「看羊録」という書物がある。
豊臣秀吉の朝鮮侵略の際に日本に拉致されて数年をすごした朝鮮人儒学者の日本観察記である。
家族までも犠牲となった侵略の被害者なので当然ながら日本に対する憎しみは深く、感情的で偏見の強い記述も随所に見られるが、一方で科挙に受かったエリートだけはあり、抑留中に見聞きした出来事はもちろん、日本の書物をよく読み、北海道も含む日本列島の詳細や地名や各地の慣習、大名の名前や性格まで記録しており、著者の姜沆の博覧強記ぶりがうかがわせる。
その中に以下のような記述がみられる
その風俗はひどく鬼神を信じ、神に仕えることは父母に仕えるようであります。生前、人の尊信を受けていた者は、死ねば必ず人々に祀られます。父母の命日には、あるいは斎戒・素食しないことがあっても、神人の忌日には一切魚肉を禁じます。将倭や将倭の妻妾から庶民の男女に至るまで、祝日や神人の忌〔日〕にあうたびに、おごそかに盛装し、〔寺・社などの〕門前に行って銭を〔賽銭として〕なげる者が街路をうずめつくします。神社は宏〔大、奢〕侈〔をきわめ、〕、金碧に照り輝いています。
(〔〕の中は文意を分かりやすくするための訳者の注の模様。なお、翻訳は基本的に東洋文庫「看羊録」朴 鐘鳴 訳による)
一読して分かる通り、ここに書かれている神社参拝の光景は今日における初詣のそれと何も変わらない。ただ一つ違うのは、それが行われるのが広く「祝日や神人の忌避」としており、元旦に限定していないことだ。(この「祝日」はもちろん、単なる休日という意味ではないだろう。)
この記述部分は姜沆が抑留されていた京都にて自分で見たものなか、それとも人づてに聞いたものかは判然としない(彼は抑留中は藤原惺窩の世話になっており、慕われて戦国大名の人物評なども聞かされていた模様)。もちろん、当時の日本が現代よりはるかに地域差も大きかったろう。
だがしかし、今日の「初詣」と同じような風習が戦国時代の日本に存在したことは間違いないようだ。「看羊禄」にはほかにも、当時の日本人が大変に信仰深かったことが描かれている。
むろん、元旦に行われないならば初詣とは違うという意見もあるかもしれない。
「日本人はもともと信仰深かった。そして祝日があるたびに大勢で寺社に参って賽銭を投げ入れるという風習があった。それが明治時代になり、だんだん従来の信仰が形骸化し、また近代化によってカレンダーに強く拘束される生活になった結果、最大の祝日である元旦にだけ、従来のお参りの風習が集中する結果となった。」
こう考えてみると、「初詣が明治以降につくられた伝統」だという説はいささか偏った見解だともいえる。むしろ数少ない、近代に適応して変化しながらギリギリ残った古来の伝統の一欠片だともいえるのだ。そう考えると、初詣は貴重な伝統文化として大切に保存しなくてはいけない、ともいえるのではないか。
以上です。
もちろん、この資料だけを根拠にあれこれ言うには限界があります。ほかにも関連資料を見つけた際にはまだ別記事にてご紹介したいと思います。
「『元旦』にお参りする」という風習については「恵方詣」などを調べていただければと思います。ネット上ではこの恵方詣をもって初詣の元祖とする見解が多いですが、その前提として「祝日に大勢で寺社にお参りして賽銭を投げ入れる」という民族的風習があったといえるでしょう。
そのほか、参考サイト