今月はじめのことですが、少々Twitterが炎上いたしました。炎上の経緯や広がり方に関してここでは詳しく書きませんが、その際に、私の「欲望を肯定していこう」という旨の発言を、「ヘテロ男性の女性への欲望だけを肯定すること」と取り違えた上で、私を批判している方たちが少なくない数いると感じました。
「欲望を肯定すること」が、なぜ「ヘテロ男性の女性への欲望」、もっと言えば「ヘテロ男性の女性(自分)にとっては迷惑な欲望」のみを肯定することに取り違えられるのか、私は皆目見当がつきませんでした。
確かに、現在の日本で、男女二元論的に欲望の問題を考えると、男性的(とカテゴライズされる)欲望と、女性的(とカテゴライズされる)欲望は非対称的です。
「萌え興し」をはじめ、男性的とカテゴライズされる欲望の方が産業と結びつきやすく、女性的欲望のコンテンツに比べて、男性的欲望のコンテンツは世の中にたくさん溢れていることは間違いありません。
とりわけ女性に、「強い欲望に対峙したら服従するほか無い」「欲望の非対称性を是正することはできない」というような無力感や欲望に対するあきらめのような境地に立つ方が少なくないことは、もっと深くじっくり考えられなければいけないことであると思いますが、それ自体は、世界101位であるジェンダーギャップ指数の是正、もっと言えば賃金格差と雇用問題にクォーター制などを導入するなど抜本的な見直しがされれば、欲望コンテンツの非対称性も是正され、欲望コンテンツに関する認識も変わっていくように思います。
自分の欲望と相容れない欲望ばかりが可視化される世界を(自分にとって)暴力的だと感じるのは、仕方ないことであるのかもしれません。なぜなら、欲望そのものが、常に、既に暴力であるからです。
「欲望は常に既に暴力で、暴力を孕まないコミュニケーションなど存在しない」と私は考えます。
誰かが自分の欲望と相容れない欲望を批判する時、「それよりも望ましい欲望」が提示されること自体がまれですが、「それよりも望ましい欲望」が提示されないこと自体が、欲望を批判する上で重要なレトリックであると思うのです。
つまり、「それよりも望ましい欲望」を提示した時点で、「それよりも望ましい欲望」が孕む暴力性が可視化され、「ある暴力を許さないこともまた、暴力のひとつであった」というオチが露呈されてしまうから。自分の欲望と相容れない欲望を批判するには、欲望そのものを批判するより他ないというわけです。
わかる。すごいわかる。
返信言葉のマジック。
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