四十年を超えた関西電力高浜原発1、2号機が、新規制基準に適合と判断された。安全のために定めた「寿命」の原則は、もう、反故(ほご)にされたのか。
3・11を教訓として、私たちは繰り返し訴えてきたはずである。
今世紀に入って新たに運転を始めた原発は、東北電力東通1号機など五基しかない。
四十年寿命を厳格に適用し、役目を終えれば直ちに停止、廃炉に向かう。おおむね二〇三〇年代に原発は停止して、北海道電力泊3号機の寿命が尽きる四九年の暮れまでに国内の原発はゼロになる。
その間に、不要になった送電網や港湾施設を活用しつつ、風力や太陽光など再生可能エネルギーを普及させていくべきだ−と。
折しも3・11は、東京電力福島第一原発の1号機が、運転開始四十年を迎えるちょうど半月前。四十年の当日には、原発の廃炉と福島の未来を考えようという市民グループ「ハイロアクション福島原発四十年実行委員会」が、結成イベントを開くはずだった。
廃炉時代は3・11以前から、始まっていたのである。
一二年の年明け早々、当時の民主党政権が「原発の運転期間は原則四十年」の方針を打ち出した。
「ほとんどの原子炉は中性子の照射により四十年で脆化(ぜいか)する」という設計思想に基づいて設定された“寿命”である。
原子炉の心臓部に当たる圧力容器の内側には、核分裂で生じる中性子が当たり続けてもろくなる。つまり、こわれやすくなるのである。その限界が四十年。高レベルの放射能を浴びており、交換も不可能だ。原発の寿命が最長四十年という理屈は通る。
旧式の圧力容器は材質が悪く劣化が早い。四十年も持たないと、前倒しを求める意見も目立つ。
それなのに「一度だけ最大二十年延長できる」という例外規定が、法律に付いてきたのはなぜか。
そして3・11の教訓をこめた新しい原発規制に、なぜそれが踏襲されたのか。
「世界の潮流にならい」というのが政府の説明だった。要は「米国のルールを取り入れた」ということなのだろう。
ところが、本家の米国でさえ、3・11以降、求められる補修や改善に費用がかかり過ぎるとして、延命をやめて、閉鎖、廃炉に踏み切る原発が増えている。二十年という延長期間の方こそ、根拠が薄いのではないか。
◆“不老神話”の誕生か
原子力規制委員会は例外を認める条件として、通常より格段厳しい特別点検や安全対策の大幅な強化を義務付けてはいる。
しかし、心臓部は交換不能、新しい部品のつなぎ目から問題が生じる恐れがあるとの指摘もある。補修による延命にはやはり、限界があるとは言えないか。
経済産業省が昨春示した三〇年の電源構成(ベストミックス)案は、総発電量に占める原発の割合を「20〜22%」と見込んでいる。
四十年寿命を守っていては、達成できない数字である。
例外規定の背後には、福島の教訓放棄、安全神話の復活、そして、新増設をも視野に収めた原発回帰の未来が透けて見えないか。
関電は、同じ老朽原発の中でも、出力が低い小型の美浜1、2号機はすでに運転を終了し、美浜3号機を含む中型の運転延長を願い出た=図参照。
安全への配慮からというよりも、補修にかかる費用と再稼働の利益をてんびんにかけ、そろばんをはじいた上での判断だ。
◆工学は寿命を決める
一九五〇年代前半、世界初のジェット旅客機である「コメット」の事故が相次いだ。航空機業界はその反省に立ち「安全寿命設計」という考え方を採り入れた。
たとえば長距離型のジャンボでは、総飛行六万時間、離着陸二万回が“寿命”になるという。
電力業界に安全思想、安全文化が根付いているとは、言い難い。
原発の四十年寿命は厳格に守り、円滑な廃炉や核のごみの処分に備えるべきである。
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