75/128
第十九章 その咎は誰のため 1
ファルミナ伯爵とエルシアが屋敷へ戻ったのは、宵が深まって間もなくの頃合いだった。舞踏会に出向いたにしてはあまりにも早すぎる帰宅と、顔色の悪いエルシアに何かがあったのだろうと執事を始め、彼らに接した使用人達の多くがそう感じたが、主人が口を開かぬ限りは事情をこちらから聞く事も出来ない。
セシルもそれは同じだ。
「必ず良い様にするから、お前は気を楽にしていなさい」
父の言葉に、辛うじて頷いて返すだけで精一杯と言ったエルシアの様子は、純粋に心配になるが、そのあまりにも大きなショックを受けているだろう姿が一年前のあの時に重なって見えて、大きな不安をセシルの心に落とす。
「……どうして」
納得できない思いと、割り切れない思いが複雑に絡み合ったエルシアの声に、ファルミナ伯爵は緩く首を横に振ると娘の身体を一度、軽く腕に抱き締めた。
「それについては明日以降考えよう。もう遅い、今日のところは休みなさい」
もう一度弱く頷いたエルシアの手を、セシルが取ると彼女を部屋へと連れ戻し、数時間前自分達が着せ付けたドレスを脱がせて、夜着へと着せ替えた。
その間も女主人は表情を曇らせたまま俯いているばかりだ。きっとこのまま眠れと言われても、今夜彼女の元に穏やかな眠りが訪れるかどうか、甚だ疑わしい。
一先ずは彼女をソファに座らせる。と、すぐに待ち構えていたようにロジーがその膝の上に乗ると、じゃれつくようにエルシアに身を寄せた。
そのロジーの背を、柔らかく撫でながら腕に抱く姿は一見微笑ましくも見えるけれど、彼女の方こそが誰かの腕に抱かれている方が相応しい程、儚くも見える。
少しでも役に立てばと、用意したものはハーブティだ。
「どうぞ。少しはお気持ちが楽になられると良いのですが…」
差し出したカップから香る、ハーブティ独特のお茶の匂いに、やっとエルシアがその顔を上げた。
顔色は相変わらず青ざめていて、お世辞にも良いとは言えないが、思ったよりはしっかりした目をしていることにホッとした。以前の彼女であればそのまま崩れてしまってもおかしくないか弱さを感じたが、どうやらこの一年でその弱さが多少緩和されている気がする。
少し砂糖を入れたことで、口にした途端にふわりとした甘みを感じたのだろう。僅かばかり肩の力を抜いたエルシアは、そのまま瞳を伏せて、小さく礼を口にした。
「……ありがとう」
「いいえ。何かございましたら、お呼び下さい。すぐに参ります」
とは言え、心配なことには違いない。本当はこのまま側についていたいが、何事かを考え込んでいるエルシアの邪魔をしてはならないとそのまますぐに部屋から引き上げた。
しかしこれからどうするべきだろう。
既にセシル自身休む時間はとうに過ぎていたが、自室に戻る気にもなれず、いつでも彼女の声が届くようにと近くに待機してどれほど過ぎた頃だろうか。
既に時間は深夜だと言うのに、今度は来客があったようだ。執事が特に揉める様子も見せずに屋敷内に通したところで、その来客が誰であるかを察した。
「先生………いえ、若旦那様」
彼もまた舞踏会の帰りのようだ。セシルは目にしたことのない、貴族の青年らしい華やかな夜会服に身を包む姿に一瞬目を奪われたが、すぐにその表情が曇る。
マティアスもまたその顔に浮かぶ物は、いつもの穏やかなものより少し険しい。
「こんな時間に済みません。非常識である事は承知していますが彼女に会えますか?」
「それは……」
「今、会って話をしなくてはならないことがあります。どうか通して下さい」
常識であればいくら婚約者といえど、こんな時間の面会はさすがに許してはならない申し出である。けれど彼の言う話と言うものが、二人にとって大切な内容であるだろう想像も付く。
躊躇う表情を見せると。
「構わないから通してやりなさい、セシル」
背後から掛かった声に振り返った。エルシアの父がそこにいる。家主直々の言葉となればセシルも逆らうわけにいかず、黙って扉の前から己の身を下げた。
そのまま室内に入っていくマティアスの背を見送って、セシルが問う眼差しを伯爵へと向けるけれど、少なくとも今この場では彼は何も答えるつもりはないようだ。
「今夜はひどく疲れた。…セシルも他の者も、側に控えている必要はないから、このまま休みなさい」
言外に二人の邪魔をするなと告げられて、仕方なく自室へと戻る事になったが、だからといって今夜はぐっすり眠るという訳には行かなさそうだ。しかし今、自分が何かをする事は求められていない。
己の力のなさに項垂れながら、目を閉じた。
一方、伯爵の許可を得てエルシアの寝室へと入ったマティアスは、ソファの上でロジーを膝に抱えながら、ゆっくりとお茶を口にしているエルシアの姿を見た。
部屋の中の光源は彼女の前にあるテーブルの上のランプ一つで、その淡い光に照らされている彼女は夜着姿である事と、髪を降ろしているせいかひどく無防備に見える。
「……マティアス様」
「やあ。……隣に座っても良い?」
返答は言葉ではなく仕草によって返ってきた。手にしていたカップをテーブルに戻すと、彼が座れるぶんのスペースを空けて腰を横にずらす。何の抵抗もなく側に寄ることを許してくれる彼女の行動に安堵と喜びを感じながらも隣に腰を降ろせば、そのマティアスの方へゆっくりとエルシアが身を寄せてきた。
薄い夜着越しに伝わってくる柔らかな身体と暖かい体温、そしてほのかに香る甘い匂いに、僅かに理性の奥で眠る本能が擽られる感覚を覚える。これが何事もない日の夜であれば、さすがに無防備過ぎる彼女をたしなめるか、あるいは求める気持ちのままに抱き締めるかのどちらかだが、今の彼女の心境を思えばどちらも出来ない。
ただ、肩から背へと流れる長い髪を掬い、幾度も撫でながらその肩を抱いた。
そのまま静かな時が過ぎてどれほどのことだっただろう。
「……どうして」
「……」
「どうして、こんなことになるのでしょうか」
彼女の呟きはそのまま、マティアスの思いだった。
これで幸せになれると思った。やっと一緒に生きて行きたいと思う人と出会い、自分の人生もこれからだと思っていた。
なのに、思いも掛けないところからの横槍は、相手が王妃というあまりにも大きな存在で、本来ならば逆らう事は許されない相手を前にどうすればいいのかと途方に暮れる思いがある。
色々と考えなくてはならない事があるのに、ショックであることはもちろんだが、頭が混乱していて上手く物事を考える事が出来ない。
どうして突然王妃はあんなことを命じてきたのだろう。これが他国との外交上大きな問題があるというのであれば判る。
けれど今回の話はあくまで国内の貴族同士の話で、特別自分達の結婚が国の政治に大きく関わる、と言う事もないはずだ。これまで一度だって王家がこのような話題に口を挟んできたことなど、聞いた事がないのに。
それにあの時の王妃の冷たい瞳。あんな眼差しを向けられる心当たりなど、自分達にはない。判らない事ばかりだ。
でもただ一つはっきりしていることは、このままでは二人一緒にはなれないと言う事。王妃が前言を撤回してくれるか、二人の仲を認めてくれなくては、二人が貴族社会で共に生きていける未来はない。
あるとすれば。
「二人で、逃げようか?」
「………えっ…」
思いがけない言葉を聞いた、とばかりにエルシアが顔を上げた。その彼女の瞳を真っ直ぐに見返して、腰を浚うように自分の膝の上へと引っ張り上げる。弾みでエルシアの膝に乗っていたロジーが、ころりとソファの座面に転がるが、賢い犬は何か感じ取っているのかそれ以上二人の間に割り込もうとはしない。
膝の上に抱えたことで、より接近した互いの身体が離れたくないと言わんばかりに触れ合う。目前にある彼女の、少し涙で濡れた目尻に口付けて、腕の中に抱え込みながら直接耳朶に吹き込むように囁いた。
「俺は君と一緒なら、どこで暮らそうが何をして生活しようが構わないんだ」
「……マティアス様」
「幸い医者として生計を立てていくことも出来るだろうし、そこそこ生活能力にも自信はある。贅沢はさせてあげられないだろうけど、二人で生きて行けるくらいの収入は稼げると思うよ」
貴族社会で共に生きていけないのなら、何もこの場所に拘る必要はない。世界は広い、その世界に住んでいる人々は貴族だけではない。それより遥かに多い一般の人々が国を支え、活気づいた生活を営んでいることを、二人とも知っている。
「俺は別にここに未練なんてない。どこでも良い、どこでだって生きていける。ファルミナ卿だって娘が望まぬ結婚を強いられるくらいなら、きっとそれを許してくれるだろう」
安全で何不自由ない生活は保障されていても、狭い鳥籠の中で羽を切られ、ただ愛らしい声で歌うことだけを望まれる小鳥になるより、広い空の下、自由に飛べるよう籠の扉を開けてくれるだろう。
同時にそれは庇護を失い自分自身の力で、多くの苦労と努力をしながら生きて行く事にもなるが、毎日新たなことに触れ、新たなことに挑戦して過ごしていく生活は決して辛いばかりではないはずだ。
ぎゅっと自らしがみつき、その肩に頬を寄せて半分泣きそうになりながら笑った。
「………素敵ですね。……じゃあ、私はお料理とか、お掃除とか、洗濯とか…家事を覚えないと。初めは失敗ばかりすると思いますけど、構いませんか?」
「皆最初は失敗するよ。俺だってそうだったし。一緒にやれば、何とかなるでしょう、きっと」
「きっと?」
「そこは君が箱入りのお嬢様だから。どれくらいの失敗になるのかなと考えると、あまり楽観的なことを言うのも無責任かな」
「ひどい。私だって頑張れば、ちゃんと出来るようになります」
少しだけ拗ねた声で呟いて、両腕を彼の首裏に巻き付けて先ほどよりもしっかりと抱きついた。その背をマティアスの腕が抱き締めた。互いの身体の間に少しでも隙間を作りたくないと言わんばかりな固い抱擁を交わしながら、身をすり寄せてくるエルシアの気持ちが、直接合わせた互いの胸を通して伝わってくるようだ。
そんなふうに生きるのもまた、一つの幸せだろう。特に今のような気持ちの時には、他の可能性が思いつかないくらい、それしかないのかも知れないと思うくらい、心が揺れる。
離れたくない。
そう思う気持ちは、二人同じだ。
だけど、それでは二人だけしか残らない。
「ねえ、エルシア。君はどうしたい? 何が望みなのかな」
何が望みかなんて、そんなことは最初から判りきっている。迷う必要などないくらいに。
「……私は、ただ……皆と一緒に……大切な人と、一緒に幸せになりたいだけ」
「うん、俺もそうだ。出来れば、二人だけじゃなく皆で幸せになりたい」
「…マティアス様」
「それに、幸いと言うのはおかしいかも知れないけど、あの言葉は王妃陛下お一人の独断で、国王陛下は同意されていない。君の父君も、俺の父や兄も納得していないし……アドヴァンス卿もこうした結果は望んではいないそうだ」
思いがけない人の名を耳にして、エルシアが僅かに息を飲んだ。どうして、と小さく呟く声が僅かに掠れて聞こえる。
「君たちが退出した後、少しだけ話をしたんだ。こんな形での婚姻は望んでいない、君を不幸にはしたくないと………俺個人の感情としては、どうしてそんな言葉を今更と思う気持ちもあるけど、嘘を言っているようには聞こえなかったから」
本当はエルシアには、ブライアンと話をしたことは言わないつもりだった。相手が自分をいけ好かなく思っている事はマティアスだって判っている。
こちらだってそれは同じだ、ブライアンの存在はマティアスとしてはとことん気に入らない。エルシアを傷つけた行為ももちろんだが、過去彼女の心を奪っていたという事実がなお腹立たしく、悔しく思う。
今、彼女に幸せになって欲しいというのなら、どうして過去、彼女を大切にしなかったのだ。そう思う側から、でももしもブライアンが今の彼の様に、過去にエルシアを大切に扱う事が出来ていたら、自分が今こうしてエルシアを腕に抱く事は出来なかっただろうと思うと、さらに複雑な気分になる。
多分自分達がお互いを判り合える時も機会も、この先訪れることはないだろう。
けれど、彼なりに何かをしようとしていることをこのまま黙っているのはフェアではない気がするし、借りを作るようで少し後味が悪い。
つまらない意地だと言われればそのとおりだし、醜い嫉妬だろうと言われればやはりそれまでだが。
「今回だけは、彼の言葉を信じることにした。……本当に、腹立たしいけどね」
言い訳のようにその後の言葉を続けるマティアスの頬にエルシアの手の平が触れた。
一瞬だけエルシアの表情も複雑そうに歪んだけれど、何を言えば良いのか判らない様子で迷った唇が、言葉よりも明確に気持ちを伝えてくるようにマティアスの唇に触れてくる。
柔らかな、触れるだけのキスは、身体よりも心を繋げ合うような気がして、そのまま二度三度とどちらからともなく重ね合わせた。
ふっと唇の隙間から漏れた呼気が相手の唇の表面を滑り、湿り気を帯びてもう一度、しっとりと重なり合う。そのまま言葉を紡いだ。
「まだ出来る事はある。だから簡単に諦める必要なんてない。出来る限り、足掻いてみよう?」
それで駄目だったらもう本当に二人で手に手を取って逃げれば良い。残していく人々に迷惑を掛けることにはなるけれど、笑顔を失って生きるよりマシだと、少なくとも自分達に近しい人々は理解してくれるはずだ。
たとえその責任を求められたとしても、それでどうにかなってしまうほど弱い人たちではない。
「大丈夫だよ。どちらに転んでも、俺が君の側にいることは変わらない。もちろん君を手放したりもしない」
それはエルシアだけにではなく、自分自身にも言い聞かせる言葉だった。
「……本当に?」
「本当に。だから今夜はもう、何も考えずに眠りなさい。医者の言うことは、大人しく聞いておくのが一番だよ」
精一杯大人ぶった冷静なことを口にしているけれど、本音を言えば不安なのはマティアスも一緒だ。やっと幸せになれると思った、これまで越えられなかった過去を越えて、やっと本来の自分で生きていけると思った、その矢先のことだ。
本当ならこのまま抱いてしまいたい。このまま組み敷いて身を繋げ、彼女の全てを手に入れてその奥深くで自分を解放してしまいたい。
抱いてしまえば……あるいはその結果、彼女の身に子が宿れば、それを理由に王妃に結婚を認めさせることが出来るだろうか、なんて乱暴な考えが一瞬頭に浮かぶ。だけど今、そんな打算を込めてエルシアを抱けば、純粋な愛情だけではない行為にこの先ずっと後悔する事になるだろう。
何より再び彼女を、今度は自分が傷つけてしまうことになるかも知れない。それだけはしたくない。彼女を抱く時は、そして彼女との子を手にする時は、ただ純粋な愛情のみ抱いていたいと願うから、そうした打算と自分の欲とを胸の奥深くにしまい込む。
「…マティアス様、お願い。今夜は一緒にいて。……私が、眠るまででいいから」
もちろん、とマティアスは笑った。笑ってエルシアの額に口付けた。
そうして己の上着を脱ぎ捨てると彼女の身を抱え上げ、二人で寝台へ入る。
ただ抱き締める、それだけで今は充分だ。
暖かな温もりに包まれて、エルシアが静かに眠りについたのはそれから間もなくしてだ。マティアスはそのまま、彼女の寝顔を見つめて過ごした。少しでも今夜彼女の見る夢が、彼女にとって優しい物であるようにと、そう願いながら。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。