ハンドルネームしか知らない女の子が、目の前で服を脱いでいく。
彼女もボクのハンドルネームしか知らない。
枕元の有線でレベッカの『フレンズ』が流れ始めた。やけに懐かしい。きっと彼女がまだ生まれてなかった頃の曲なのに、彼女は口ずさみながらブラジャーのホックを外している。ボクは裸でベッドの上で体育座りをしながら、ぼんやりとソレを眺めている。
渋谷の円山町の坂の途中、神泉のそばに安さだけが取り柄のラブホテルがある。そこは東京に唯一残されたボクにとっての安全地帯。
そのラブホテルに、その子とチェックインした。
どんな男と付き合ってきたのか、実際の年齢、仕事、彼女の語ったことが本当なのかわからない。確かめようもなかった。
彼女は、「ほら、コレ」と裸のままスマホを見せてきた。安直な照明のスタジオで、あからさまにサイズの小さい水着をつけて四つん這いになった写真だった。「わたし、グラビアやってるんです」という話に少し信憑性が出た。
「ねぇ聞いてよ、この間さ、今回の衣裳です!ってトイレットペーパーを1ロール渡されたの。ありえなくない?」彼女はそんな話をしながらボクの背中に柔らかい乳房を押し付けてきた。
「わたし、自分のことより好きになった人いないかも」
「俺もだよ」それもまた噓だった。
時間の感覚が完全に麻痺する真っ暗闇のラブホテルの一室で、彼女は一つだけ本当のことを言ってくれた。
「わたし、大竹しのぶさんみたいな女優さんになりたい」
日比谷線は中目黒を出て、広尾に向かって地下に潜る。
地下鉄の暗闇の窓に映し出されたボクは紛れもない42歳の男だった。
老けたなぁ、と思いながらカバンからスマホを探す。恵比寿で待ち合わせをしてるアシスタントから何度も電話がかかってきていた。約束の時間からもう10分遅れてしまっている。
言い訳メールの前に癖でフェイスブックのチェックをしてしまう。
地下鉄の揺れの中、ひとりの女性のアイコンが「知り合いかも?」の文面と共に目に飛び込んできた。揺れにつり革で対応しながら、そのページから目が離せなくなっていた。彼女は「自分よりも好きになってしまった」その人だった。
〝小沢(加藤)かおり〟久しぶりにその文字列を読んだ。
満員電車は恵比寿の駅に滑り込む。ドアが開き、降りる乗客と降ろされる乗客が雪崩の様にホームに吐き出される。その流れをかわしながら、〝小沢(加藤)かおり〟のページに見入っていた。
ドアが閉まり少し減った乗客を乗せ、地下鉄は六本木に向かう。とりあえずアシスタントに「外せない用事が入った遅れる」とメールを送った。
「自分よりも大切な存在」だったその人は、目的地を決めないで出かけることが大好きな人だった。降りる駅を決めないまま新幹線でふたり、東北に向かったこともあった。
ダサいことを何より許せない人で、前衛過ぎるイベントによく2人で出掛けた。チラシとポスターがオシャレなクソ映画、チラシとポスターがオシャレなクソ演劇に、よく二人で足を運んだ。
今でも彼女のことを時おり思い返すことがあった。最後に会ったのは1999年の夏、渋谷のロフト。リップクリームが買いたいと出掛けたなんでもないデートだった。別れ際「今度、CD持ってくるね」と彼女は言った。それが彼女との最終回だった。月9ドラマは別れるにしてもハッピーエンドになるにしてもちゃんと12回で人間関係は必ず集約していく。だけど現実の最期のセリフは「今度、CD持ってくるね」だったりする。
彼女があの時、すでに旦那と知り合っていたこともフェイスブックに長々と書かれた出逢いのエピソードで知ることになった。
マークザッカーバーグがボクたちに提示したのは「その後のあの人は今!」だ。
ダサいことをあんなに嫌った彼女のフェイスブックに投稿された夫婦写真が、ダサかった。ダサくても大丈夫な日常は、ボクにはとても頑丈な幸せに写って眩しかった。
彼女のフェイスブックをスクロールさせる。日比谷線は暗闇を突き進んでいく。
スマホの画面にはアシスタントからのメールが届いたことが表示されては消える。フェイスブックの彼女のページをたどると、皇居マラソンを日課にしていること、一風堂をこの半年我慢してることを知った。
彼女はグラビアアイドルのようなカラダではなかったし、夢もたいして口にしなかった。よく泣く人で、よく笑う人だった。酔った席で彼女のことを話すとよっぽど美人だったんだろうねぇと言われることがあるが、彼女は間違いなくブスだった。ただ、そんな彼女の良さを分かるのは自分だけだとも思っていた。
渋谷の円山町の坂の途中、神泉のそばの安さだけが取り柄のラブホテル。そこは東京に唯一残されたボクにとっての安全地帯。
なぜなら自分よりも好きな存在になってしまった彼女と、一番長く過した場所だったからだ。
満員電車が激しく揺れた。ずいぶん遠くの駅まで来てしまった気がして、慌てて降りた。日比谷線、上野駅。亡霊のように灰色のサラリーマンたちが改札に吸い込まれていく。ボクはその波に流されながら、握りしめたスマホの中の彼女のページにもう一度目をやる。
「え!?」と思わず本当の声が出た。
友達申請の送信ボタンを押してしまっていた。
人波に巻き込まれて不意に押してしまったこの状況をまだ受け入れられない自分がいる。言葉がまだ見つからない。何体もの亡霊が、立ち尽くしたボクの周りをすり抜けていく。
ボクは時間が止まったように〝友達リクエストが送信されました〟の画面を眺めていた。
次回「『海いきたいね』と彼女は言った」は3/1へつづく
デザイン:熊谷菜生 写真:秋本翼 モデル:福田愛美