患ってしまいました。忘れられない…あの赤い紙が届いたのはそれからすぐのことでした。行かないでほしい…でもそんなことを言ってはいけない。「そうだな、帰ってきたら久慈に行こう。君に見せたいものがあるんだ。」そう約束して、あなたは敗戦間近の暑い日に戦地へと旅立ってしまい…そして帰ってくることはありませんでした。それでも私は信じています。きっとあなたは生きていて、帰ってこれないだけなのだと。もうきっと、私は次の春をむかえることはできません。寒さが心を弱くしているのでしようと…子どもたちには言われますが、自分の身体です…やはり自分が一番よくわかります。約束を果たすことができなそうだからこそ、より一層…あなたが久慈で私に見せたかったものはなんなのでしょう。それだけが…気がかりです。愛するあなたの元へもしも鉄道に乗れたなら…行くことができるのでしようか。洋野町の大野地区ひろのまきば天文台
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