人にはそれぞれ持って生まれた「役割」というものがある。
こういった言説に触れることがしばしばある。考えてみるとこれはなかなかに失礼な話だ。その「役割」とやらが例えば野球界のスーパースターだとか、一国の指導者だとか、伝説の歌姫だとか、魔王を倒す勇者だとか、そういった華やかなものだったら言われた方もまんざらではない。しかしながら、ざっと周りを見渡しても、そんな「役割」を担った人間はひと握りしかいない。ということは必然的に我々大多数はどうでもいい「役割」を担って生まれてきたことになる。
今これを読んでいる皆さんは、もしかしたら物凄くどうでもいい「役割」を担って生まれてきたのかもしれない。例えばYahoo知恵袋の「ゆとり世代って何歳から何歳までを指しますか?わたしはいま23歳ですがゆとり世代ですか?」という質問に対して具体的な回答を何ら示さず「そういった年代にこだわること自体がゆとりです。あなたは何歳でもゆとり世代みたいなものだと自覚したほうが良いのでは?もっと自分を見つめなおしてみては?」みたいなよく分からない説教をかます「役割」を担って生まれてきたのかもしれない。
野球のスーパースターになる「役割」だとしたら。まあ納得もし、引退後はシャブに気を付けようくらい思うかもしれないが、Yahoo知恵袋で説教をかます「役割」だとしたら、まあ、納得はいかない。将来への希望に燃えている子供の頃にそんなことを聞かされたら身投げをするレベルだ。
つまり、「役割」という考え方は一人の人間に対してあまりに失礼なのだ。「役割」以外にも僕らの人生はずっと続いていくし、その「役割」以外でも一生懸命生きようとしているのだ。「役割」という言葉でそれしかないように決めるのはあまりに乱暴だ。
中学2年生の頃、ある「役割」をもった男女がいた。一人は、合唱コンクールで発狂するブスである。彼女はどうも、クラス対抗合唱コンクールで発狂する「役割」のために生まれてきたようで、チンコに毛とか生えてきてニヒルになって声を出さない男子と熾烈なバトルを繰り広げなければならないという重い十字架を背負っている非業の女性であった。こういった悲しき「役割」を担ったブスは必ずクラスに一人は配備されていた。
そしてもう一人は僕である。僕は歌が下手だった。音程が外れているとかそういった次元ではなく、音程という概念がないというレベルで下手だった。あまりの下手さに前述したコンクール発狂ブスに「お願いだからコンクール本番は休んで」と言わしめるほどだった。僕は下手過ぎてコンクール本番に休まなくてはならない「役割」を担って生まれてきたのである。こんな悲しい人生があるだろうか。
それを収めてくれたのは担任の松本先生だった。松本先生はブスを諌め、合唱コンクールは勝つことが目的ではない、みんなで協力して何かを成し遂げるためにやるものだ、歌が下手な人が出席してきてもいいじゃないか、そう言ってくれた。結構美談に聞こえるが、僕が歌が下手だと太鼓判を押した形になる。アメリカだったら訴訟もんだ。
こうして合唱コンクールは晴れて全員出席で参加し、見事に6クラス中6位に落ち着いた。クラスの女子が嘆き悲しみ、発狂ブスは号泣していた。男子たちはチンコに毛が生えたのでニヒルにしていたが、やはり悔しそうだった。鈍感な僕もさすがに悪いことしたな、休んだほうがよかったかなって思い始めていた。ただ、松本先生だけが満足そうに笑っていた。
合唱コンクールに向けて発狂する「役割」を担って生まれてきたブスは合唱コンクールが終わるとどうなるか。単なるブスになるのである。歌が下手で休めと言われる「役割」をもった僕はどうなるのか。単に歌の下手なブサイクになるだけである。持って生まれた役割論の最大の落とし穴はこれで、役割が終わっても僕らの人生は続いていくのである。それを、もう役割が終わった人と切り捨てることができるのか。
答えは否である。きっと「役割」は何度でも生まれてくるのだ。
ある日の5時限目の授業、松本先生がご病気で今月限りで教師を辞めるという報告がされた。僕らの小さい心はざわめいた。受け止めきれないだけの動揺が生まれていた。松本先生は学年が変わってもずっと僕らのそばにいてくれて、いつも笑ってくれていると思っていた。ずっと卒業までいてくれると思っていた。僕らの卒業を見て欲しい。そうだ、僕らで卒業式をやろう。それは僕らのエゴだった。けれども、いつのまにか自然とそういった機運が高まりつつあった。
松本先生の最後の授業の日に卒業式をやろう。誰かが言い出した。それでも所詮は中学生だ。仰々しい式典をやるだけの計画力も資金力もない。みんなで集めたお金でお昼休みに花束と色紙を買いに行き、みなで合唱して送り出そう、そういうことになった。
そこで登場してきたのは、発狂ブスである。役割の終わったブスは、先生を送り出す合唱の練習で発狂するブスという新たな役割に任命されたのだ。すると自動的に歌が下手なので先生を送り出す歌に参加するなと迫られる役割を担った男も爆誕することになる。僕だ。
これに関してはちょっとした喧嘩みたいになった。コンクールならばブスの横暴もいくらかは我慢するが、これは先生を送り出すためのものである。上手に歌う必要なんてなくて、皆で歌うほうがいいのではないか。正義感の強い委員長もそういう「役割」を持っているのだろう、むしろ歌が下手なんだけど先生の励ましでコンクールに参加した僕がメインで歌うべきだと。かなりの美談だが、委員長にも僕が歌が下手だと太鼓判を押された形になる。アメリカだったら訴訟もんだ。
結局、僕とブスは決別して、僕は先生を送り出すための合唱の練習に参加することはなかったのだ。みんな放課後に先生に内緒で合唱の練習をしていたのだけど、僕は参加せず、走って家に帰ってスチュワーデス物語の再放送を見ていた。
松本先生が退職される日の一週間前くらいだろうか。委員長が僕の家にやってきた。ブスは説得した。参加してくれ。彼は役割を全うしたのだ。それどころか、むしろ僕中心で行く構成になり、出だしの部分をソロで歌うという大役を仰せつかった。練習に参加するとまたブスと衝突するので一人で練習していてくれ、そう言ってカセットテープを置いていった。
「このテープの一番最初の曲をみんなで歌うから」
新たな「役割」を吹き込まれたような気がした。下手だから参加するなと言われる「役割」でもなくニヒルに歌わない「役割」でもない。自分に課せられた「役割」。そう、松本先生のために心を込めて歌う「役割」だ。
とにかく必死で練習した。音痴な人間ってのは、わざと音痴にしているのではなく、音程がずれているのか合っているのかわからないのだ。とにかく反復練習し、感覚ではわからない音程を記憶してしまえば、実は結構歌えてしまう。とにかく繰り返し、繰り返し、練習した。
実は、ここで衝撃的な悲劇が巻き起こっている。委員長が置いていったテープのA面の一曲目は松任谷由実さんの「卒業写真」だった。先生に贈るには良い歌である。
人ごみに流されて 変わっていく私を
あなたはときどきとおくでしかって
(松任谷由実 卒業写真より)
いつまでも松本先生に見守っていて欲しい、叱ってほしい、そんな気持ちが現れているようだった。けれども、B面の一曲目には尾崎豊さんの「卒業」が入っていた。僕は勘違いをし、これをみんなで歌うとは攻めるなーと思いつつ、まさしく全ての音程を暗記する勢いで血の出るような特訓を行った。
いよいよ、松本先生、最後の日。拍子抜けするほどいつもと変わらない日常と松本先生がそこにあって、淡々と時間だけが過ぎていく。いつもと変わらず時間が過ぎていく。そして、最後の授業が終わった。挨拶が終わると、松本先生は少しだけいつもと違った顔をして、「人の役割」という話しをしてくれた。
この文章の主体をなしている「役割」の話は松本先生の受け売りである。人には持って生まれた役割がある。けれども、それだけじゃない。役割以外もずっと人生は続いていく。役割がつまらないことや終わってしまったことを嘆くより、より沢山の「役割」を見つけられるようにしなさい、先生はもう役割は終わりです。君たちを成長させるという「役割」は終わりです。でも、君たちの成長を実感して喜ぶという新しい「役割」があります。どうか、いつか偶然街で会った時、先生を喜ばせてください。それが君たちの「役割」です。
おもむろに委員長が立ち上がる。
「先生、僕たちからプレゼントがあります」
その宣言と同時に僕も立ちが上がる。先生は驚いた顔をしていた。出だしは僕のソロだからだ。けれども忘れてはいけない。みんなは松任谷由美さんの「卒業写真」を練習してきていてそれを歌うつもりでいるが、僕だけ狂ったように尾崎豊さんの「卒業」を練習してきている。
僕が歌い始める。この時の様子をクラスメイトの気持ちを予想して振り返ってみよう。
「校舎の影 芝生の上 すいこまれる空」
え!?これ歌ちがわね?尾崎?
「幻とリアルな気持ち 感じていた」
やべえ、あのアホ、歌間違ってる
「チャイムが鳴り 教室のいつもの席に座り 何に従い 従うべきか考えていた」
どうしたらいいんだ。これ途中から入ったほうがいいのか。でも正確に歌詞なんかわかんねえぞ。入るべきか入らないべきか。
「ざわめく心 今 俺にあるもの 意味なく思えて とまどっていた」
ざわめいてるのは俺たちだし、意味なく思えてるのも俺たちだし、とまどってるのも俺たちだ
「笑い声とため息の飽和した店で ピンボールのハイスコアー 競いあった」
俺たち競い合ってないし。ってかみんな静観か。つまりあいつ一人に唄わせ続けるんだな。微妙に音程外してるし笑いこらえるのが大変だぞこりゃ。
「行儀よくまじめなんて 出来やしなかった 夜の校舎 窓ガラス壊してまわった」
壊して回ってねえし
「信じられぬ大人との争いの中で 許しあい いったい何 解りあえただろう」
これ、先生送り出す歌じゃないよな。先生を全く信じてない歌だよな。全然解り合えてないし
「うんざりしながら それでも過ごした ひとつだけ 解っていたこと」
やべえよこいつ、ほんとやべえよ。ソロでここまで歌いきってる。麻酔銃とかないのか。誰か麻酔銃とか持ってないのか。ヤツを止めろ。
「この支配からの 卒業」
まるで先生が俺たちを支配していたみたいじゃないか。これ、アメリカだったら訴訟もんでしょ。
「闘いからの 卒業」
闘ってねえし。
とまあ、こんな感じでしてね。僕は音程を守ることに熱中するあまり、クラスメイト棒立ちなのに気づかずに熱唱ですよ。これは悲劇ですよ、悲劇。
その後も微妙な空気の中で色紙を渡したり花束を贈呈したりしたんですけど、ブスだけがそのあと僕に言ってくれたんですよ。
「けっこう上手かったじゃん」
って。
人はそれぞれ「役割」をもって生まれてくる。それは小さな「役割」なのかもしれない。けれどもそれが終わっても僕らの人生は続いていく。次の「役割」を見つけ、生きていくことが大切なのだ。
この春、卒業を迎える皆さん、その卒業は一体何からの卒業なのでしょうか。たぶん支配からの卒業ではないですよね。それはもしかしたら「役割」からの卒業なのかもしれません。次の「役割」を見つけ、いつまでも「役割」が続いていくよう、願っています。ご卒業、おめでとうござます。