地区労、社会党の意地

◇雌伏4年「草の根」で初陣◇

不利の下馬評覆した高橋

◆「敗残兵帰れ」
 「一票差でも勝ちは勝ち。二百票もあれば十分だ。敗残兵(はいざんへい)帰れ」。
 一九七四年(昭和四十九年)四月二十二日午前八時半すぎ、帯広市役所前。黒塗りの自動車で乗り付けた中川一郎(故人、当時、衆院議員)は車窓からこう叫んだ。
 これを聞いたのは、市職員労働組合の組合員。その前夜、吉村博(故人、元市長)辞任に伴う市長選の開票が行われ、中川が推す保守系の田本憲吾が革新系の新人熊谷克治(故人、当時道議会議員)を二百票のきん差で破り初当選。市職労は、支援した熊谷の敗戦を報告する集会を開いていた。
 「中川は、田本の勝利がよっぽどうれしかったのだろう。われわれは悔しく受け止め、皆で頑張っていこうと決意した」。市職労書記長だった三津丈夫(53)=道議会議員=はこう振り返る。
 市職労委員長は九〇年の市長選で初当選する高橋幹夫(前市長)。田本市政の誕生で市職労は危機感を強め、組織から出す市議会議員を一人増の二人体制に強化する。「おれと高橋は市役所の同期生。労働運動も一緒に歩んできた。この選挙でおれは市議会で頑張るから、高橋には組織を頼むと言った。いま思えば、高橋が市長選に出る環境はここで作られていたのかもしれない」と三津。

◆社会党勢力は連敗
 この後、社会党勢力は七八年の市長選は元市教委教育長の金堂守治(故人)、八二年は元市議会議長の山本忠次を擁立。しかしいずれも敗退に終わる。八六年は元十勝支庁長の丸子正美の擁立に失敗。
 当時、市議会副議長の三津、帯広地区労事務局長の池本柳次(52)=道議会議員=の二人は「幅広く市民の気持ちを受け止めリーダー性を発揮する」として都市環境部次長だった高橋の出馬を口説く。「何回か家に足を運び、最後に高橋は妻の洋子に、すまん自由にさせてくれと言って決心した」と三津は回想する。
 高橋は、中川を担ぎ出した吉村幹部の高橋博信(故人)とも親せきで保守系に人脈がある。さらに「委員長経験者の高橋には市職労も総結集する。田本市政で次長だから相手も身内に指をかまれたことになる」(当時、社会党帯広総支部委員長の山本)という読みで臨んだが、田本に約一万票差で敗れる。
 このとき、池本は、九〇年(平成二年)四月の市長選に、高橋を再び立てる決意を固める。だが、市長選二カ月前の同年二月の総選挙で同党の保格博夫(元道議会副議長)が落選、苦しい立場に追い込まれる。
 「総選挙は負けたじゃないか。勝てる展望は本当にあるのか」−。市長選を議題にした地区労の会議で詰め寄られる池本。「この会議で推薦は見送られる。だから二回目の会議でまとまらなければ私は辞表を出すつもりだった」。一カ月後、池本は会議に黒板を持ち込み、戦略を書き記し説得、推薦を得て二回目の戦いに突入していく。

◆鈴木派も取り込み
  高橋は地区労と社会党に保守系も加え「草の根選挙」を展開する。特に反田本色の強かった鈴木宗男(現自民党総務局長)派を取り込んでいく。ただ「素人が集まっての運動だったこともあり当初は田本圧勝と言われた」と三津。しかし四月四日の総決起集会で転機が訪れる。「勝てるはずがない負け戦をなぜやると思っていた人の気持ちが集会で変わり、熱気が市民の中にどんどん入っていった」と池本。そして吉村以来十六年ぶりに、地区労と社会党は高橋で市長の座を奪還する。
 高橋   四一、七五〇票
 田本   三五、三九二票
 加瀬谷敏男 三、〇一八票
 「私自身、動けば動くほど手ごたえを感じた。相当な抵抗と圧力をはねのけて当選したので、うれしかったし、努力が報われたと思った。相手(田本)は、キラ星のごとく、すごい人が周りについていたから、それに勝ってえらい人と気兼ねなくやれる気がした」。高橋(58)は雌伏四年後に果たした初当選をこう振り返った。
(文中敬称略)(十勝20世紀取材班=児玉匡史)(99.12.8)

<メモ>
 高橋は1941年帯広市生まれ。早稲田大学卒業後、64年に市役所入り。青少年室を振り出しに道路課長、都市環境部次長などを歴任。68年に帯広地区労事務局長、72年から74年まで市職労委員長を務めた。市長2期。高齢者バス無料券交付、夜間保育所、とかちプラザ、くりりんセンターなどを手掛ける。



123456789101112|13|14HOME