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R18折れぬ翼で 作者:逢矢 沙希

番外編

109/128

君とミモザの木の下で 3

 ふわりと吹き抜けていった、まだ冷たさを孕んだ風の流れに頬を撫でられ、触れ合わせていた唇がそっと解けた。
 お互いの間に言葉はなく、ただ呆然と自分の顔を見つめ続ける彼の瞳が十代の少年のようで、たった今の自分の行いがどれほどの非礼で不謹慎なものであるかを理解しながらも、ふっとコーデリアの口元に苦笑が滲む。
 苦笑と言えども間近で向けられた淡い笑みに、ただ呆然とし続けていたエアロスも状況を把握し始めたのだろうか。じわじわと、それは見事にほの赤く頬を染めていく様は、そこいらの乙女にも負けていない。
「……え……?」
 片手で己の口元を覆い、困惑しきりといった声を出す。
 王族であり、見目麗しい王子という立場であれば、彼の年齢を考えてもこれまで沢山の恋のさや当てを経験していても何ら不思議はないというのに、少年時代の悲劇の影響だろうか、そうした華々しい過去は目の前の王子には存在しないようだ。
 ひたすらに戸惑い、困惑し、ただ表面を触れただけの口付けでもこうした初々しい反応を見せる青年の姿に、申し訳ないと思いつつもコーデリアの胸の内側には、
『可愛い人』
 と、そんな気持ちが膨らんだ。自分だってこんな風にキスをしかけて平然といられるような経験などこれっぽっちもないくせに……相手が狼狽えると、どうやらこちらは自然と落ち着くものらしい。
「な……どうして……?」
 どうしてと、そう彼は問うのか。自分にだって、こんな真似をするつもりなどなかった。
 でも多くの恋を楽しむ女性ならばともかく、身を慎み貞淑に過ごして来た令嬢が、自らこうした行動を起こしてしまう理由なんてごく限られているだろうに。
 でもそれを口にする事は出来ない。口にすれば、エアロスの負担になる。ただでさえ混乱させてしまった彼を、さらに迷わせてしまうだろう。
 自分との結婚は嫌だと、そうはっきり口にした相手なのだから、そこはしっかりと割り切らなければ。
「申し訳ありません、つい。丁度良いところに、綺麗なお顔がございましたので」
「……君は丁度良いところに他人の顔があると、こういうことをしたくなるの?」
 動揺で揺れていたエアロスの声に、僅かに胡乱げな響きが含まれる。まさか、と首を横に振って小さく肩を竦めて見せた。
「私にそんな悪癖はございませんわ。正真正銘、殿下が初めてです。ご不快な思いをさせてしまい、重ねてお詫びします。罰を与えると言う事であれば、謹んでお受けしますが」
「………しないよ、そんなこと」
 呻くように答えて、僅かにエアロスが項垂れた。いつの間にか耳朶まで赤く染めた王子の姿に、また胸の内側に甘いような切ないような気持ちが込み上げてくるが、いつまでも二人地べたに座り込んだままでいるわけにはいかない。
「そうですか。殿下の寛大なお心に感謝します。………お立ちになれますか?」
 立ち上がる事にも苦労するようなら手を貸さねばとそう思ったが、さすがにそこまで令嬢の手を借りるのは彼もプライドがあるのだろう。
 僅かも動揺の見えないコーデリアの様子に何事か、言いたいことがあるような顔をしながらも、無言のまま案外器用に立ち上がる。改めて立ち上がった姿勢のまま向かい合うと、頭半分ほどエアロスの方が背が高い。
 先ほどは近かった唇も今は距離があって、お互いにその距離を詰める努力をせねば届きそうにない。それがひどく残念に感じてしまう自分の心の素直さに、また苦笑した。
「それでは私はこれで失礼します」
 改めて礼を取って、今度こそ身を翻した。これ以上この人の目の前にいると、またとんでもない失態を晒してしまいそうだ。次はそれを何事もなかったかのように取り繕える自信はない。
「待ちなさい、コーデリア!」
 けれどそんな自分をなおもエアロスが引き留めてくる。彼が純粋に自分の身を心配してくれていることはコーデリアも理解していたが、それでもやっぱり素直に従えなかった。
 心配などしないで欲しい、期待してしまうから。
 共にいてくれないのなら隙を見せないで欲しい、つけ込んでしまいたくなるから。
「罰をお与えになられるおつもりになりましたか?」
 内心を隠すようにわざと軽口で答えれば、先ほどの出来事を思い出したのか彼がさっと視線を泳がせる。隠しようもなく目元が赤いのは、少しは意識してくれている証だろうか。
「そんなつもりは、ないって言ったよね」
「では他に何か? ……ああ、一方的にされるばかりでは殿方のプライドに傷が付くという事であれば、今度は殿下の方から? 甘んじてお受けしますけれど」
「…っ、そう言う、事じゃなくて! からかうのは止しなさい」
 たかだか小娘の言動一つで狼狽えてみせるその反応は、王子として素直すぎる。けれど誰もが当たり前に経験する事をせずにこの年齢まで成長してきた彼の姿は、ひどく貴重なもののようにも感じる。
 今度、自然と零れ出たのは苦笑でも皮肉でもない、愛しい物を愛でるような小さな微笑だ。ふっと綻ばせたその笑みにエアロスが口を噤む……その一瞬の間を縫うようにコーデリアは歩き出した。
 エアロスに背を向け、彼の前から立ち去る形で。
 今度はもう引き留める声は聞こえてこない。遊歩道を抜ける道を辿るように歩き続けてしばらく、自分を見送るエアロスの姿が完全に見えなくなったところで、一度だけ足を止める。
 持ち上げた指先で自分の唇の表面を辿る。伏せた目元に宿る小さな熱と、己の唇でごく僅かな間だけ感じた感覚に、自嘲しながら目を閉じた。



 結局立ち去るコーデリアを引き留めることも、有用な話をすることも出来なかったエアロスが、その後向かった先は王宮の自室ではなく王都の、ファルミナ伯爵邸だった。
 先触れのない、それも王子の突然の訪問は相手を大層驚かせてしまう不躾なものであるが、その訪問先の相手が気心の知れた親友となれば、多少の事は目を瞑って貰える。
 ファルミナ伯爵令嬢と婚約したマティアスが、既に伯爵家に身を寄せて生活拠点を移していることは周知の事実だ。
 シーズンオフの間も伯爵家の領地と、生家である侯爵家の領地とを行ったり来たりして、今年の挙式の準備の為につい先日、例年よりも早い時期に王都へ入ってきた事も彼との間で交わす手紙で知っていた。
 そうでなければ伯爵家も侯爵家もまだ領地にいる頃だったはずで、エアロスは自分の胸の内に抱えた悶々とした思いを誰に打ち明けることも出来ずに懊悩するだけだっただろう。
 頼るべきは信用できる友人である。人生においてそうした友人が何人も存在するわけではない、まして自分のように最も社交的に振る舞う時期を人目から遠ざかって過ごして来た人間にとっては尚更だ。
 突然の王子の訪問にやはり伯爵邸を騒がせてしまったようだが、そこはさすがはファルミナ伯爵家である。執事は冷静に王子の訪問に応対し、ファルミナ伯爵本人は現在不在であるが、娘婿となる予定のマティアスは在宅していることを告げ、速やかにサロンまで案内してくれた。
 いくらもしないうちにサロンへと現れたマティアスの姿にホッとした。エルシアもその場には同行してきたが、何やら男同士での話があるようだと察したのか、挨拶だけ残して席を外してくれたことも有り難い。
「久しぶりだな、アーロン」
 サロンへやってくるなり、ソファに腰を降ろすこともせずに突っ立ったままのエアロスへ声を掛けながら、その手を差し出してくる。そのまま支えるように腕を取られ、案内されたのはソファではなくその隣に用意された座面が少し高い位置にある椅子だ。
 エアロスの足ではソファは少し低くて、座るにも立ち上がるにも少々辛い。しかしそれを口にした事はない、いちいち口にして変に気遣われるのは嫌だったし、自分が改めて人よりハンデを持っていると自覚させられることも嫌だったからだ。
 けれどマティアスはそうした自分の身体の不都合に必要以上に気を使うでもなく、当たり前のように自然な動作で行ってくれるので、不思議と不快に感じることは無い。それは彼が医者として多くの患者と触れ合ってきた経験があるからだろうか。
 患者のプライドを傷つける事がないような振る舞いを既に身に付けているようで、それもまたエアロスには有り難い存在である。
「急に押しかけてごめん、今は大丈夫だっただろうか」
「良いよ、気を使わなくても。都合が悪いときにははっきりそう言うから、いつでも気軽に訪ねてきてくれ」
 そうマティアスが口にしたところで、メイドが茶菓子を持ってやって来る。
「ありがとう」
 手を借りれば、相手が使用人であろうと必ず一言礼を口にするマティアスに、メイドはどこか誇らしげに胸を張りながら一礼すると、静かにその場を立ち去っていった。エアロスが口を開いたのはサロンの扉が再び閉ざされてからだ。
「随分、伯爵家に馴染んでいるみたいだね」
「もう結構な期間を世話になっているからな。正直実家にいるより、こっちにいる方が長いから」
「両親やエルドラン卿は何も言わないの?」
 マティアスの兄であるオズワルドは、昨年の晩夏に正式に父親から家督を継いでいる。この場合、エルドラン卿とは父ではなく兄を指す。
「兄さんはもう諦めているみたいだな。母さんには心配させているようだから、時々診察を兼ねて顔を出すようにはしているけど。父さんはどうだろう、まあくれぐれも失礼な真似はするなと時々釘を刺すような手紙は届くよ」
 それでも色々とあった息子が元気で過ごしてくれればそれが何よりだと考えてくれているのは、言葉にされずとも承知しているつもりだ。ここまで自由にさせてくれていることを、自分なりに家族には感謝していると、そう彼は言った。
「それで?」
「えっ?」
「俺の近況を尋ねに、わざわざやって来たわけじゃないだろう? 何かあったか?」
 うっ、と言葉に詰まった。椅子に座りながらも、手にしたままの杖の柄を握り締めながら、その瞳を伏せる。学生時代から再び交流を持つまでマティアスとの間には九年というブランクがあるが、彼の言動はそんなブランクをまるで感じさせない。
 先を促すように静かな表情のまま見つめてくるマティアスの視線の前で、エアロスは小さく溜息をつくとその口を開いた。
「実は、少し困っていることがあって」
 コーデリアの名を口にすると、すぐにマティアスも、ああと頷いた。多くの貴族達が未だ知らないままだが、エアロスとコーデリアの間に幼い頃交流があったことを彼は知っている。お互いに相手に少しばかり複雑な感情を抱いている事も。
「コーデリアの今の立場を思えば、彼女のしようとしている事が判らないわけじゃないんだ。ただ、ひどく危うく見えて仕方なくて」
 他の令嬢よりコーデリアは聡い。その判断も度胸もそこいらの軟弱な青年貴族よりよほどしっかりしていて、美しく艶やかなその外見に似合わず強い意志を持つ娘であることはエアロスも承知している。
 彼女の置かれている立場は誰が見ても理不尽な物のように感じるし、そうした立場に甘んじてその他様々なものに埋もれて消えてしまうのは酷く惜しいとそう思う。出来れば彼女は彼女の能力が発揮できる場で幸せになって欲しいと思うけれど……今、エアロスは彼女のその聡さが少し怖い。
 その賢さと度胸の良さで、自ら無慈悲な獣の前に身をさらそうとしているように思えてならなくて。こんな風にどこか恐ろしく思うのにはもう一つ理由がある。
「……彼女が、ひどく焦っているように思えて仕方ない」
 とにかく早く結果を出そうとしているように思える。やはりそれも彼女の立場を思えば仕方がない部分が大きいのだけれど。
 男とは違い女である彼女には物理的に時間がない。彼女自身が最も価値ある物として協力者に提供できる物が、その身であれば尚更にだ。
 これまで彼女が公爵家で粗雑に扱われながらも、不本意な結婚を命じられずに済んだのは、そうした娘に対して父の公爵が多少なりとも後ろめたさを感じていたからなのかも知れないが、彼女の一九という年齢を考えればそれももう終わりだろう。
 昨年はアドヴァンス侯爵とのロマンスも囁かれ、そのまま侯爵家へ嫁ぐのであれば家の為にも良いと見逃して貰えていたのだろうが、そのロマンスも終わりフリーとなった娘を父親が放っておくとは思えない。
 そうした父が何らかの行動を起こす前に、コーデリアは自らの判断で自分に最も有利な相手を夫にしようと考えているらしいのだが……そう簡単に思うように事が運ぶだろうか。
 エアロスには彼女が自分の望みを叶えるよりも、狡猾な獣に身も心も食い散らかされて終わるような、そんな幻が頭に浮かんで消えてくれないのだ。
 公爵家の家督を奪う、そんなコーデリアの目的に賛同する者よりも、コーデリアを騙して彼女を良いように操り、公爵に貸しを作ることをよしとする者の方が遥かに多い気がする。
 確かにモンスリーン公爵の評判は社交界ではもう一人の娘のフランチェスカ共々、散々な物ではあるが、権力は権力である。公爵家を正そうとする義憤に燃えて危険な橋を渡るより、その権力の前におもねる方がずっと簡単だ。
 また、父親の公爵も娘の行動を把握すれば黙ってはいないだろう。さすがに実の娘をどうこうするにはあまりに外聞が悪すぎるので命の危険がどうのと言う程の事態にはならないだろうとは思うが、蝶の羽をむしるようにその自由を奪い、生涯軟禁するくらいのことは容易い。
 その可能性はコーデリアだって充分想像が付くだろうに、何故か彼女はあまりそうしたリスクを深く考えていないように思える。いや、あえて考えないようにしているのかも知れない、考えてしまえば動けなくなるからと。
 どうしたら良いのだろう。最近ずっとエアロスの頭を悩ませているのは、彼女の事ばかりだ。
 そうしたエアロスの告白を受けて、それまで黙って話を聞いていたマティアスが苦笑しながら、静かに口を開いた。
「それほどお前が彼女の事を心配しているのであれば、俺は取る行動は一つしかないと思うけど」
「それは……」
「お前が彼女の夫になって、守ってやれば良い。守ると言うことは何も物理的に剣を振り回したり、銃を構えることばかりではないだろう。幸いお前にはそれが出来る身分と力がある。王子の妃ともなれば、容易く陥れるような真似は出来ない。上手く立ち回れば、彼女の望みを叶えることも出来るだろう」
 俺がお前であれば、そうしている。
 そう続けるマティアスの言葉に唇を噛んだ。確かにその通りだと思う、ただ心配するなら誰にでも出来る事で、本当に何とかしたいと思うのなら行動しなくてはならないと。
 先日会った時のコーデリアの姿が蘇った。
 美しく艶やかで、誇り高い公爵令嬢。どこで、誰が見ても彼女の事をそう言うだろうけれど、エアロスの目にはひとりぼっちで佇む頼りなげな少女のようにも見える。
 出会ったあの頃の時の彼女と同じまま。
「……コーデリアにも、そう言われたよ。夫になってくれないか、それが一番都合が良いって」
「なのにこんなふうに悩むってことは、申し出を断ったんだな」
「……」
 明確に断ったわけではない。でもそんな結婚は嫌だと告げた言葉は、断ったも同然だし、コーデリアもそう受け止めたことは間違いない。
 そのまま沈黙がどれほど落ちただろうか。不意に、マティアスが言った。
「男って馬鹿だよな。一番優先させなければならない事があるって判っているのに、変なプライドが邪魔をしてそれが出来ない時がある」
「………」
「都合が良いから、ではなくて、あなたがいいからと言ってくれれば、答えもまた違ったのに、なんてね。違うか?」
 図星を突かれて、何も言えなかった。あの時確かにそう思ったのだ。
 都合が良いから。そうではなくて、王子としての力や、王家の威光がどうのとか言うのではなくて、エアロス自身を求めてくれる発言をしてくれたら……多分自分はあの場で頷いたのにと。
 彼女が自分に対してそんなことを求められるような努力など、何一つしてこなかったくせに、これまで彼女がひとりぼっちでも放りっぱなしだったくせに、そんな都合の良いことを要求する自分に自己嫌悪した。
 自分もそれどころではなかった、心のどこかでは気に掛けていた、数少ない公式の場に出たときはいつもその様子を伺っていた……そんなのは全てただの言い訳でしかない。
 どんなに心の中で考えていても、行動に出さねばそれは存在しないも同然だ。
 頼って欲しいと思う。でも頼って貰うには、それ相応の信頼関係が必要だ。
 彼女の中で自分は素直に頼れるだけの存在では、きっとないのだろう。それを認める事が、何故だかひどく辛い気がして、ただただ重い溜息が唇の隙間から零れ落ちていく。
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