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空と海と貴方 3
起きる時間が予定より遅かったと言うことと、既に昼を過ぎていると言うことで、まず二人は少し遅めの昼食を兼ねて酒場に寄ることにした。元々今日は午前から出かけることを伝えていたため、屋敷の料理長には昼食は不要と伝えてあったからだ。
挨拶がてら酒場で腹ごしらえをして、それから診療所へ顔を出そうというマティアスの提案に、エルシアが反対する理由もなく、二人は慰霊碑へ赴き黙祷を捧げた後で、歩いて町へ降りた。
のんびりとした足取りではあったが、それでも予想以上に酒場へ辿り着く時間が掛かったのは、すれ違う殆どの人達がマティアスに気付いて声を掛けてきたからだ。
お帰りなさい、という言葉から始まり、結婚おめでとうと祝いの言葉や、最近の近況を尋ね、あるいは伝える会話が続く。その一つ一つにマティアスは足を止め、朗らかに言葉を返す。
町の人々にとっては、例え町を出て生活をする事になったとしても、マティアスをこの町の人間だと認識しているのだろう。
以前から彼が町の人々に大変慕われていることは理解していたつもりだが、皆が笑顔で積極的に声を掛けてくる姿を見ると、改めてその思いを再認識する。
そうした人々に慕われる夫の姿が誇らしいと思うのと同時に、どうしてかほんの僅か複雑な何かが胸の内を過ぎった気がした。
それはまるで小さな曇りのようで、その心の曇りの理由が自分でも良く判らない。気のせいかとすら思った位なので、この時にはあまり意識してはいなかったけれど、その心の曇りは場所を酒場に移した後でも続いた。
小さな小さな、本当に小さな燻る感覚と共に。
「こんにちは、お久しぶりです」
酒場の入り口から、声を掛けてフラウとロジーを外で待たせて店内へと入れば、すぐにカウンターの向こうにいた主人が気付いて顔を上げた。
そうして寄り添うエルシアとマティアスの二人の姿を認めると、みるみるその顔に零れるような笑顔を浮かべて寄越す。
「よお、先生にお嬢さん! 久しぶりだなあ、元気だったかい!」
「お陰様で元気にやってますよ」
「そうかい、そりゃあ良かった! おい、お前、先生とお嬢さんが来たぞ!」
厨房の奥へと主人が声を掛ければ、そこから顔を出した女将にも笑顔が浮かぶ。
まあまあと声を上げて表に出てきた女将は、二人の姿をしげしげと見つめて、感極まったような声を洩らした。
「随分夫婦らしくなってきたねえ、仲良くやっているみたいで安心したよ」
「そうですか? そう見えるなら嬉しいですけど」
言葉の最後で同意を求めるように視線を向けられて、エルシアも少しはにかむように笑顔を浮かべながら頷いた。
そのまま二人は主人と女将の手招きに応じてカウンター席へと腰を降ろしたが、主人達が近況を聞くよりも早くに店内にいた他の客が声を掛けてくる方が早い。
多くはやはり、ここに辿り着くまでの道行きでも声を掛けてきた人々と同じ、久しぶりという挨拶と結婚に対する祝い、そして互いの近況だ。
マティアスが町を出てからこんなことがあった、あんなことがあった、女達の機嫌が悪い、どこそこの家に子供が産まれた、外の町からだれそれがやって来た等々、次第に会話の範囲は広がって、中にはエルシアでは良く判らない話題も増えていく。
その度にマティアスは彼女にも判るように説明してくれるので、幸いにして内容の全てが理解出来ないと言うことにはならなかったが、軽く二桁を越える人数が次々と我先にと話しかけてくるのだから、会話の内容は必然的に雑然としてきた。
そうした会話にマティアスは以前から慣れているのだろう。この人はこの会話、あの人はあの話題とすぐに頭を切り換えて対応しているようだけれど、エルシアにはまだ同じ真似は出来ない。
結局マティアスの説明も追いつかなくなり、人々の入り乱れる会話を聞く事しか出来なくなる。
「全く、一年ぶりに先生が帰ってきたからって皆浮かれすぎだよね。先生は一人しかいないんだから、もっと順番に話せば良いのに」
困惑を顔に出したつもりはなかったが、両手にシチュー皿を持ってカウンターに回ってきた女将はそうエルシアに耳打ちして苦笑した。
「昼は食べたかい?」
「いえ、実はこちらでごちそうになろうと思って」
「そう。それは良かった、ほら食べな。あんたは相変わらず細っこいからねえ、元気な子供を産むためにも、もっと食べてちゃんと肉を付けないと」
子供。
女将のその言葉は既婚夫婦に向けるごく当たり前の言葉だと承知していたけれど、ついドキリとしてしまって頬が赤くなる。
自分としては特別痩せているつもりはないのだけれど。二年前、この港町に療養に来たときに比べれば、随分健康的になったと思う。そう思うのだけれども。
「子供を産むのも子育ても、一番必要なのは体力だからね! そういや、結婚してもう何ヶ月だい? 二ヶ月? 三ヶ月? そろそろ早ければ出来てきてもおかしくないけど」
女将の視線がエルシアの腹部に向けられる。いよいよ真っ赤になって、狼狽えたようにその腹を両手で押さえながら、首を横に振ろうとしたその時、何故か酒場にいる人間全員の視線が自分に注がれていることに気付いた。
否、正確にはエルシアの腹に、だ。
彼らの視線が何を訴えているのかは嫌と言うほど判る。まだ新婚三ヶ月、しかしもう三ヶ月。確かに早い夫婦なら新たな命が宿っていてもおかしくはないが。
「……ま、まだですよ?」
非常にぎこちなく、そしてどこかばつの悪い口調でそう答えれば。
とたんに客の幾人かが声を上げた。
「なんだ、まだか。先生、早く子供の顔を見せてくれよ。子供はいいぞー、まあ成長するにつれて口達者になってくそ生意気にもなってくるけどな!」
「どっちに似ても、べっぴんな子供になりそうで楽しみだなあ!」
「っつーか、そもそもちゃんとやるこたやってんのか!? ベッドの中じゃお上品に振る舞うより、ガツガツ行くのが一番の近道だぞ。先生はいまいちその辺のことが淡泊そうでなあ」
「ちゃんと満足させてやってるか? 夫婦生活の危機は夫婦の危機だぞ!」
次第に会話の内容が、子供の話から猥談へと流れてくる。以前は皆エルシアに気遣ってあまりそうした話は口にしてはこなかったが、どうやらもう既婚となっては遠慮する必要はないと判断されたのかも知れない。
しかし、だからといってそうした明け透けな会話に慣れているわけでもない、はっきりとマティアスとの関係を示唆されるような発言に、エルシアの顔がさらに赤くなって行く。
なんと答えれば良いのやら。
世間の夫婦のそうした関係がどの程度の物なのかは判らないが、少なくとも淡泊ではないと思います……そう答えるわけにも行かず、真っ赤になったまま黙り込んだエルシアの隣で、マティアスがさすがにその顔を顰めて答えた。
「若い女性の前で、あまりあけすけな品のないことを言わないように。彼女は港町育ちじゃないんですから、その手の会話にはあまり免疫がないんですよ」
「おっと、旦那から教育的指導が入ったぞ」
「そりゃ済まないねえ。でも新婚か、良い響きだぜ。うちの母ちゃんも昔は可愛いもんだったが、今じゃすっかりさ」
「すっかり何だよ。お前の嫁さんに言いつけるぞ」
「止めてくれよ、家庭内戦争になっちまう!」
直後、わっと笑い声が上がって、また話題の内容が変わっていった。そう言えばどこそこの誰々の嫁が、相当に旦那にきついらしいなどというご近所話だ。
あまりにも話題の移り変わりの早さに、エルシアがどう反応して良いのか判らずに困惑していると、再び横から女将が声を掛けてきた。
「済まないねえ、下品な男たちでさ。こうした港町じゃ娯楽も限られているから、どうしたってああいう話は盛り上がっちまうんだよね」
「い、いえ……子供は、欲しいとは思うのですが……」
特にエルシアは伯爵家の跡継ぎとなる男児の出産を望まれている。父は特別それを急かすようなことは言わないけれど、多分一番望んでいるのは父だ。
しかし残念ながら、エルシアにはまだその兆候はない。
思わず瞳を伏せた時、穏やかなマティアスの声が耳朶に触れた。
「まだ結婚して三ヶ月だよ。子供は授かりものだし、俺としては授かったら授かったで、もちろん凄く嬉しいけど、まだしばらくは先でも良いと思っているよ」
「そうなんですか…?」
「出来ればまだ、独り占めしていたいからね」
「……っ……」
またも頬が熱くなった。おやまあ、と隣で女将があてられたような、照れ混じりの小さな声を洩らす。
まだ、子供の存在を特別焦っていたわけではないけれど、結婚したからには出来るだけ早くと無意識に気負っていた部分はあったのだろう。そのマティアスの一言で恥ずかしいとか嬉しいとか思う感情以上に、ホッと安堵する気持ちがあった。
「私も……」
私も、なんと答えようとしたのか。自然に言葉が零れそうになった時、エルシアは再び自分、否、自分達に注がれている周囲の人々の視線に気付き、声を詰まらせる。遅れてマティアスも気付いたようだ。
彼が皆の方を振り返った途端、実に芝居がかった仕草で厳ついはずの海の男たちが、なよなよと身を捩りだした。
「君を独り占めしたい、だってよ。甘いな、甘いよ先生! さすが新婚…! 顔の良い男は言う事も様になって良いねえ」
「確かにてめえの顔でそんな台詞言ったところで、赤くなられるより先に、どんな無茶させられんのかと嫁さんに青ざめられて逃げられるのがオチだわな」
「でも判るぜ、俺も昔はそうだった。女は子供が産まれると、男顔負けにどんどん逞しく不貞不貞しくなっていくからなあ! いつの間にかちっちゃくて可愛かったお尻も、ドンと旦那を下敷きに踏みつぶすデカいケツになってよ。旦那はそのケツの下でじたばた藻掻くようになるって寸法だ」
「だからお前、それお前の嫁さんに言いつけるぞって」
「だからやめてくれっつってんだろ、ここだけの話だっての!」
つい先ほどまで違う話題で盛り上がっていたくせに、いつその話題を切り上げてこちらの会話に耳をそばだてていたのかと、感心するくらいだ。
「人の話を盗み聞きするのは止めて貰えませんか」
「聞こえるようなところで話してる方が悪いって。聞かれたくなきゃ、もっと二人きりの甘い夜にでも言ってやんな!」
再び、どっと男たちの笑い声が上がる。再び賑やかにあれやこれやと、マティアスを交えて男たちが話題を盛り上げはじめたところで、エルシアの肩を女将が叩いた。
「全く男ってのはいくつになってもガキだね。ほら早く食べちゃいな、このままあいつらに付き合っていると食いっぱぐれるよ」
「は、はい」
「……まあ、言い出した私が言うのも何だけど、子供は本当に授かりものだからね。何人も運良く授かることもあれば、どうしたって駄目なこともある。神様の気持ち次第だってことで、あんまり気負うんじゃないよ?」
確かに女将夫婦の間には子供はいない。それでも仲良く長年寄り添って暮らしている夫婦も沢山いる。エルシアの立場では、どうしても跡継ぎをと考えてしまうけれど……確かに気負うには早すぎる時期でもあるので、ここは素直に女将の気遣いに頷いて返して、シチュー皿にスプーンを沈めた。
その後の時間も賑やかに過ぎた。マティアスも食べ損ねないようにと食事をはじめたが、酒場の客達は二人をそっと放っておいてはくれない。
皆、とにかくマティアスを構いたくて仕方がないのだ。それだけ彼が港町から離れたことが皆寂しいのだろう。
時に友人のように、息子のように、親戚の子供にするように、親しげに声を掛け、からかう客の顔は皆笑顔で、彼らのマティアスに対する親しさが伺える。そうした人々に返すマティアスの反応も、社交界で見せる姿とはまた違う、うわべだけではない本当の親しさが見えて、やっぱりこの港町にやって来て良かったと思う。
そう思う気持ちは確かなのに、何故かここでもエルシアの心に僅かばかりの曇りが差した気がした。
先ほどと同じく、自分でもその曇りの理由が判らず、つい首を傾げてしまう。
「どうかした?」
「…いえ、何でも。美味しいですね、このシチュー…!」
自分でも話題の逸らし方が下手だなと思ったが、案の定マティアスは、エルシアのその反応を少し疑問に感じたようだ。だが、今あえてその理由を問いただすつもりもないのか、そうだねと一言応じるように答えて、片手の指先でそっとエルシアの頬を擽るように撫でる。
皆の目に触れぬよう、さりげなさを装ったその仕草は、けれどやっぱりエルシアの体温を確実に上げて、赤らんだ目元を隠すように伏せた睫が震えた。
知り合ってから二年以上。想いを伝えあってから一年と数ヶ月。夫婦となってからは、もうすぐ三ヶ月。
そろそろ慣れても良いはずなのに、困った事に未だに夫のちょっとした表情や仕草、言葉に、エルシアの鼓動は過剰反応して一向に落ち着いてくれそうにない。一体、いつになったら慣れてくれるのだろう?
答えは出ないままその後、どうにか食事を終えて酒場を出、診療所へと向かった。
久しぶりに会うニコラスはすぐにこちらに気付くと、大げさなくらい歓迎してくれ、そして同時に拗ねて寄越す。
「昨日の夕方にはお屋敷に着いていたんでしょう? なのに随分遅かったね」
まるで恋人が会いに来るのが遅い、と拗ねるような仕草だ。実際拗ねていたのかも知れない、昨日港町に入ったはずのセシルは今になっても顔を出していないから。
「こっちにも色々事情があるんだよ。師匠もお久しぶりです」
「おう。死にもせんと、元気でやってるみたいだな」
「そんな簡単に死にませんって。物騒なこと言わないで下さい」
わん、と足元では三匹の犬が互いに鼻先を擦り合わせている。
「どう、先生はちゃんと大事にしてくれてる?」
グリーグにエルシアも頭を下げ、お久しぶりですと一言挨拶をした後で、ニコラスが拗ねていた顔を笑顔に変えてそう尋ねてきた。
ニコラスとは酒場にいた客達とよりも気楽に言葉を返すことが出来る。
「ええ、とても」
「そう。なら良かった、結婚おめでとう」
「…ありがとう」
今まで沢山の人から祝いの言葉は受け取ってきたけれど、ニコラスからの言葉はまた違う意味で胸に染みる。彼の口調が非常に真摯に聞こえたことも、理由の一つだろうけれど。
ニコラスに会うのも一年ぶりだ。けれどこの一年で、彼は随分大人びたように見える。
少なくとももう今のニコラスを見て、自分より年下の少年とは思わないくらいには。
身長も以前より伸びたようで、元々小柄だったためマティアスの身長には頭半分ほどは届かないが、確実にセシルよりは高くなっている。
セシルは彼の事を子供、子供と言っていたけれど。そろそろその言葉は口に出来なくなるのではないかと、そう思った。
「…セシルを連れてこなくてごめんなさい。明日以降に、多分挨拶に来るとは思うのだけど」
「本当に? じゃあ、その時を期待して待ってるよ。俺の方から行っても良いんだけど、仕事の邪魔だって言われそうだしさ」
一応は彼なりに気を使ってもいるらしい。何でも思った事をすぐ口にしたり、行動に出したりとしていた以前より、やっぱり成長の跡が見える。
「何?」
思わずその成長を確かめるように、しげしげと見つめてしまったらしい。不思議そうに首を傾げる青年に、エルシアは笑ってなんでもないと首を横に振ると。
「何、二人で話しているのかな」
「別に大したことは何も話してないけど? ちょっと奥さんが他の男と親しく話しているからって、割って入るのは良くないんじゃない、先生? 男の嫉妬は見苦しいなあ」
「……ニック、久しぶりに、じっくりと、話をしようか?」
「そのセンテンスを区切るしゃべり方が微妙に怖いから、嫌だ」
ぱっと身を翻そうとしたニコラスの襟首に、マティアスの手が伸びる。ぐいっと掴まれ、ぐえっと短い声が上がったけれど、二人のやりとりは長くは続かなかった。
ここまでやってくる道行きで、またマティアスの姿を見かけたという人々が、数人グループとなって診療所にやって来たからだ。
主に若い女性や主婦が多いその人々は、マティアスの姿を見るなり声を上げ、彼の周りを取り囲むようにして話しかけてくる。
お陰でニコラスはマティアスの追求から逃れる事は出来たわけだが……
相変わらずどこへ行ってもすぐに多くの人に声を掛けられる彼の姿に、これまで以上に心にもやっとした曇りが滲む気がして、自分の胸元を押さえた。
何だろう?
どうしてだろう?
心に生まれた小さな曇りの明確な理由が、まだこの時のエルシアには判らない。
+注意+
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