収賄は常態化しているのか?
2016年1月21日、『週刊文春』のスッパ抜きによって、甘利明前経済財政・再生相の金銭授受問題が降って湧いたように起こりました。会見にて甘利氏は「覚えていない」「罠(わな)にハメられた」などの発言を行ったことで、さらに炎上。
―― 100万円もの大金を受け取っておいて覚えていないわけがない!
―― 実際に賄賂を受け取っておいて罠もヘッタクレもないだろう!
こうして問題発覚からわずか1週間後の2016年1月28日、甘利氏は大臣辞任を発表しました。
しかし筆者は、「覚えていない」「罠にハメられた」という甘利氏の言葉は、彼のウソ偽りなき素直な気持ちなんだろうな、と感じます。もし贈収賄が“日常化・常態化”しているとするなら、これらの言葉が自然に出てきてもおかしくないだろうと思うからです。
「たかが100万単位の収賄ごとき日常茶飯事」だとすれば、甘利氏が「覚えていない」のも道理。「3年前の云月云日、夕食に何食べたか」と問われて答えられないのと同じレベルで、「覚えていない」に違いありません。
とすれば、こんなわかずな金額の収賄が、何年もたった今になって表沙汰になるなんて、「何かの陰謀が巡っているに違いない」という疑念が、甘利氏の心に湧いてきても不思議ではありません。
ひと昔前、鈴木宗男議員の収賄事件がマスコミをにぎわせたとき、議員の間で動揺が走ったと言います。
―― え!? あれやっちゃいかんのか!?
それほどまでに収賄は常態化しているということです。
こうしたニュースが報道されるたび、国民はこれに怒りをぶつけ、感情的に徹底糾弾する声が高められます。しかしながら、そもそも政治と贈収賄は切っても切り離せない関係にあり、個人的にはそのこと自体にはあまり怒りを感じません。
問題は贈収賄自体ではなく、別のところにあります。今回はこの点について、歴史的背景から見ていくことにいたしましょう。