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99歳の元兵士が語る二・二六事件
2月26日 15時19分

陸軍の青年将校らが政府要人らを殺害した二・二六事件から26日で80年です。上官に命じられ、反乱軍の一員となった99歳の元兵士がNHKの取材に応じ、事件当時の緊迫した状況を語りました。
志水慶朗さん(99)は二・二六事件の1か月半前に、現在の東京・港区にあった陸軍歩兵第3連隊の第7中隊に入隊したばかりでした。当時、自分の上官が大蔵大臣の高橋是清を「悪い人物だ」などと批判することばを聞き、志水さんは「軍隊は変わったところだ」と思ったと言います。
その後、事件の10日前の2月16日に、志水さんの部隊は、警視庁まで隊列を組んで走る“演習”をさせられました。そのときの様子について、志水さんは「われわれが整列すると、小隊長が『青年将校の一部が決起して、現内閣を打倒する。第7中隊はただいまより、警視庁を襲撃する。弾込め!』と言った。軍隊はすごい演習をするものだと思った」と話しています。
その後、2月26日の未明に、志水さんたちは目的も伝えられないまま、反乱軍に組み込まれます。食糧や実弾を持たされたうえ、合言葉を覚えさせられ、10日前の“演習”と同じように警視庁へと向かいました。部隊は警視庁を占拠し、志水さんは雪が積もる中で、警視庁の通用門に向かって銃を構え続けました。
志水さんは「雪は30センチくらい積もっていたと思う。その雪の上にはって、銃口を門柱に向けていた。とにかく命令どおりに包囲したが、警視庁を占領することに何の意味があるのか、そのときは全然分かりません」と振り返ります。
事件から4日目の29日に、志水さんたちはさらに移動し、国会議事堂に立てこもります。周囲は戦車部隊に包囲され、抵抗をやめて部隊に復帰するよう求める「兵に告ぐ」というラジオ放送や、ビラを使った呼びかけが行われました。自分たちが反乱軍となったことを知った志水さんは「まだ二十歳になったばかりで、どうして同じ日本の兵隊どうしで撃ち合って、死ななければいけないのかという気持ちになった。なぜわれわれが反乱軍とされているのか分からなかった。上官の命令でやっているだけで、悪いことはしていないと思っていた」と語っています。
事件後、志水さんは取り調べを受けますが、目的も知らされないまま命じられただけで、罪に問われることはありませんでした。
事件から80年となる現在、志水さんは当時を振り返って、「軍人は『世論に惑わず、政治に関わらず』とされてきた。しかし、あの事件から軍部が強い発言力を持ち戦争が拡大した。軍が政治に介入することは誤りであり、繰り返してはならない。私は最後にビルマ、現在のミャンマーで終戦になり、戦争なんて2度とするものじゃないと思った」と話していました。

昭和史の大きな転換点

二・二六事件は昭和11年2月26日に陸軍の青年将校らが総理大臣官邸などを襲撃した、クーデター事件です。いずれも元総理大臣で大蔵大臣の高橋是清、内大臣の斉藤実に加え、陸軍の教育総監、渡辺錠太郎が殺害されたほか、総理大臣の岡田啓介と誤って、義理の弟で秘書官だった松尾伝蔵も殺害されました。
また、後に総理大臣となる侍従長だった鈴木貫太郎も重傷を負ったほか、伯爵で前の内大臣だった牧野伸顕も襲撃されました。さらに、総理大臣などの警護にあたっていた警視庁の警察官5人も犠牲になりました。
「昭和維新」を掲げる青年将校らに率いられた1400人を超える部隊は、一時、首都・東京の中枢を占拠しましたが、戒厳令が出され、4日目の29日に鎮圧されました。その後、青年将校らは処刑されたり自決したりしましたが、これをきっかけに軍部の政治への関与が一層強まるようになりました。
二・二六事件は昭和史の大きな転換点になったとされ、作家の松本清張など多くの人が事件に関する著作を発表し、80年となる今も関心を呼んでいます。

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