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さややの舞台のほうな。
最初からアツいオトコ、というよりも、
"最初は頼りなかったけれども、それでも私のことが好きで、私の幼い頃の様子をさらけ出しても、それも(多少葛藤しながらも。私(この女の子)だって別の男の子に恋しちゃったしね)全部受け止めてくれました"
というストーリーがいちばん感動的なんちゃうかなあ。
改めて考え直した。
いや観ているときから考えているけれども。
たとえば現実的には、成人女性なのだから、記憶だけ幼児になったところで、
「自分の下半身から血が出てくる!」
とかいうところから問題になると思う。
けれどもそこから説明していったら、このストーリーで本来訴えたいことが削がれる可能性がある。
だから2時間程度の映画や舞台として、その現実からは敢えて目を逸らしたまま、そういう世界なのだとしてハナシを進めればいいと思う。
やっぱ、現実をどうやってデフォルメするか、という問題はどうしても出てくるし、そこを如何に上手に、しかもリアリティをもって表現できるかが問題と思う。
その上で、私は最後のさやや(雨)のセリフがどうしても引っかかった。
「私はあなたの記憶の私になれるかわからないけれども、それでもいい?」
こんなカンジのセリフだったと思う。
確かにオトコは、あのストーリーでは、目の前の雨ではなく、過去の雨と対話していた。
このストーリーをそのまま踏襲して、オトコが過去の雨を望む描写があるのであれば、観客の女性はやきもきするだろう、と思った。
そこで、改めて思った。
世の中の女性の多くは、年上の男性に恋をする。
そうすると当然のように、相手の男性のココロの中にいる、具体的か抽象的かはわからないけれども、そのあるべき"女性像"に自分はなれていないのではないか?と、どうしても不安に思ってしまうのではないかと思う。
具体的にいうと、相手のかつての恋人なり好きだった女性と同じレベルに達しているのか?と思う者が多いだろう。
そうすると、"花嫁は雨の旋律"が、一般女性のココロをさらにわしづかみするためには、過去の雨と対話する弱い面があるオトコよりも、最初から幼稚園児に戻ってしまった雨に全力で向き合うオトコ像ではないか?
いや、2つ作る案もあるやろけど、私はいまの雨に全力で向き合う、私が考えた案のほうがええと思うなあ。
そういや"俺物語!!"の剛田猛男は同級生という設定だけれども、たとえば女子高生がいきなり青年実業家から熱烈アタックされるようなストーリーがあれば、(そこらのオトコは、そんなヤツいねーよ!と言うだろうけど)女子には共感してもらえると思う。
政治的に安定して欲しいから、自分の生活が安定して欲しいからと、日本人は保守的に、自民党に票を入れてきた。
ココでガチで革新して欲しくば、自民党だけはない、というのはアタリマエなんだけれども。
ところが、自民党政権がやってきたことは、大企業に利権が回る、原子力発電に代表される"技術革新"であり、いまや原子力発電は危険と世界の人々が認識しているにもかかわらず、日本のみが推し進めていると言って過言ではない状態である。
TPPだってそう。
というかTPPは政策自体革新、というか密室の独裁であるし。
そんな実態を見て、その技術革新はウソで、労働者の生活を守ろう!と、革新派が言ったら、
「あの人々の思想は過激だ」
「世界環境保護のためには、同じことをやっていてもダメ」
などという。
時間がないので結論だけ述べると、我々の生活を本当に安定させ、安心して子供も産める社会を取り戻すには、革新という名の、現実的には最も保守的な人々の意見を聞いてはいかがだろうか。
左翼、右翼という名のレッテルだけで見るのではなく、現実的に日本の社会にどんな影響を与えてきたかというと、一般の人々に対して自民党は極端な革新を強いてきた。
のうのうと保守的でいられたのはごく一部。
やはり人々はそのパラドックスを解明し、保守と革新の認識をコペルニクス的に転回させたほうがいいのではないだろうか。
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