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R18折れぬ翼で 作者:逢矢 沙希

本編

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第四章 海辺の出会い 4

 再び目を覚ましたのは、自室のベッドの上でだ。
 自分は一体どうしたのだっけ。
 そんなことを考えながらぼんやりと寝台の天蓋を見つめていると、エルシアが目を覚ましたことに気付いたらしいセシルがすぐさま側に近づいて、顔を覗き込んでくる。
「エルシア様……! ご気分はいかがですか、どこかお辛いところはございませんか?」
 問われて、自分の身体に意識を向けて見る。
 胸を塞ぐような気分の悪さと、全身が鉛のように重く感じる程身体は疲れていたが、それ以外は特別変わった事があるように思えない。
 それよりも、自分の顔を見つめるセシルの表情の方が気になる。酷く思い詰め、強ばった表情だ。ここ最近は随分落ち着いて来てそんな表情を見せることも少なくなってきていたけれど、王都の屋敷で閉じこもってばかりいた時には良く目にしていた、あの時の顔。
 つまりはエルシアを心配して、同時に自分を責める顔だ。
「……そうね……あなたが、泣きそうな顔をしていることが辛いわ」
「……っ…」
 とたんセシルが声をつまらせる。こんな風に心配をさせているのは自分だと思うと、酷く申し訳ない。瞳を伏せて肩を震わせる彼女の手を、せめて握り締めてやろうと掛布の下から重たい腕を引っ張り出し、持ち上げたところで気付いた。
 寝間着に身を包んだ自分の身体。その持ち上げた腕に白い包帯が巻き付けられている。
 逆の腕を持ち上げてみるとそちらも巻いてある包帯の位置こそ違えど、同じように手当を受けた跡があった。
 意識してみると、今頃になって身体のあちこちがずきずきと鈍い痛みを訴え始める。特に痛むのは脇腹の部分と、右足だろうか。
 これはどうしてだろうと自分の記憶を探ろうとして、唐突に頭の中に蘇るものがあった。
 慰霊碑が建てられた崖の上。
 強く吹いた風と、花と共によろめき浚われた身体。
 舞い上がる花と、セシルの悲鳴。
 ああ、そうか。
「………私、海に落ちたのね」
 呟きながら、まるで他人ごとの様だと思ったのは、その時の記憶を殆ど残していないからだ。辛うじて覚えているのは今、先ほど蘇ったいくつかの断片的な光景と、あとは……
 自分を、見下ろしていた誰か。顔も覚えていないのに、その瞳が晴天の青空のような色だったことはぼんやりと覚えている。
 きっと若い男性だったのだろうと思うけれど、不思議なことにそう考えてみてもいつもの身を縛るような恐怖は込み上げてこなかった。
 あれから、自分はどうしたのだろう。いや、手当を受けて自室で休んでいるのだから、誰かが助けてくれたのだと思うのだが、その時の記憶がごっそり抜け落ちていて判らない。
「……誰が、私を助けてくれたの? セシル、あなた?」
「…いいえ、レイニー先生です」
「レイニー……」
 その名前を聞いたのは最近だ。数日前、マイラから確かに聞いた。
 ビエスタの悲劇で生き残り、その後この町で医者をしているという……そして、あの慰霊碑に花を捧げていたその人。
「私が崖下に降りたときには、もう先生がお嬢様を海から引き上げていらっしゃるところでした。丁度あの慰霊碑から下って、崖下を通りがかったときに上からお嬢様が落ちてこられたそうです」
 それはさぞ、彼も驚いたことだろう。突然頭上から見知らぬ少女が海へと落ちて来たのだ、何事かと驚きつつも放っておくことも出来ず、急いで海へと飛び込んでくれたらしい。
「先生がいて下さって、幸いでした。私だけでは、もしかしたら間に合わなかったかも知れません」
 すぐに屋敷へ駆け戻り、近くにいた従僕を捕まえて崖下へ続く道を駆け下りていったが、それでも助けられたかどうか。セシルを始めとする屋敷に仕えている使用人達は、殆ど泳いだ経験がない。
 唯一マイラの夫が泳ぎが達者だが、丁度その時彼は近くにはいなかった。
 家の別の者にそのマイラの夫を探すよう言いつけて、自分たちはとにかくエルシアをどうにかして救い出さなければと駆けつけたその先で、全身ずぶ濡れの青年が海の中からエルシアを抱えて浜へと戻ってくる姿を見たのだ。
 エルシアは、随分と運が良かったのだとセシルは言う。
 崖下にはいくつもの岩礁が顔を出し、海面下にもごろごろと岩肌から突き出ている。本来なら落ちて溺死する以前に、頭や全身を強打して即死していてもおかしくない。
 だがエルシアが落ちた場所は丁度その岩礁が途切れ、波で深く抉られている場所だった。
 数カ所、手足や身体を岩にぶつけて傷や痣になったところはあるが、どれも軽傷で、頭や骨を砕かれるよりは遙かにマシだ。
 また落ちて海面に叩き付けられた衝撃ですぐに意識を失ったのも運が良かった。もがき暴れて、余計な水を飲み込まずに済んだし、助け出される際も暴れて助けに来た人間もろとも海底に引きずり込むような、そんな結果にはならずに済んだから。
 助け出してくれた人が、こうした水難救助に長けた医者であったというのも幸運と言うしかない。
 エルシアに水を吐き出させ、失っていた呼吸と意識を取り戻させたのも、身体の傷や痣の手当を行ったのも全て彼だと言う。
「そう…」
「今夜は傷とショックのせいで熱が出るかも知れないと、痛み止めと熱のお薬を頂きました。しばらく安静にするようにとも……明日、また様子を見に来て下さるとのことですが……大丈夫ですか?」
 大丈夫か、と言う言葉に含まれた意味を正確に察して、エルシアは一瞬言葉を詰まらせる。セシルが心配そうに大丈夫かと問うのは、傷や具合も心配だが、それよりも相手がやはり若い青年であるからだ。
 意識を失っていた間ならともかく、意識があるときに身体の様子を伺われ、手を触れられることにエルシアが耐えられるかどうか。診察であると判っていても、見知らぬ青年相手にそれが辛いのなら、断って別の医者を探しても良いとセシルは言外に匂わせる。
 考えれば確かに小さくない怯えが走る。
 だが……
「お医者様だもの……大丈夫よ、お願いしましょう。それに、助けて頂いたお礼も言わないと…」
 たとえ他に医者を探したところで、医者の殆どは男性だ。女医も全くいないわけではないらしいが、エルシアは今まで見たことがない。
 多分随分希少な存在なのだろう。
 そんな女医を探してここまで連れてくるには相当の時間と手間が掛かる。
 ただでさえ世話を掛けていると自覚があるのにこれ以上そんな手間は掛けられない。強引に連れてこられる女医も迷惑だろう。
 それに……いつまでも身内や使用人以外の男性と、切り離した生活を続けていられる訳ではない。一生屋敷に閉じこもって生活するならともかく、これから先の事を思えば、時間が掛かってもいつかは乗り越えていかなければならない壁だ。
「でも、セシルはすぐ側にいてね? 二人きりにはしないで」
「もちろんです、出て行けと言われてもおそばにおります」
「お父さまは?」
「エルシア様がお目覚めになられるのをずっとお待ちになっていますよ。お呼びして参ります、あと薬を飲んで頂く前に少しだけでもスープを飲んで下さい。それも、お持ちしますから」
「ありがとう。……セシル」
 一礼して部屋から立ち去りかけていた侍女へと声を掛ける。すぐに立ち止まり顔を上げた彼女に、寝台に横になったままの姿勢でエルシアは柔く微笑んだ。
「ごめんなさい、あなたにも心配を掛けてしまったわ。今回の事は、私の不注意よ、あなたのせいではないわ。あまり気に病まないで。お父さまにもそうお伝えしておくわ」
 するとまたセシルはその表情を一瞬泣きそうなそれに変え、けれど寸前でぐっと堪えるように様々なものを飲み込んで、再び一礼すると今度こそ部屋から出て行く。
 彼女の姿を見送って、小さく吐息を吐いた。
 関わるつもりはなかったのに、自分の不注意のせいで予想外の結果になってしまっている。明日顔を出すという医者は、どのような人だろう。
 エルシアが彼について知っている事はほんの僅かだ。ハニーブラウンの髪、いつも白衣を身につけていること、若いけれど町の人からは慕われている医者だと言うこと、そしてビエスタの悲劇の被害者。
 そこに、青空のような瞳の持ち主だと、情報を一つだけ書き加える。
 どうと言う事のない、本当に他愛のないことばかりだ。
 正直に言うと、会うのは怖い。会わずに済むならそうしたいと、臆病な自分の心が今からでも遅くないと囁く。
 だけど、助けて貰った礼は人として、やはり伝えなくてはならないだろう。きっと父がそれに見合った謝礼をしているはずだが、それとこれとはまた別の話だ。
 それに…きっと、エルシアが一度意識を取り戻したとき、強く握り締め爪を立ててしまったのは多分彼の手だ。傷になってしまったかも知れない、それなのにずっと手を握り返し、背をさすって介抱してくれていた。
 記憶なんて曖昧なのに、瞳の色と握り返してくれた手の感触は覚えている。それらを思い出すと、多分会っても大丈夫なのではないかと、何の根拠もないけれどそう思う。
 とにかくは、礼と謝罪を。
 それ以上関わる事があるかどうかは、その後考えれば良い。
 それに今考えようとしたとしても、無理だっただろう。父との面会を済ませ、軽食と薬を口にして眠りについたその夜、やはり発熱した。薬のお陰か、それほど酷い発熱ではなく、朝には随分落ち着いていたけれど、頭はぼんやりとしてあれこれと複雑な事を考えることが難しい。
 結局朝からずっと、寝台に横たわったまま休んでいたエルシアの元へ、その人がやってきたのは昼を過ぎた頃だった。
 セシルに先導されて部屋へと訪れたその人は、記憶にあるとおりのハニーブラウンと青空のような青い瞳、そして一瞬はっと目を奪われてしまうほど、品の良い端正な顔立ちに、穏やかな笑みを浮かべ。
「医者をしている、マティアス・レイニーと申します。はじめまして…かな? ビエスタの港町へようこそ、お嬢様。あなたがこの町を気に入って下さると嬉しいですよ」
 過去に酷く辛い経験をした人とは思えない程、朗らかな声でそう告げた。
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