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ポジ熊の人生記

雑記です。ブログが大好きなので定期的にブログ論を書く癖があります。

ブログ論が書いてて最高に楽しいのはブログ大好きだからでしょ

ブログ

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自由

今日も今日とて書くよ、ブログ論。犬も食わねえエントリーだなんだって外野から飛んでくるけど、自分の書く記事がすべからく芸術作品になったり有用な情報になるべきだなんて尊大な考えは一切ない、ここには自分の書きたい思いがどれだけ詰まっているか、その一転につきる。そして書く理由も単純明快、それがブログが好きだからだ。

ブログ論を好むのはブロガーだけ

しかも懇意のブロガーしかメインディッシュとして食べない。当然だろうな、どこぞの誰が書いたかもわからない「ブログ論」を検索流入ユーザーが美味しく召し上がるはずもない。こんなことはわかっている。

しかも内容が「ブログ」だから少なくともブログのことを知ってないと理解できないということになる。ただでさえニッチな世界において、さらにマニアックなネタを扱うという超零細分野、それがブログ論なのである。ではなぜ暑苦しいブロガーどもはこれをこぞって書きたがるか。

 

ブログが楽しいから

これに尽きるだろう。「誰がこれを読むか?」「どれくらいのニーズがあるか」こんなこと以前に「自分が楽しいかどうか」ってところに記事を書く目的を見出しているのだろうよ。

その割にはPVやら収益やらで右往左往するあたりが、外野から見てて「頭おかしい」って思われる大きな要因なのかもしれない。だが、それも含めた上でこういう暑苦しい馬鹿は大好きだ。

かくいう僕もブログ論を書く理由はただ一つ「ブログが楽しいから」に他ならない。半ば盲目的だとしても、これはこのコンテンツに全力を傾けたブログ馬鹿の情熱のエッセンスなんだよ。ほとばしる魂なんだよ。

 

ブログ論書いてて愛される人は才能がある

多くの人に愛され、かつ数字的な結果も残す。そんなユーザーが稀有だが存在する。彼らについては才能があると思う。もちろん、見えないところでの努力はあったのだろうが、では誰しもが努力すればそのような場所へ行けるかといえばそんなことはない。

ブログ論なんてのは本来、親しい人にしか読まれない自己満足の産物である。それを大勢の人が読んで共感し、結果的に人気を獲得できるのだから、生来的に人に好かれるテキストを生み出せる才能は少なからず有していたのではないかと推察される。

辿り着けないところを目指して四苦八苦し、日々増減する購読者に一喜一憂するよりは、自分の書きたいことを大いに書いて、その結果残ったコアなやつらを愛していく方が自分らしさを失わなくて良いのかもわからんね。最近ではこのように思うようになった。

 

表現方法は人それぞれで面白い

書き方も一様ではないのがブログ論。例えば僕のように思ったことをつらつらと書く人もいれば、それを何かに例えて話をしたりする人も。比喩的な表現というのは得意なジャンルじゃないだけに、いつも面白おかしく読ませてもらえる。

ここにブログ論の面白さがある。定規で線なんて引けない、100人いれば100通りのブログ論があって飽きないのだ。それに管理人の顔も良く見える。ニヒルな人だなーとか、情熱的な人だなーとか、時には馬鹿な人だなーとかさ。こういったことに気付くのも趣。

 

何につけてもあり方を求める

そんな風潮はどうなんだろうねぇ。「情報の発信側の責任が」とか「読み手には何を言っても良い自由が」とか。結局は自分の好きな枠にはめようとしてガヤついてるだけじゃないか。ブログ論を書く方だってそうなんだぜ。好きで書いてる、それだけ。自分の枠の中の話なんだよね。これについてだって、「好きだから書いてんだな」ってありのままに認めればそれはそれでOKだと思う。

あからさまなデマを流布 させんと、未必の故意のもとでそれを行う者については糾弾されて然るべきなのだろうが、自己表現を自分のプレイスで広めているうちは誰にも文句は言えない気がする。好きにやらせときゃ良いのよ、嫌なら見なければいいだけの話だから。ネット上にゴミを広めるなって良く聞くけど、あなたの庭じゃないのよ・・・って毎回思う。

 

書きたいときに書こうブログ論(あとがき)

思い立ったらすぐ書こう。時間と優先順位の許す限り、ブログ論は書いて損はないよ。心の整理にもなるし、デトックスにもなる。ライティングスキルも向上する。良いことずくめよ。

で、思い立った時ってのは自分なりに「キレが出たなぁ」というものが仕上がりがち。これは必定ともいえる。だって、書きたいときの情熱がダイレクトに反映されるんだからね。書かされて書くのではなく、書きたいから書くのであって。

 

以上、今日も今日とてブログ論。