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【追悼丸谷金保~94年の軌跡】(4)「ワイン町長」参院議員に
- 2014年6月26日 14時12分
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(文中敬称略)
参議2期目の当選を決めてダルマに目を入れる丸谷さん(1983年)
「丸谷が参院選に出ると言っている。何とかならないか」。1976年3月21日、社会党十勝地区協議会委員長だった鈴木富夫(89)=元帯広市議=の自宅を訪ねた吉村博(故人、元帯広市長)が切り出した。
翌年の参院選に、同党は労組、農村の2候補を出す基本方針があった。労組は現職の川村清一(故人)で決定。一方の農村候補は未定ながら、浜頓別町長の坂下堯で「ほぼ99%決まり」の状況。そこに名乗りを上げたのが丸谷だった。
吉村、鈴木 革新の影響力
丸谷は吉村から「(町長の)引き際を間違えるな」と参院選出馬を勧められたと後に述懐している。吉村は2年前の74年に市役所の不祥事の責任を取って市長を辞任していた。同じ池田出身の先輩で「兄貴」と慕う吉村の勧めに加え、「丸谷さんも(国政への)政治的希望を持っていた」と鈴木は振り返る。
鈴木は池田町役場を訪ねた日を覚えている。「皆さんが推してくれるなら出る」と当初話していた丸谷に対し、鈴木が「消極的姿勢でなく、ぜひ出たいというならわれわれは全力を挙げる」と告げると、丸谷はきっぱり言った。「十勝、農村のために頑張りたい。池田、士幌でやってきたことを国政でも頑張りたい」
当時十勝の社会党は、衆院で元幕別農協組合長の美濃政市(故人)が議席を守り、革新市長だった吉村(在任55~74年)の存在も大きく、全道的に影響力を持っていた。吉村は同じ革新市長だった旭川の五十嵐広三(故人)らに接触。丸谷出馬の雰囲気をつくっていった。
最終的に坂下は健康上の理由で辞退し、丸谷が候補に決定。77年7月の参院選では「ワイン町長」の知名度とまちづくりの実績を掲げて戦い、晴れて「参院議員丸谷金保」が誕生した。
多彩な質問で活躍した参議時代の丸谷さん。1989年6月の通常国会最終日まで質問を続け、12年間の議員生活を終えた
国政への流れ 後の五十嵐…
当時道社会党は衆院では農村出身者が多かったが、参院は労働組合系議員が中心。そこに丸谷は農村代表、自治体出身で入る。同党の革新首長から国政へという流れは、後の五十嵐(旭川市長から80年に衆院当選、村山内閣で内閣官房長官)、山口哲夫(釧路市長から86年に参院当選)へとつながっていく。
丸谷は国政でも鋭い質問で活躍し、決算委員長などを歴任。89年まで2期12年、丸谷の政治姿勢について、関係者は「信念の人」と口をそろえる。明治大学の1年後輩で社会党委員長として第81代内閣総理大臣に就任した村山富市(90)も「自分の思想に忠実な人」と語る。
「十勝のため」という思いも持ち続けた。士幌町長小林康雄(63)は、職員時代に担当した士幌高原道路延伸に尽力してくれた姿を忘れられない。「自然保護団体の説得に当たり、参議を辞めてからも応援してくれた。彼は信念の人。温厚だが、ここ一番の“闘争力”があった」と振り返る。
大臣以上に闘争力あった
鈴木は語る。「地方自治体の人が最も活用した国会議員が丸谷さんだった。各地のまちづくりの参考になり、多くの人が知恵を得た。人脈もできた。国会議員として大臣になったわけではないが、大臣クラス以上に、まちづくり、国づくりの大きな力になった」
社会党は96年に社会民主党に改称し、多くの議員は民主党結成に参加。丸谷はすでに政界を引退していたが、社民党に残留した村山を心配する姿を、丸谷の参院出馬時に社会党十勝の書記長だった道議三津丈夫(68)=民主党帯広代表=は覚えている。
「みんなが民主党にこぞって行ったが、『俺は社民党に残って村山を守る』と頑張っていた。最後まで信念を通す人だった」(小林祐己)
1976年10月 池田町長を辞任
77年 7月 参院議員初当選
83年 参議再選(2期目)
85年 参院決算委員長
89年 7月 政界を引退
91年 池田町名誉町民受賞
2013年 6月 十勝ワイン50周年特別表彰
14年 6月3日 永眠